大学院生のとき、「自分の問いを立てて研究しろ」と指導されていました。当時はわけがわからず、あまり興味のない研究テーマを嫌々遂行して学位を獲得しました。
今、「問いを立てる」ために何をすれば良いかがわかってきました。答えは「知識を増やすこと」でした。好奇心のつよい人であれば、なんとなく興味の惹かれる分野が曖昧には存在するかと思います。しかし、問いは具体的でなければなりません。具体的でない問題は決して解けないためです。問いを具体的にするためには膨大な知識が必要で、当時の私に足りないものは勉強量なのでした。
ですが、勉強*1の量をこなすためには興味が必要です。興味のない勉強はやっても意味がないか、まだその時点では必要ないものです。資格を取得することが目的であれば話は別ですが、興味につられて行う勉強は自分が必要だと確信してやるものです。
興味はあるが何を勉強したらよいかわからない問題もあります。本来の大学の師弟関係はこの問題のためにあったのでしょう。今でもこうあって欲しかったのですが、私を指導していた教員たちは無自覚に勉強してきた人たちでした。
二十歳くらいでこのことを知っていたら、もう少し楽しく研究できたのかもしれませんが、現代の環境に投げこまれた平凡な学生としてはこんなものなのでしょう。
以上がTrickleに書いた内容ですが補足。
十七歳やそこらで建てた漠然とした興味が、じつは現実の自分と乖離した願望だったケースがあります*2。じっさいに、大学に入ってから転学部をする人もいますし、知識が足りない状況での学科選択なんて間違って当たり前です。その意味において、教養部(教養課程)のシステムは合理的だと思うのですが、なぜかなくなってしまいました。専門分業された社会へ専門家を生産してゆく組織としては非効率だったのでしょうか。