しゅみは人間の分析です

いらんことばかり考えます

「善き生」の問題

最近デカルトを読んでいて哲学には「いかにして真理に至るか」という問題と、「いかにして良き人生を送るか」という問題があることに気がついた。哲学にはギリシア時代からそういう問題意識があったようにみえる。

さて現代の人たちはこの問題にどう答えているのだろうか。真理の認識について今では科学哲学という形で議論が続いている。ある程度の結論は出ており、人間がどれくらい間違えやすいかとか統計学が強いとかそういう話が出てきている。一方でいかにして良く生きるかという問題は未解決にみえる。

一見するとお金持ちになって労働から解放され、好きなものを買えるようになると人生が良くなるようにみえる。実際にそう思っている人も多いだろう。これは極論すると消費社会において金持ちになったら人生がよくなるという解決策だ。

しかしこれも嘘であることがわかる。Twitterは便利なもので、社会的に成功したとされる人の言動もつぶさに観察できる。彼らは幸せそうだろうか。そんなことはない。いつもイライラしていて他人と闘争してばかりである*1。これは昔から知られていることで、物理的な充足は「善き生」の半面ではあるのだが、しかし半面でしかない。

「善き生」の残りの半面は主観の問題である。どんな出来事も最終的には主観によって認識される。おのおのの精神のあり方が人生の質を決めている。客観性は他人の認識を集めて均したものなので、この私の、あるいはあなたの満足に繋がるとは限らない。つまるところ、自分がどう受けとめるか?より大事なものはない。

主観の大事さは人間の本質的孤独さに繋がっている。どんなに物に囲まれていても、どんなに家族がたくさんいても、人間はひとりで死ぬのだ。この身も蓋もない事実を受けとめてようやく問題の出発点に立てる。

だが人間がみな孤独で自分の主観が大事ならば利己的に振る舞うのが最適解にならないだろうか?もちろんその解もありうる。利己的なふるまいを人々が選んだ結果として他者を金で使う消費社会があるとも言える。だが、そんなことをしてしまうと本当に孤独なまま生きることになるのだ。

どういうことか?私もまだうまく説明できないのだが、人生の孤独さを軽減するには他者を人間として認める態度が必要なのだ。つまり「人間は孤独で主観が大事だ」という原則を他者一般に適用するのだ。コンビニ店員も配達をしてくれる人たちもみな人間として認める。道具ではない。この態度こそが孤独さを和らげる(唯一の)処方箋なのだ。今のところ私はそう確信している*2

*1:HIKAKINは希有な例外だと思う

*2:この態度をもってしても理不尽な他者問題は発生するのでこれについてはそのうち論じる