公平さなんてものはないので、公平感を求める。
快適さや生存に関わる家事とそうでないスポット的な家事を分けて考える。ライフラインとなる家事は単一障害点がないほうがよい。つまり、最低2人はライフラインとなる家事を遂行する能力がないといけない。しかし、誰がやってもよい状況ならば得意な人がやったほうがよい。自分にとって得意で他の人にとって得意でないことは主観的な労力の割に高い家事ポイントを得られるので、基本戦略としては相対的に得意なものから割り当てるとよい。
そうして、生活に関わる労働雑務を全体として評価して公平感があればよい。
ただし、潜在的な不満があるのが人間の難しさで、不満があっても言語化されるレベルまで煮詰まってないこともある。これをどうするかは一般的な解決策はなくて、当事者たちにとって都合のよいコミュニケーション方法を模索するしかないのではないか。
ただし、誰にとっても労働感のある家事があるならば積極的に自動化したほうがよい。もし、皿洗いが苦ではない人で構成されているならば、無理に食洗機を購入して生活スペースを圧迫する必要もない。たぶん、都市生活者にとって最も価値*1が高いのは居住空間である。
また、家事の主観的な負担もその人らの賃金労働が生活にしめる割合で変わってくるため、以上の議論は家にいる時間が比較的少ない人の視点によるものである。
全然関係ないのですが、弊家庭ではここ2週間ほどライフライン家事*2を休日に持ち込まない施策を試しています。というのも、賃金労働に時間を吸われている人間にとって2日間の休暇はなにものにも代えがたいもので、休日に「あの家事をしなければならない」という強迫観念に追われるのはかなり大きなストレスになる。
また、趣味のコーディングやお絵かきといったクリエイティブ的とされる活動はある程度長い時間をストレスなく確保できるほうが生産性がよい*3。それならば、平日の定時後の時間でライフライン家事をこなしておいて、休日はライフライン家事を一切やらなくてもよい状況にしたほうが、休日を全部満喫することが可能になる。
今のところライフライン家事を平日にすべてやっておくのも無理なく実行できており、休日は後腐れなく好きなことだけをやれるようになっている。