しゅみは人間の分析です

いらんことばかり考えます

人々の変身願望と現実社会の行き詰まり感について

最近のインターネットでは変身願望を刺激するコンテンツが多い気がする。異世界転生を嚆矢として女体化ネタの漫画やVR Chatで幼女アバターになりきるおじさんなど。変身願望はギリシア神話からあるアイデアだが、これほど広く望まれるものになったのは始めてではないだろうか。

なんで変身したいのだろう。たぶん現実社会がつらいのだと思う。SNSが普及しすぎた結果、「xxをしたらyyな失敗をする」とか「aaをしたらbbで大成功」など、選択肢を狭める情報が勝手に入るようになった。みんな失敗はしたくないもので、「そうかxxをしてはいけないのか」と思って消極的になる。その結果、選択肢は少なくなり、何をやっても無駄、という感覚になる。

SNSが悪いのか。そういうところはある。だが、SNSを断てたところで、何か行動をしようとしたらまずGoogleで検索をしてしまう。私もパンをうまく焼くにはどうすれば、と悩んで検索をする。道具を手に入れる前には戻れないのだ。SNSを避けたところで、インターネットの経験知を使って最良の選択をしようとする癖は治らない。

だけど、最良の選択肢を組みあわせて「これで大成功!」みたいなプランを立ててもたいてい失敗する。失敗したら、やっぱり何をやっても無駄だ、と思うかもしれない。だが、逆にこの失敗はよい報せである。なぜ失敗するのかを考えればわかる。プランの素が他人の経験だからだ。他人の経験知は私の知識ではない。経験知を言語化するのは難しいし、言語化できたところで、素人がみても意図はわからない。だから、経験してない分野ではインターネットの知識は役に立たない。経験を積むごとに、少しずつ意味が読みとれるようになるものなのだ。

こうして、まず実践しろという結論が出てくる。自分で考えるには種が必要で、それは自分でやってみるのが一番だ。やっていないことについて考えるのは意味がない。やってもいないことについてうるさく言う人はインターネットに多いが、彼らの意見も見なくてよい。知識の足しにはならない。本があるなら本を読めばいいし、プログラミングならまず書いてみることだ。

tumblrを漂うテキストに「アウトプットは量多い方がいい。フィルタは各自がやればいい。この原則わかんない奴はインターネット合わないと思う」という箴言がある。フィルタとは他人の言うことを無視するスキルである。自分が通暁していることであれば、他人の意見の善し悪しは判断できる。自分が知らないことであれば、そんなことは知らないから判断できない、と開きなおればよい。知らないことを知った気になるから選択肢が狭まるのだ。ともかくやってみることである。知識は我々の身体に溜まるのだから、身体を使う意外の方法はない。近道もないのだ。

 

餞別です。

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ちなみに「これを無視すると人が死んだりする」レベルの知識はインターネットではなく、実社会の慣習や教科書レベルのテキストに実装されております。