しゅみは人間の分析です

いらんことばかり考えます

生活は簡単に変わらない

インターネットで生活術指南の記事を見ることは多い。しかし生活というものはそう簡単に変えられない。私も以前は「こういう工夫をしたら料理が楽になるよ」という記事を書いたことはある。だが今では少し考えが変わっている。

死の悲しさと生活が変わることのストレス

身の回りの人が死ぬということについて深く考えてみたことがある。知人や家族が死ぬとひどくショックを受けるものである。人じゃなくてもペットや植物でも良い。しかし、ほとんど喋ったことのないような遠い親戚が死んだ時は悲しくはならない。

この違いはどこから生じるのだろうと考えたとき、生活を共にするものに死なれたかどうかがポイントだと思った。生活の中に他者が組み込まれていて、その他者が死ぬと生活が変わる。この生活の変化によって人はストレスを受けるのだ。一般的には心に穴が空いたとか、その人がいないことに直面させられる、とか表現すると思う。死による他者の不在そのものが問題にされるものだ。だが、同時に生活が大きく変わったことによるストレスも受けていると思うのだ。実際に、他者の死から立ち直れるかどうかは生活を立て直せるかどうかにかかっているところがある。近しい人が死んでも新しく生活を立て直せたらきっと生きていけるのだと思う。

生活は癖でできている

生活は基本的に変えない方がいいし変わらない。無意識にやっている癖みたいなところもある。生活がいいところで安定しているならば変える必要はないのだ。変える必要があるのは生活そのものでストレスが生じている時である。

生活は癖の塊のようなところがあるのでその人の癖にあった生活を作らねばならない。他人の生活は他人の癖とルールによってできている。それを自分の生活に取り入れることは大抵できない。例えば私はトイレットペーパーやティッシュ、野菜などの在庫の量を常に把握している。何かが足りなくなりそうになったとき忘れずに買うことができる。世間では几帳面ですごいねと言われるようなことだろうが、別にすごいとも何とも思っていない。なぜかできるというそれだけなのだ。当然苦手な家事もあって水回りの仕事はできればやりたくない。特に合理的な理由はなくてなんとなく苦手というだけなのだ。反対に妻氏は洗濯などの洗い物水回りの掃除が得意、むしろ好みらしい。なのでインターネットでもよく言われるように個々人の癖にあった生活を作るのが一番である。

自分の生活を変えたいとき

問題は今の生活がストレスを生む場合だ。ストレスに感じる原因は世間との比較だとか自分の理想像とかけ離れた癖があるとかいろいろ考えられるがここでは立ち入らない。それよりも、じゃあ生活をどう変えたらいいんだという問いが大事である。生活は癖であるから簡単には変えられないし、他人のアドバイスは参考にならないのは前述のとおりである。

ポイントは自分の癖を把握することだと思う。この癖というものは常に人生を苦しめるもので生活のみならず性格も癖でできている。癖は何か合理的な理由があって獲得されたものだけではなく、大した理由もなく身についているものがある。厄介なことに癖は無意識についてくるものである。無意識に属するものだから簡単に制御ができない。であるから癖を反省して必要のない、あるいは害のある癖であれば生活から取り除けるようにしたい。そのために癖の言語化=意識化が必要なのである。

癖は簡単に変わらないものではあるが、これは害のある癖だということが強く意識されれば、少しずつ変えて行ける。誰でもそうだとは主張しかねるのだが、私の経験においてはそうだと思う。また癖そのものを変えなくても、無意識の行動が起きることを予測し先回りして害にはならぬよう手を打つことができる。直すのが難しい癖もあるだろうからこちらがメインの対策かもしれない。

まとめ

このように自分の生活は癖でできていてそう簡単に変わらない。しかし自分の人生は有限で時間だけが平等に与えられているから、効率的な生活はしたい。癖によって効率が悪くなっているならば改善したい。それが現代人のよくある望みだと思う。処方箋は自分で考えろということになるのだが、生活の問題において考えるとは、自分の癖を把握することなのである。

おまけ

生活を変える具体的方法

真似をして実際に行ってみるしかない。やってみずに「そんなことできるわけがない」と言い訳をする人は多いのだが、たいてい自分の癖についてよくわかってないので、やってみるまで自分に向いた方法かどうかは分からないものである。

癖を言語化する方法

他人が指摘してくれるといちばんいいが、家族でもなかなか言ってくれないものである。自分で内省するしかない。日記がおすすめ。