しゅみは人間の分析です

いらんことばかり考えます

phaが新刊を出すというので買って読んだ。この本で紹介されていた橋本治という人が気になり、いろいろ読んでみた。たいへんよかった。自分の頭でよく考えている人であった。

 

これは橋本治の最晩年の本だが、現代社会の宿痾がどこにあるかを論じている。論じているというか、書きながら本人が探索している。後半二章がよかったので読書メモを書いた。下記は日記からそれを抜粋したものである。引用に続く文は私の感想である。

 

人間というものは、形が定かではない「欲望」というものを薄い皮で包んだもので、その「欲望を包む皮」のことをモラルと言う。(中略)だから、「欲望を包む皮」は薄い方がいいということになるのかもしれないが、その皮が薄すぎると、中の「欲望」のあり方が透けて見えて、丸わかりになる。

「下品」というのはそうなってしまった状態を言うのだが、そういうモノサシを使うと、「自己主張は下品だ」ということになる。「自己主張」というのは、よく考えてみれば、自分の「欲望」を押し出すことだから、あまりそんな風には言われないが、自己主張が強くなれば、事の必然として「下品」になってしまう。(p133)

就活では自己主張を要求される。下品な欲望的行為が当たり前とされる世の中である。かつて品性下劣とされていたものが当たり前になった。それだけモラルと知性は分離し、凋落している。

 

それは、実は「物が足りなくて困ることがある」という「それ以前の時代」の考え方で、「物が余ってしまう未来」のことを頭に置いていない。(p175)

需要は満たされているので、無理やりひねり出している。だからコロナ禍において外食が控えられると食糧が余る。必需品のなかの必需品である食糧が余るのだ。100年前には考えられない事態だと思う。無駄を無理やりつくって生活しているのが現代人だ。その無駄は人々の欲望を刺激することで捻出されている。他人に釣られてものを買う人たちがそう。

 

ソ連邦の消滅は、「大きければよい。その大きいことを可能にするのは軍事力の大きさだ」という、長く続いた古い考え方の終わりを表すもので、同じ時期に起こったEUの発足決定は、「もう一度経済発展の勝者への道を」という目論見で、しかし日本はその先をもう行っている。

「その先」とはどういう状態か?「どうしたらいいか分からない」という状態である。なにしろ、もう経済というものは「これ以上動かない」として密閉されて、「実体経済」というレッテルを貼られてしまったのだから。(p181)

これは思いもよらなかった視点だ。この文章のあと、北米は情報産業と金融へ舵を切ったが、金融はリーマンショックが示すように破滅してしまった、と続く。金融経済は虚構である。実体経済という言葉が示すとおり。しかし情報産業はどうか。人々の欲望のうち、物質に囚われない側面を引き受けているのが昨今のインターネット関連サービスだ。電気と半導体しか使わないので効率的である。日本は昔からコンテンツを作っている。これも情報産業である。その点では日本らしい情報産業は昔から変わっていないのだ。コンテンツとしての情報産業では日本は昔から先を行っていると言える。

 

それで、「主義」というものはつまり、「神」的なものが存在しない宗教なのだと、放っといた末に理解した。「主義」は宗教の代替物と言ってもいい。(p194)

民主主義を大事に、と言われるときの主義も宗教になっている。同時に科学とか合理性の主義も流行っている。

 

この現代で「知性」というものは、様々に存在する複数の問題の整合性を考えるもので、一昔前のもっぱらに自分のあり方だけを考える「自己達成」というような文学的なものではないのだ。(p204)

 

人は不遇になって「自分のあってしかるべき立場」を失ったと気がつくと「ムカつく」になり、そこに「自分の気に入らない言説」を流し込まれると、反知性主義になる。(p213)

 

「現代の知性は、自分中心の天動説ではなく、様々な問題の整合性を頭に入れて解決策を導き出すものだ」とは言ったけれども、これを簡単に敷衍してしまうと、「自分のことだけを考えずに、みんなのことも考えましょう」になる。(p218)

至言。宮本茂が言うように、複数の問題を一挙に解決する方法がアイデアである。それぞれの人にそれぞれの事情があり、問題がある。それぞれの立場における合理的な判断の結果が今の状況である。できうる限りのすべての情報を集めて問題を整理し、効率的に解決する能力が求められている。たいへん厳しい状況だとは思う。

 

というようによい本だった。最初はどこへ行くかまったくわからなかったのだが、橋本治本人もわからなかったのだと思う。