しゅみは人間の分析です

いらんことばかり考えます

週報 2023/02/05 朝に弱い人のための粥, 言葉とリズム

近況

少し春が近づいた。立春である。あれほど寒かったのに、今週は十度まで上がる日もあった。ありがたいことである。代わりに寒暖差に悩まされている。自律神経がおかしい。この時期、気候が安定するまでは神経がおかしくなるものだ。狂わないよう休み休みやっていきたい。

生活もいったんリセットされてしまった。年始からコミティアに向けて走り、ゴールしたと思ったら雪でめちゃくちゃになり、そして厳冬が終わった。今週になって落ちついてみると余暇で何をしていたのか思い出せなくなっていた。何してたんだっけ?と思いつつとりあえず本を読んでいる。

できごと

  • TwitterAPIが有料になりタイムラインは大混乱。職場も影響を受けている。でもよく考えると、あんな複雑なシステムが無料なのはおかしい。
  • 腰に不穏さを感じ机を高くした。運動はいつも不足している。
  • ブログをPROプランにして独自ドメインをつけた。妻氏サークルがmendako.landはてなブログで公式HPを作った影響。
  • なんで自分は大学院を移る判断ができたのか不思議に思った。京都は合ってるから正しかったが、何か予感でもあったのだろうか。
  • よく水を飲み忘れるので必要な量を計算した。3.3L必要で、飲むべき水は1.7Lだそうな。
  • ピアノの上達につまらない練習曲が近道なのを理解する。素振りは大事だ。

朝に弱い人のための粥

朝食にずっと悩んでいた。夜型で冷え症な私は起きて腹が減っているということがまずない。一時間経ってようやく食べようかな、と思えてくる。でも食べないわけにはいかない。やっぱり食べたほうが仕事は捗るし、休日も早めにエンジンがかかる。だが、身体はいらんと言っている。無理に食べると胃腸はおもーくなるのだった。お腹を犠牲にして頭を動かしていた。

キムチは粥の色が悪くなるのでやめたほうがいい

そこで粥である。粥は病人食であることからもわかるように消化がよい。それに暖かい。冷え症にとってはこれが重要だ。香港や中華文明圏で粥が好まれるのは、粥が身体を温めるからである。中国医学(漢方)では特に冷えを嫌う。
料理としてシンプルなのもよい。水、米、塩だけでおいしくなる驚異的な料理だ。うまみ系調味料使ってないんだけど……。これくらいシンプルで味がよい料理はあまりない。膾くらいだろうか。
ただ、調理に時間がかかる弱点がある。米から煮ると三十分くらいかかるし、丁寧に、おいしくしようと思ったらもっと煮こんだほうがいい。

介護用途の需要が高い製品らしい

解決策は自動化だ。予約して朝起きたら炊けているようにする。もちろん炊飯器でよいのだが、我が家はお釜派で炊飯器がなかった。調べてみると、象印がお粥専用の家電を出していたのでこれを買った。小さくてシンプルな機構で、しかも安い。粥の味もよい。

こうして毎朝お粥を食べるようになった。どんなにだるくてもなぜか粥は食べられる。お腹に優しいのに腹持ちはして、0.3合で三時間くらいはもつ。卵を入れてもよい。お粥メーカーには保温モードがあるので、起きたらとりあえず卵を落としておけばよい。5分くらい放置するといい具合の半熟になっている。

粥を食べる生活をもう十日ほど続けている。今のところたいへんうまくいっている。朝に弱い人にはおすすめだ。

『戦後日記』を読んだ

三島由紀夫の日記を抜粋したエッセイめいた本。内容は文学評論とライフイベント、日常の様子。
我々は彼の壮絶な最期を知っているので、ドキドキしながら読み進めることになる。三島事件に近い時期には不穏なことも書かれていた。どうも三島は「侍」になりたかったらしい。

おもしろかったのは習俗と言葉の変化。70年も前なので生活や言葉の使い方が違っている。当時のセレブだった三島は、何かとキャバレエ、ナイトクラブ、映画館、劇場へ行く。娯楽のバリエーションが少ないなと思った。
挙式後すぐに旅行へ出かけるシーンもあった。当時の新婚旅行は式場をあとにしたその足で行くものだったのだ。もちろん今もそうしている人はいるかもしれないのだが、私にとっては新鮮だった。

言葉の違いはたくさんあった。日除眼鏡、完全徹夜、颱風、眼鏡の玉、数奇(さっき)、不振(スランプ)、だあとなる、意識家、内証にする、など。

いちばん気にいった言い回しは178ページの「金環食。(美しい名だ!)但し東京では部分食。(情けない名だ!)」である。

www.chuko.co.jp

言葉とリズム

創作(妻氏の同人活動)に関わっていると、名前を考えることがある。キャラクターの名前もそうだし、ペンネームなども。面倒に思っててきとうな名前をつけることもあるが、先日は真剣に取り組んだ。

 

よい名前とはなんなのだろうか?名の意味も大事だが、音にも気を配らねばならない。口に出して発音しやすいこと。音の高さ、アクセントが頻繁に上下する名前は言いにくい。高さの変化は少なく、シンプルに上がって下がる音「↗↘」が理想的だと思う。
また、可能ならば七五調になっているとよい。私の幼少期の知り合いに「いいのかな」という名前の人がいた。五文字でリズムがよく濁音もなくて発音しやすい。それにインパクトもある。一度聞いたら一生覚えていられる名前だ。

と、よい名前の条件を考えたのはいいが結局思いつかなかった。具体的によい音を見つけるのは難しい。これは詩作の難しさである。その場としては諦めて先送りすることになった。

英語のリズム

日本語のリズムとアクセントについて考えたところ、英語の事情が気になった。調べてみるとこの動画が見つかった。

www.youtube.com

曰く、アクセントではなくストレスと呼ぶのが一般的。しかしストレスといっても音を大きくするのではない。高くする。ここに日本語と同様の高低変化があり、この点においては日本語と変わるものではない。

だがリズムが違う。全然違う。英語にはリズムがあり、しかも裏拍である。「ツッタンツッタン」のリズム*1。単語のアクセント(ストレス)のところで拍が乗り、音が長く、高くなる。この構造が発話全体を支配している。

諸言語のリズム

動画では日本語にリズムはない、と言われていたが、そんなことはないと思う。リズムがなかったら音楽文化が発生しないはずだ。ただ、英語のようなわかりやすい裏拍ではなく、休符がリズムを作っているのだと思われる。これはフランス語とも似ていて、フランス語はリズムグループ末尾で音が上がり、休符が入る。日本語は文節が終わるからといって音が上がることはないが切れ目でひと呼吸置く。

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図にするとこんな感じである。英語は短いリズムのループで息が切れるまで喋るのに対して、フランス語と日本語はなんらかの塊で喋って休符を挟み、また喋りだす。リズム構造がぜんぜん違うので、単純に比較して論じられるものではないが、英語の特殊性はよくわかる。

リズムの習得

我々は母語それぞれのリズムを体得しており、言語固有のリズムにハマる音を心地よく感じる。12月4日週報に「文章はリズムだ。お前にあったリズムを見つけろ」と書いたように、たしかにリズムは各人の個性によって変わるものではある。しかし、それでも外せない地盤はあるはずで、共通基盤がなければ相互理解ができないはずだ。そのリズムの基本構造が古典から学べるのではないか、と述べたのが1月15日週報だった。古典のリズムが洗練されているのは、千年生き残ったテキストという強さもあろうし、当時は和歌が大事だった、というリズム全盛時代だったのもあるだろう。

リズムというものは身体に叩き込むしかない。リズムがそうなっているのに根源的な理由がないからだ。犬がinuでありdogであるのと同じである。理屈ではないし、概念を覚えるものでもない。ただ真似をして覚えていくしかないだろう。できれば、よいリズムをもった上手なテキストを覚えるのがよいと思う。いいものをたくさん見ることが、真似、ひいては創作の肝であるから。

私はひとまず日本の古典を読もうと思う。英語やフランス語のリズムにも興味があるのだが、さしあたり必要性は乏しい。まず足元に何があるのかを確かめてみたい。

週報 2023/01/29 考える生活, 変わらないところを探し他は捨てる

近況

大雪でみんなめちゃくちゃになっていた。京都では雪が降っても積もらないことが多く、これほど積もるのは五年に一度くらいである。備えはないので当然混乱する。
私の労働・生活リズムも乱れ、何もできていないのに疲れてしまった。しかも寒さで体力が枯渇している。土曜日はぐったりして昼寝をしていた。
こんな時は温かくて甘いものを飲むのがよいと思う。砂糖を入れた紅茶とかココア。コーヒーにはいれない。ブラックでしか飲まない。

できごと

  • 関西コミティアで同人誌を頒布した。盛況だったのはよかったが、第1巻を売り切れにしてしまったのが悔やまれる。
  • 妻氏のキャラクターデザインでは、キャラの目が死んでるのが大事なようである。作者の人間観がこういうところに出る。
  • スナネズミ氏が餌を食べなくなったと思ったら、妻氏の手を嫌っただけだとわかった。捕まえて手に載せているとこうなる。
  • フォローしている哲学者のシンポジウムに見覚えのある名前があると思ったら、サークルの同期だった。教え子だったとは。
  • ピアノは指に意識を向けるのではなく、音をよく聴くのが大事だと理解した。
  • 偉い人相手のコミュニケーションでは、数字・ルール・概要でしか伝えられない。どれも嘘の報告をする余地はあるが、嘘をもとに施策を打たれたら困る。しかし骨抜きにできないかは考え続けてよい。

テキストサイトSNSの原型があった

yaginome.jp

DPZ林さんのサイトを読んでいる。少なくとも97年からあるもので、テキストサイトと呼ばれていたインターネット黎明期のコンテンツである。
林さんは、そのサイトにツイートみたいな短文を多数載せていた。最初は数日おきの更新だったのが、そのうち一日に何度も更新するようになっている。しかもHTML手打ちで、である。SNSの萌芽はこの頃からあったのだ、と思った。

飛蚊症の発見

飛蚊症という言葉が人口に膾炙していない時代

98年5月29日の投稿に飛蚊症のことが書かれていた。明らかに飛蚊症のことが言われているのだが、飛蚊症という言葉は使われていない。おそらく、この言葉はインターネットによって広まったのだろう。98年はGoogleが設立された年である。まだ検索エンジンは普及していない。おそらく他にもこのような言葉はあり、現代の語彙にはインターネットの影響が強く働いているだろう。

大雪

考える生活

イデアの出るとき

いいアイデアが出ることもあるが、間違いも多い。メモを見直したら意味がわからなくて困る。私が夜型なだけで、朝型な人はそうでもないかも。

散歩

「わけがわからない!」となるまで考えてから歩き始めると一瞬で解決策が降ってくる。

風呂

よく思いつく場。アイデアの質も良く、あとから批判的に検証しても正しいことが多い。湯船からあがったあとに思いつくことが多い。お風呂は最高。アイデアは出るし、集中して本を読む場でもある。

つまり?

副交感神経と交感神経が切り替わるタイミングで思いつくらしい。

考えるために

入力

読んだこと、聞いたこと、体験したことの範囲でしか考えられない。情報とはそういうものである。本による入力がもっとも効率的である。

テキスト

紙とペン、あるいはスマホ、PCのエディタが必須である。ただ連想したことを文章で書き続ければいい。自動的に連想が止まるまで吐き出し、止まったら論理的になるよう整える。テキストというメモリがないと複雑なことは考えられない。

ユーモア

冗談のセンスとかではなく多面的な視野のこと。
千葉雅也氏の『勉強の哲学』の用語である。アイロニーとユーモアが対立する概念で、アイロニーは狭い視野で深く考えることである。アイロニーだけで考えると、現実から離れていって病むだけである。
ユーモアがいちばん大事。でも、ユーモアだけだと深みが出ないので、アイロニーとユーモアをバランス良く使う。すると現実的なのにおもしろいことが考えられる。これはアイロニーとユーモアの弁証法であるし、『勉強の哲学』の結論でもある。

変わらないところを探し他は捨てる

SNSはてな匿名ダイアリーを見ていると、よく夫婦喧嘩の愚痴が流れてくる。たいていは「物をどこそこにしまうべきか」とか「バターナイフを都度洗うか」みたいな些細なこだわりが発端である。
生活上のこだわりが衝突する喧嘩の場合、その愚痴の本質は「自分は変わりたくない、相手が変わるべきだ」というメッセージになる。

一般的に、人間関係の問題を解決する方法は「自分が変わる」「相手が変わる」「環境ごと変える」の三択しかない。たいてい選ばれるのは解決せずに有耶無耶にする「先送り」だが、これは問題を解決していない。爆弾を埋め込んで将来またやり合うだけである。
「譲歩したら(自分が変わったら)負け」みたいな勘違いもある。どちらが変わるべきかは勝ち負けの問題ではないのだが、喧嘩に発展し対立するうちに負けられなくなるのだろう。

もっとも公平な解決策は「より無意識にやってしまう方を優先し、意識的にやっている方が行動を変える」である。
癖には変えやすいものから、ほとんど変わらないものまである。変えにくいものほど無意識にやってしまうもので、遺伝子とか数十年の蓄積で自動化された、理由の説明できない行為になっている。自動化された意識の及ばない行為は変えられない。自分だけど自分じゃない自分がそうしているのだ。誰しも、そのような変えられない癖を持っている。生活上の衝突で相手の無意識な癖に当たったら、意識的にやっているほうが譲るしかない。

喧嘩の種になるような癖を呪いのように思う人もいるかもしれないが、癖は単に性質である。性質が良いか悪いかという価値判断は、主観それぞれによる解釈にすぎない。それに、ある人の固有の性質は表現の特徴、スキル、魅力にもつながることが多い。癖は良くも悪くもはたらく。
また、自分に統制できない無意識的領域を居心地悪く感じることもあろうが、人間はそもそも動物である。身体活動のうち、意識が支配している部分のほうが少ない。変えられない性質、無意識があるという事実は認めてしまうのが楽である。自分の根本的な癖を見つけそれに依拠するのが「自分探し」のゴールであり、人生の幸福性の条件でもある。

もっとも、変えられない性質だからといって、開き直りすぎると良くない。無意識の仕業によって何か失敗をしたら、申し訳なさそうにはすべきである。喧嘩は態度で起こるので。

週報 2023/01/22 RSSで記事を集める, ピアノを再開した

近況

大寒である。一年でもっとも冷える時期。やってられないので、すべてを諦めてソファや布団で寝てすごしている。

今週は同人誌の締め切りがあった。妻氏の主催するサークルの新刊を作っていた。 新刊と言っても、自主連載している漫画を集めて本にするだけなのだが、ちょうど書きかけだった最新話の仕上げも重なって忙しくなった。でも、今回はかつてなくまともな進行で、深夜まで作業せずに入稿できた。次こそは早割りで作りたいものである。

ギャグ漫画、お楽しみください。https://seiga.nicovideo.jp/watch/mg712718

できごと

  • Tweetbotが死んでしまった。お墓もできている。
  • 妻氏がAirPods Proを洗濯してしまう。干したらなおった。
  • ダイソン球は完成せず。
  • 呼吸の大事さを思う。集中→呼吸が浅く→腸が止まる→自律神経わるく。
  • 京都はゆるやかな坂になっているのを実感。帰りの自転車がきつい。

ピアノを再開した

『ぼっち・ざ・ろっく!』の影響で、演奏もよいなと思った。素直に影響を受けるとギターやベースに手を出すところだが、ピアノにした。ピアノの経験があり、電子ピアノが家にある、という事情もあるが、それよりも一人の演奏で音楽として成立するかを重んじた。

弦楽器の音は好きで、ギター、ベース、バイオリンも魅力的なのだが、これらの楽器は一人で弾くより、組んだほうが(圧到的に)楽しい、という特徴がある。他方、ピアノは88個も鍵盤があって音域は広いし、ピアノ単体で複雑な音楽を演奏できる。楽譜もいっぱいある。人と組むのも、いや、組むからこそおもしろい、という話はあるが、私は自分のために弾ければそれでよかったので、ピアノにした。

十年ぶりに練習をすると、昔よりも正確に楽譜が読めるのに気づいた。十代の頃はあまり楽譜を読みとらずに、なんとなくで弾いていた。音の強さや長さ、タッチ表現はちゃんと楽譜に書かれている。なるほど、楽譜は音楽の「言語」であり、書かれたとおりに弾けば、音が再現されるのである。

楽譜がちゃんと読めるようになり、耳も肥え、好みの曲もはっきりしてきた。これなら独学でピアノを再開しても大丈夫だろう。ふだんは家の電子ピアノで弾き、たまに近所のスタジオにあるグランドピアノを借りて弾こうと思う。

twitterの衰退

twitterが衰退し続けている。非公式クライアントを禁止したのは、APIサーバーのコストが無視できなくなった、等の合理的理由があるのだろう。おそらく多数派のユーザーには影響がなく、移行を強いられたユーザーも時系列表示機能やリストを使えば、最低限同じ体験にはできる。古参ユーザーからすると劣化しているのだが、依然として多くの人が留まっておりプラットフォームとしては強い。twitterは情報流通の経路を握っており、人間関係のグラフデータ構造自体に価値がある。人々がなんとなくタイムラインを見続ける限り、このネットワークは金になるだろう。

しかし、twitterを脱出する人々も目立つようになってきた。万が一twitterが消滅したら人間関係が失われる。もう二度と連絡できなくなる人もいるかもしれない。そうしたリスク、あるいはその他不満のために、mastodon等への移住が起きている。私もmastodonでの生活を数年続けており、userstreamがなくなった第一次mastodonブームのときに移住している。その後数年間、mastodonで生活し分散SNSも善し悪しだな、と思うようになった。今はSNS自体を相対化し、 一歩引いたところから利用している。

SNSには大きく、二つの機能がある。知人の近況共有と、ニュースである*1SNSは、 DMやグループチャットと違って、「会話」をしなくても近況が得られる。この特徴は明確にメリットであり、SNSという専用のシステムを使う意味がある。ニュースは「バズった」「炎上した」「トレンドに入った」「よく記事が読まれた」等々の話題共有のしくみ、機能。正直なところ、SNSにおいてニュースがよい働きをしてきたかは疑問である。害の方が上回っていなかっただろうか。SNSでニュース・記事を見つけると、たいてい不快な感想、コメントがついてくる。 

RSSで記事を集める

近況を知るのはSNSでよいとしても、ニュースは別の手段で集めればよい、ということに気づいた。こうしてRSSを頻繁に見るようになった。Google Readerはもうないが、RSSリーダー自体はまだまだ生きているし、より便利になっている。

RSSリーダーはInoreaderを使っていて、ブラウザのタブに固定モードで表示している。一日に何回か、RSSリーダーのタブを訪問し、新着記事をながめる。気になったものがあれば、タブに開いておいてそのうち読む。基本的に流し読みをして、文章がわかりにくかったり、つまらなくなったらタブを閉じる。そう簡単によいコンテンツには出会えない。ひまつぶしだと思ってクオリティは求めない。たいてい、仕事や書き物、読書の助走として、やる気がないときに読む。

SNSにリアルタイム処理は必要なのか

RSSで記事を読むようになって、SNSのリアルタイム性は必要なのかな?と思った。mastodonTwitterを再現するために、たいへん負荷のかかる仕組みを実装している。一つトゥートを投げると、それがフォロワーのサーバーに書き込まれるのだ。一般に、書き込み処理はコストが高く、サーバー規模拡大の足かせになる。mastodonのsidekiqワーカーおよびプロトコルのActivity Pubに問題があるのは周知のとおりだ。

インターネットで情報を流すとき、その仕組みを作るソフトウェアエンジニアはしばしばPubSub(出版-購読型モデル)に遭遇する。PubSubをPull型で作るか、Push型で作るかはいつも議論になる。そして、たいてい正解は中間にある。PullとPushを併用する。twitterも、有名人のツイートはPullされ、小さなアカウントはPushする仕組みになったと記憶している。書き込み処理はコストがかかるから。

脱線した。問いは、SNSの同期頻度が高すぎるのではないか?である。どうせヒマつぶしにすぎない。近況共有のツールであり、もともとの名称はマイクロブログである。そして本質的な価値は人間のネットワークにある。リアルタイムである必然性はないのではないだろうか。もし、リアルタイム性を減じられるならば、システムをPull型よりに作れる。これは、RSSに近いものになるだろう。

*1:SNSは議論のツールとして民主主義が云々、という意見は無視してよい。ややこしい議論は対面でやったほうが効率的である。

週報 2023/01/15 古典に通ずると文章がうまくなる, 納得したことだけに従う

近況

連休の終わりの日、休みが終わることへの現実逃避としてDyson Sphere Programをはじめた。昨年のゴールデンウィークにもしていた。休暇を食いつぶす自傷行為である。

工場を作る道具を作る工場

これは道具屋筋と呼んでいる工場群である。工場を作るための道具を生産しているから道具屋筋だ。

Factorioをはじめとする自動化ゲームはコンベアを引き回して工場を作る。しかしコンベアを引くのはめんどくさい。どの自動化ゲームも中盤に無線輸送システムが使えるようになる。かわいいドローンたちが物資を積んで、工場の間を飛び回ってくれるのだ。Dyson Sphere Programにも、新たな種類のドローンが追加され上図のような工場を作る工場を作れるようになった。

月曜日にはじめたので、当然まだクリアしていない。労働の日常に戻ってもまだやっている。休暇で生活位相が二時間ズレたこともあり、生活はガタガタである。

できごと

  • 僧帽筋が意識できるようになり、より姿勢がよくなった
  • 関西コミティアの新刊に向けて作業をしている
  • 「語るな示せ」という標語を思いつく
  • RSSリーダーをタブに常駐させるとよいのに気づいた
  • 週報を手書き→OCRで書くようになった

2023年は忙しくなりそう

さいきんの感染状況と社会の反応を見るに、人々はコロナ禍を気にしなくなりつつある。オミクロン系統が最後なわけがないので、致死的な株ができて元に戻る可能性はあるし、後遺症や人が死にまくっている問題はあるが、「空気」として気にしなくなった。慣れてしまったのだ。私もコミケに行っているように、(覚悟をして)イベントに参加するのがふつうになった。マスクをして人との距離に気をつかえばそれなりに感染回避できることもわかってきた。このまま「with コロナ」が 実現され続けるだろう。

こうしてアクティブに動きまわる社会が戻ってきた。きっと今年は忙しくなるのだと思う。人々が動いてイベントを発生するから。イベントごとが好きな人が多いのは理解するが、私は今年も家でじっとしていようと思う。コロナ禍が云々ではなく、コロナ禍前から、土日は家で過ごす性格なのだ。でもまわりはよく動くようになるので、影響はあるし、受けてしまうだろう。だから今年は忙しくなる。基本的には家に居つつ、疲れない程度には付き合っていきたい。

Mendako Sphere Program

民俗学の旅』を読んだ

宮本常一『忘れられた日本人』を読む』を読んだ影響で、宮本常一の自伝『民俗学の旅』を読んだ。宮本氏も語りが上手で、読みやすく、文章も上手だった。これもなかなかよい本である。

特におもしろかったのは、文字の浸透と文明開化で、人々の話し方が変化したことである。

私が年寄りたちからいろいろの話を聞くようになったとき、明治維新以前のことを知っている人たちとそうでない人たちの間に話し方や物の見方などに大きな差のあることに気付いた。たとえば維新以前の人たちには申しあわせたように話しことばというよりも語り口調というようなものがあった。ことばに抑揚があり、リズムがあり、表現に一種の叙述があり物語的なものがあった。維新以後の人たちのことばは散文的であり説明的であり、概念的であった。そしてその傾向が時代が下がるにつれて次第に強くなる。知識を文字を通して記憶していくようになると、説明的になり散文的になっていくもののようである。こうした旅にもそれをはっきり知ることができた。(p109)

この傾向はその後も続き、現代人の言葉づかいともつながっているだろう。我々は概念的で、自分でも意味のわかっていない言葉を使う。20世紀はもっとも日本語が変化した100年に違いない。

古典に通ずると文章がうまくなる

宮本常一、細野善彦もそうなのだが、古典を専門とする人は文章が上手な傾向がある。これは別に定説ではなく、我が家で勝手に言われていることだ。他にも林望橋本治高島俊男などの例がある。我が家で「この人の文章は上手だね」という話になると、その著者はたいてい古典の教養がある。

おもしろく思って、ためしに徒然草を原文で読んでみた。すると、古典は文章の圧縮率が高く、短いセンテンスに多くの意味がこめられているのがわかった。なるほど、文章の圧縮率は大事である。意味が詰まっていると、ハイコンテキストで解釈が大変なのだが、反面、想像をする余地、楽しさがある。圧縮が極まると俳句や短歌になるので、テキストのコンパクトさは文学性とも関連があるのかもしれない。また、上の引用にもあるように、昔の言葉はリズムが大事にされていた。

リズムは大事だ。七五調の言葉をなんとなく覚えてつぶやいてしまうように、リズムのよい言葉は頭に入りやすく、残りやすい。皆、「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。」はなぜか覚えているだろう。リズムが大事なのは、喋りが減って読みが中心になった現代でも変わらない。多くの人は「内言」を使って読んでいる。

古典からは、今と変わらぬ日本語のリズムを習得できるのだと思う。高校生の私はこんな価値があるなんて知らなかった。センター試験の練習では平気で20点をとって、そのままにしていた。今になって、古典の大事さを認識して驚いている。でも、気づけてよかった。今年は日本の古典も読むだろう。

言語はリズムが大事なのは日本語に限らない性質だろう。フランス語にはフランス語のリズムがあり、リズムの感覚を身につけることがネイティブレベルの言語理解になる。たぶん、文法もリズムという抽象に対する具体的性質の関係にあるのだろう。

納得したことだけに従う

近年、我が家の人々のメンタルはたいへん安定している。人からどう見られるかは気にしないし、好き勝手、自分がよいと思ったことだけをやる。

安定しているのは、納得を大事にしているからだと思う。「納得」とは世間での意味とは少しズレていて、「自分の価値観を肯定する理由が複数あること」である。「納得」するための説明・論理は複数なければならない。ひとつではダメで、できればみっつ以上ほしい。

例えば一汁一菜は、「野菜をたくさん食べて健康でいたい」「でも手間は最小にしたい」「おいしさもあって飽きないようにしたい」「コストも安く済むならそれがいい」を満たすことができる。健康もおいしさも、時間もコストも大事なものだ。大事な価値観を四つも叶えられるのだ。とても強い論理である。

これくらい強いアイデア、主張にだけ従うようにすると、自信を持って生きられる*1。強い理由が複数あるので、そう簡単に他人の批判には負けない。また、自分でも疑いをはさむ余地がなくなる。自分にとっての「真理」と言ってよい。どうでもいい価値観、あるいは理由がひとつしか挙げられない主張は「留保」し、従わない。無視する。それでいいし、 困ることもない。特に、生活においては自分が主人なのだ。納得レベルの低いものに気をつかう必要はない。

こういう態度を頑固だ、子供だ、と言う人もいるかもしれない。実際、そう簡単にはなびかないし、頑固だと思う。しかし、従わなかった主張に強い説明があるのがわかったならば、ただちにそれを受け入れる。この態度はまた、節操がない、手のひら返しだと言われるだろうが、別にそれは構わない。

我々はイデオロギーや所有感情に従うのではなく、納得、強い論理に従うだけなのだ。こうしていると、生活がシンプルになるという実利はあるし、論理的な一貫性はあるので、それでよいのである。

*1:納得した行為を生活に組み込むと、日常の実践で価値観が肯定されるので自己肯定感が高まる

週報 2023/01/08 餃子・ベーコン・股火鉢

連休の様子

コミケが終わり、正月休みに入った。当初懸念していたCOVID-19への感染もなく、家の片づけや料理、読書をして過ごせた。

元気にすごせたかというとそうでもない。我が家は二人とも夜型で、連休には必ず夜更かしをしてしまう。2時か3時に寝て正午前に起きる。当然自律神経は狂うので、毎日まぶたがピクピクしているし、足も冷える。また運動不足と寝すぎで腰も痛くなる。

休めているのかそうでないのかよくわからなくなる。我々は業務というペースメーカーがなければ健康でいられない。たとえフルリモートには適応できても、フルフレックスはダメだろう。適度なコアタイムがないと病むタイプである。とはいえ、別に積極的に働きたいわけでもない。休めるタイミングでは躊躇なく有給をいれる。

このようにして今日まで不健康な正月休暇を過ごしていた。

料理: ベーコンと餃子の皮

冬は寒くてやる気がないのだが、連休ともなると料理をしてしまう。ほとんど本能であり、やりたいとかやりたくないではない。気がついたら料理をしてしまっている。

今回は

  • サブジ
  • うどん
  • カレー
  • ベーコン
  • 餃子

を作った。

サブジ年報で存在を思いだしたから。クミンが効いていておいしい芋料理である。油脂が少なくて保存してもうまい。うどんはいつもの製麺趣味である。カレーはなんとなく食べたくなって作った。肉や野菜に塩をふってから炒めて、蒸し煮にしたら澄んだ味になった。カレーなのにクリアな味があって意味がわからなかった。

薄く切るとカリカリベーコンにできる

今回の変わり種、新しい経験はベーコンと餃子だった。ベーコンはコミケに行く前から仕込んでいた。豚バラ肉に塩をふってピチットシートで包んでおく。数日寝かせて水分が抜けた肉をけむらん亭で燻製に。できたベーコンはまさに本物のベーコンだった。思うに、スーパーで買えるベーコンは偽物、というか薫香がなさすぎる。おそらく薫香をまじめにつけると癖が強すぎて売れないのだと思う。でも私は煙臭いベーコンのほうがいい。深煎りのコーヒーやフルボディのワイン、樽の香りがするウイスキーが好きな人はこちら側だと思う。

ぎょぎょぎょ

この餃子はなんの変哲もない餃子に見えるが、皮が手作りされている。我が家には製パン・製麺技術があるので、いけるだろうと思って挑戦してみた。その結果、たいへんな苦労をした。たしかにモチモチでパリパリな皮ができた。ホットプレートで焼いたのに店の餃子みたいな味になる。それはよかったのだが、問題は皮を作り餃子を包むのに2時間かかったことである。

何がまずかったのか。手作業で皮を作ったのが問題だった。中力粉と水、塩を練ってひも状の小麦塊にし、10g単位で切って伸ばすのが皮の作り方だ。指先ほどの小麦だんごを麺棒で伸ばせば餃子の皮ができるのだが、この作業が苦痛だった。皮は作業台や麺棒にくっつきまくるし、手作業で数十枚の皮を作る工程そのものが非効率である。

正解は製麺機を使う方法である。麺を作るのと同じようにまず麺帯を作る。ここで麺帯を切らずに型で抜いたら餃子の皮ができるのだ。圧延工程が機械任せで、一気に数十枚の皮が生産できる。こうすべきだった。というか、工場ではこの方法で作っているようだ。

www.youtube.com

家の片づけ: オイルレスヒーター購入

暇を使って生活空間のメンテナンスをした。まず、オイルヒーターの買い換え。これまでデロンギのものを使っていたのだが、ついに壊れてしまった。壊れる瞬間に電子部品の焦げる匂いがしたので絶対に使わないほうがいい。修理という手もあったが、現代のヒーターによりよいものがあったので買い換えた。

eureksのオイルレスヒーターを買った。形状はオイルヒーターに似ているのだが、油は入っていない。だから軽い。もはやただの熱容量がでかいヒーターなので、オイルレスと修飾する必要はないのだが、なぜかそう呼ばれている。油が入っていないので軽くてコンパクトなのが特徴だ。

このタイプの、新世代のヒーターは各社から製品が出ている。我らが山善のものもあった。もちろんデロンギのもある。しかしデロンギの製品は高かった。8万円もするのだ。ちょっと出せない値段だな、となって半額で同等の性能であるeureks製のものを選んだ。知らないメーカーだったが長野のオイルヒーター企業らしい。

シュッとしてる

見た目はこんな感じで、上部にMac Proのおろし金みたいな穴が空いている。稼働させるとここから熱気が昇ってくる。冷気を下から吸う構造らしい。ファンがついていないのに空気が巡って不思議である。

今のところ、性能・UIには満足している。ほどよく温かいので股火鉢だといってまたがったりする。乗ってはいけないが。

 

その他、以下のメンテナンスをしていた。

  • Switchプロコン修理: スティック補正が効かないほどドリフトしてしまった。バイトができない。
  • 加湿器のフィルタ交換: 昨春に汚れたフィルタを捨てたのを忘れたまましまっていた。動かしても水が減らないのを不思議に思っていたらフィルタがなかった。
  • リネット送り: 小型家電といらないケーブル、使わないPCなどを送った。付属品のUSBケーブルが溜まりすぎ。
  • 靴の調整: 誂靴の仮合わせをしたさいに、メイン靴の調整をしてもらった。足が痛くなる対策として1mmのソールを入れた。1mmなのに履き心地が変わる。
  • ソファ・椅子のクリーニング: 木目に塗るワックスの蓋が開かなくて苦労する。割った。

挿絵

読書: 『宮本常一『忘れられた日本人』を読む』

哲学・精神分析の本を読んでピンとこなくて困っていたところ、『宮本常一『忘れられた日本人』を読む』を読んでみた。文章が上手で内容に興味があったため、熱中して読むことができた。3時間で読みきってしまう。久しぶりのよい読書体験になった。

この本は歴史学者網野善彦氏が『忘れられた日本人』という本について解釈した講義録である。『忘れられた日本人』とは、宮本常一という柳田國男に次ぐ伝説的民俗学者の書いた本で、昭和初期の農村の様子を描いた傑作である。今の人が読んだらびっくりするような、「常民」の性的奔放さ、女性・老人の強さが語られる。私もこの本を読んでから読書の楽しさを知ったところがある。それくらいの金字塔である。

網野氏の解釈の力点は「女性の強さ」「東西日本の差異」「百姓は農民ではない」にある。

農村での「女性の強さ」は中世あるいはそれ以前から続く文化である。女性は公的な世界からは隠れていたが、繊維産業の担い手であり独立して金を得る技術を持っていた。また、女性が一人旅できるような環境もあった。西欧だと考えられないことである。我々の受けている教育では女性が抑圧されてきた、というふうに教えられるが、そうではない側面もある。

「東西日本の差異」について。西日本と東日本の人間の形質的差異は、西日本と朝鮮半島のそれよりも大きいという事実、そして、文化もフォッサマグナより少し西側で断絶がある、という話。これは関西で生まれ育った人からするとよくわかると思う。今でも東西の差はある。

「百姓は農民ではない」というのは、『忘れられた日本人』および宮本常一の主張ではなく、網野氏の持論である。我々は百姓=農民と思いがちだが、これは間違いで、統計上の「百姓」には漁師、工人、商人などが含まれていたよ、という話。水呑百姓も小作人ではなく、商人だったりする。このあたりの話は『日本の歴史を読みなおす』が詳しい。

という本だった。とても読みやすくていい本である。『忘れられた日本人』が前提になっているのでこちらから読むとよい。『忘れられた日本人』も読みやすい。

音楽の侵襲性

『ぼっち・ざ・ろっく!』の影響でいろいろ音楽を聴いている。アジカンの『Re:Re:』とNUMBER GIRLの『OMOIDE IN MY HEAD』を気に入って毎日聴いている。

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音楽をYouTubeであさると、どんどん時間が過ぎていく。特にライブ動画はアーティストのパフォーマンスにも見どころがあり釘付けになってしまう。音楽それ自体に意識が持っていかれるのに、映像まであると書き物や読書が捗らない。

 

三島由紀夫の『戦後日記』に「他の芸術では、私は作品の中へのめり込もうとする。(中略)音楽に限っては、音はむこうからやって来て、私を包み込もうとする。それが不安で、抵抗せずにはいられなくなるのだ」と書かれている(p38)。また、先日Twitterで「リズムやメロディという抗いがたいメディアに意味のわからない歌詞がのせられて、押しつけられるから歌詞のある音楽が苦手だ」という趣旨の発言をみた。

たしかに音楽は侵襲的で意思を阻害する。リズムがあり、時間が流れていくメディアなので曲の途中で止めるのが難しいし、曲調がよいとうっかり聴いてしまう。勝手に頭の中に入ってくるものだから、不自由さを強いる恐ろしいものだと言える。戦時のプロパガンダにも使われた。

音楽は、実は恐ろしいメディアである。特に、感受性の高い人は苦労するだろうなあと思った。

知っていること 7 割、聞いたことがあること 2 割、知らないこと 1 割

onk.hatenablog.jp

はてなブックマークを眺めていたらこの記事が流れてきた。記事のポイントの一つである「(発表は)知っていること 7 割、聞いたことがあること 2 割、知らないこと 1 割」という原則を知って驚いた。たしかに大事だと思う。
私は新しいこと、聴衆が知らないことに5割くらい割きがちである。間の論理もよくすっ飛ばしてしまう。新しい内容を1割に抑えるのは「サービス」に必須であろうなと思った。

アプリの島

今やインターネットサービスを「Webサービス」として認識する人は少ないだろう。PCユーザーは減り、サービスはブラウザのタブではなく、アプリとして使うものになっている。特にBtoCの、マス向けのサービスでこの傾向は強い。

各種サービス同士の距離は遠くなっている。PixivはPixivに閉じていて、ニコニコ動画ニコニコ動画に閉じている。サービス=アプリが「島」のように孤立している。スマートフォンの狭い画面ではURLを意識しないようになっている。

もちろん例外はある。テキストのSNS、とくにTwitterだ。Twitterだけがブラウザのように、各種サービスへのリンクを持って参照する立場にある。短文を扱うサービスだからだろう。URLと相性がよくてシェアボタンの投稿先になっている。

Twitterが各「島」を参照する構造が今後どうなるかはわからない。この構造が良いとも悪いとも言えない。スマートフォンのUIの制約、各種サービスの性質によってこうなっているだけだ。

Twitterは今後どうなっていくか雲行きが怪しいが、Twitter内で投げ銭ができるようになると窮地に立たされるサービスも多かろうなと思う。fantia, skeb, fanboxそしてYouTubeも。インターネットのグラフデータ構造の多くはTwitterのなかにある。各種サービスはそれに乗っかっているところがある。

キャラクターは欠点から作る

『ぼっち・ざ・ろっく!』を見ていたら、どのキャラもめんどくさい人間だと思った。みんな欠点を持っていて不器用なところがある。でも、その欠点は不快には見えず愛すべき短所として機能している。逆に長所もあり、物語を進める道具としてキャラの能力が活かされる。
一般化すると、キャラクターを作るには短所を考えたらよいことがわかる。これ自体はよくあるセオリーかもしれない。短所は抽象度が高いとよいだろう。そのように作ると、広く「共感」されるものになる。

 

週報 2023/01/01 『ぼっち・ざ・ろっく!』をみた, モノを介在したコミュニケーション

小さな風邪をひいていた

25日あたりに小さな風邪をひいていた。少しだけ喉が痛んで熱は出ないものの、だるくて無気力になる体調不良のこと。

鍼の先生によると冬には小さな風邪を何度もひいているものらしい。小さな風邪を放置するとその辺のウイルスにやられて発熱する。

冬に無気力になったらすぐに休むのが大事である。葛根湯が効くのもこの段階だ。熱が出てからでは遅い。

『ぼっち・ざ・ろっく!』をみた

連休に入って時間ができた。すこし気になっていたアニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』をAbema TVで全話みた。ちょうど無料公開中で助かった*1

 

以下ネタバレを含む。

アニメスタッフが行間を埋めまくっているよいアニメ化

このアニメ化では原作の2巻中盤までエピソードが消化された。1巻と半分である。おかしくないだろうか?ふつうの漫画だと4、5巻まで進むことも珍しくない。どうなっているのか。

第5話 12分

なぜこんなことが起きたのかというと、原作がもともと濃密だからだ。一コマあたりの情報量が多い。しかも行間が省略されている*2。例えば第5話、姉試験ライブ前の自販機シーンは、原作だとこれだけなのだ。

第1巻 p81

アニメ版の後藤と虹夏の会話の本質は、たしかに原作で表現されている。しかし、会話の「間」や後藤の苦悩は明に描かれていない。四コマというメディアの制約でもあろうし、後藤がいちいち悩むのは自明ではあるから。でも、そこを丁寧に映像表現にしたのがアニメスタッフの偉いところだ。よいアニメ化とはこのことである。

ライブで「覚醒」することってあるの?

フィクションだと主人公がよく「覚醒」する。「覚醒」は現実でも起きるのかな?という野暮な疑問が出てきた。

よくあるのは偶然うまくできるケース。バトル漫画ではこの流れが多いと思う。修行中に偶然うまくいって、それをモノにすることもある。偶然うまくいったものを成果に繋げるのは、現実でもよくある。ペニシリンの発見などが好例。でも、『ぼっち・ざ・ろっく!』の「覚醒」は偶然うまくいったわけではない。

第8話のライブ中覚醒に関しては、次のような解釈はできる。後藤は練習量が多く、他のメンバーと違って初ライブでもまわりをみる余裕があった。そのため、予定外のギターソロで他メンバーを刺激し意識を揃えることができた、と。逆に第12話では喜多に冷静さと余裕があった。

となると、ライブパフォーマンスでの「覚醒」を支えるのはふだんの練習量と、本番での冷静さ、なのだろうか。これならば現実でもありそうである。

雑感

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モノを介在したコミュニケーション

昨日まで冬コミ、C101に参加していた。夏と同様に妻氏のサークルの手伝いである。

 

同人誌の対面販売はただの買い物ではないな、と思った。どうしてもコミュニケーションが発生する、というかコミュニケーションが目的で本を刷っているところがある。コンビニでのほぼ自動化された処理の対極にある。

本があれば会話ができる。どれを買うか、どこまで持っているのかの確認、お金のやりとり、そして最後に一言軽い感想、応援コメントをつけたり。会話がほとんどなくても、立ち読みをして全部買っていかれると、それだけでも伝わるものがある。言葉すらいらないことがあるので、広い意味でのコミュニケーションである。

だから新刊は必ず持っていかないといけないのだな。我々のコミュニケーションの苦手さをモノによって補っているところがある。新刊がないと、何を話したらいいかわからなくなるし、すぐに会話は途切れてしまう。新刊によって作者と読者はつながっているのだ。

8時半についた

古いスマートフォンが現役でフロントエンドエンジニアは困る

コミケ会場でiPhone 7らしき端末が使われているのをみた。それなりの数が動いていた。古いiPhoneスマホ向けWebサービスを作る人にとっては天敵で、たいていSafariは謎のバグを抱えている。古いSafariのためにたいへんなデバッグをして特殊なプログラムを書くことになる。

まだ世の中でたくさん動いていることを知っておそろしい思いをした。どうかOSのバージョンは最新まであげて、サポートが切られたら買い替えてほしい。

ううう。

スピノザ』を読んだ

サービス: ○, 内容: ○

國分先生の新しい主著。スピノザ修論時代からの専門らしい。スピノザ生涯とその哲学を俯瞰し解釈する本なのでちょっと難しい。『暇と退屈の倫理学』『中動態の世界』みたいなわかりやすさはない。ゴールが不明瞭な本ではある。

でもおもしろかった。「真理経験は数学の証明みたいに、自分で示す体験をすることで得られる」「古い言葉の理解を深めることで、古い言葉で新しい概念を表現できる」というくだりがよかった。また、コナトゥスと変状のモデルはふだんの内省に便利である。

*1:12/31に無料期間は終わっている

*2:逆にサービスは微妙で読みにくくなっているとは思う

年報 2022年 週報を一年続けた

週報ふりかえり

昨年の12月に週報を始めた。毎週土日に、一週間の出来事や雑感を三千字程度の記事にまとめる試み。それを一年続けてみた。

なんではじめたの?

  • 某漫画家が週報で近況共有をしていたものの真似
  • 昨年末に一年分の日記を読もうとして多すぎる!無理!と思った
  • 日記ではない公開の記事もあれば文章の練習になるかなと思った

という事情があった。

年末のふりかえりはやりやすくなった。週ごとの記録だと、ほどよい粒度で当時の出来事や気持ちを思いだせる。でも、52本の記事を読み返すのもまた大変だった。四半期ごとに読むのがよさそうである。

文章の練習にはなったと思う。最初は二日かけて書いていたが、今は下書き、清書あわせて二時間くらい。シンプルに短く書く意識も芽生えた。テキスト筋のトレーニングとしてよかった。

テキストエディタの変遷

そんな週報だが、テキストエディタには悩んだ。一年かけて

と、変遷してきた。今は日記をアウトライナーで書き、一週間ぶんの日記を読みながら紙に下書き。最後にUlyssesというテキストエディタで清書にしている。

作業環境の変遷

書きものをする環境も課題だった。机では集中できなくてソファで書いてみたり、カフェに篭ったり。ブレークスルーは「空間には文脈がある」という発見だった。まじめな作業をする場とリラックスする場を分けたらうまく作業ができるようになった。

発見と反省

週報を読みかえしたところ、以下の発見と反省があった。

初夏はアクティブ

5月や6月は新しい料理に挑戦したり、物を買ったりと活動的なのがわかった。8月や12月、1月はだるそうにしているのだが、気候がいいと元気になるらしい。5月の過ごしやすさを考えると納得できると思う。また、同様に10月も精力的だった。これも気候。夏の疲れがあって5月ほどではないけども。

このように、自分の一年の調子を把握できた。新しいことに挑戦するときは初夏がチャンスだ。ゴールデンウィークを費やして初速を出すとよいだろう。

ゴールを意識して書く

何が言いたいのかわからないテキストがちらほらあった。省略が多かったり、適切な段落分けがされていなかったり。何を伝えたいのか意識をして書くのが大事だとわかった。ゴールがないとすぐに筋は混乱してしまう。

愚痴をやるならおもしろく

愚痴のテキストもあった。共感を求めるならともかく、頭の整理に書いていただけなので公開すべきではなかった。愚痴をやるならおもしろくすべきだと思う。

2022年ふりかえり

ここからは週報を使って一年のふりかえりをする。

週報によく出てきた話題を

  • 時事
  • プログラミング
  • 料理
  • 読書
  • 哲学・人生の考えごと

にジャンル分けする。あまり社会には関心がないほうなのだが、大きな事件が起きると影響を受けるようだった。

時事

年初はウクライナ戦争が話題だった。1月下旬からきな臭くなり、2月にはついに勃発。生きているうちに戦争らしい戦争が起きてしまった、という衝撃を受け、なぜロシアはこんな判断をしてしまったのか西側諸国との違いはなんなのか、と考えていた。

3月には電気が足りなくなった。きっかけは関東の地震。夜に都内で電気が止まった。停電したその瞬間に友人と通話しており、会話が途絶えたのを覚えている。その後も発電機が足りない騒動が起きた。夏や冬に電気が足りなくなるかも、と不安を覚え太陽光パネルと巨大蓄電池を買って災害の備えとした。

4月はヤクルト1000がよく売れていた。私も睡眠には関心があり、コンビニで見つけては買って帰る生活をしていた。今も気になっていて、できれば入手したいのだが最寄りの店では見かけなくなってしまった。レディと契約するといいのは知っているが、そこまででもないのが悩ましいところ。

今年は同人イベントも復活した。妻氏のサークルが数年ぶりに関西コミティアに参加し夏コミでも頒布をしたコミケは台風が来ていた覚えがある。シャッター近くで風が強かった。外で並んでいる人たちが雨に降られたり。

9月末にはSplatoon3が発売された。ヒーローモードが難しすぎる、と週報に書かれている。その後、イカはサーモンランばかりやっている。

10月にはお絵描きAIが登場して騒動になっていた。私は生成する側で楽しんでいた。そのためにGPUを買ったりもした。ついこの間までテキスト生成AIも話題に。きっと来年もAIにふりまわされることだろう。

プログラミング

仕事でコーディング・レビューをしていて気づいたことや、アウトライナーを自作して思ったことが書かれていた。

コミットが新しい順に読むとレビューしやすい(ことがある)」と「入出力をロジックから遠ざける」が仕事での発見。

アウトライナーを作っていた頃、以下の記事を書いていた。

料理

もっとも量が多かった話題。やっぱり料理が好きらしい。元気な時期にはいつもと違う料理をしていた。

など。ほとんど一時のブームで終わってしまったのだが、ザワークラウトは今も続けている。妻氏が好んでおり、食べているとお腹の調子がよくなるらしい。

調理技術・知識も身につけていた。

特に「蒸し茹で」が大事なスキルになった。これは土井善晴の『一汁一菜でよいと至るまで』という自伝に書かれていた調理方法。鍋に少量の水と野菜を入れて火にかけると、ふつうに茹でるよりもすばやく火が入る、という技術だ。一汁一菜弁当で用いている。朝は時間がないので。

家業の同人漫画 https://manga-no.com/works/104ce380aaf95ef6064

読書

読書も大事な趣味である。今年もよい本をたくさん読めた。

積んでる本からてきとうに読んでいるので、今年発売でない本も混じっている。基本的には哲学・思想の本が多く万人に勧めるものではないが、「みんなのユニバーサル文章術」「現代思想入門」はわかりやすいのでおすすめである。

哲学・人生の考えごと

人生とか生活、人間について考えたのが以下の記事。

今年は「偶然性」がテーマだった。いかにして偶然的で所与な自分を受け容れ向きあうか。判断しきれないところを運に委ねるか。などなど考えていた。おおよそ結論は出ていて、自分の性質は事実であり内省によって分析するしかない、決めきれないことはコインに決めてもらったらよい、というものである。

結び

以上が今年のふりかえり・まとめである。

週報はやってよかった。自分の備忘録が主目的だが、インターネットにコンテンツをおすそ分けすることも意識している。

来年も続けるつもりである。よいお年を。

おまけ

お気に入り記事集

  1. インターネットに情報を増やしたい
  2. 土井善晴氏の観察から出てきた大阪文化の分析
  3. 悪意の出てこない物語
  4. 性差と身体
  5. 日本でモルモットは野生化できるのか