しゅみは人間の分析です

いらんことばかり考えます

週報2021/12/26 内面同士の接続過剰

日記に書いた近況や考えごとをふりかえって週報としてまとめています。

 

近況

労働

実装をしていて、golangのinterfaceはすばらしいな、となりましたが、いやDIPが偉大だと思い直しました。

体調

冷えがひどくて何もできなくなったのが月曜日。ですが、その日に鍼の予約が入っていて助かりました。次の予約は年始なので、自力で身体を暖めてゆかねばなりません。とりあえずお風呂の温度を41度にしました。あとは運動しかありません。

余暇

自由の地域差と欲望会議を読みました。あとは言語学の本を読んでいます。読書に時間がとれていて満足です。漫画サポートはぼちぼちです。

料理

思い立って自分の料理知識集大成を書いてみました。土井善晴先生の動画を観て学んだものが多いです。

 

今週の考えごと

我が家では、数年前から「さいきんの商業漫画は同人誌と紙一重だ」と評していました。同人誌の特徴はサービスが乏しく自己主張ばかりで、商業漫画はサービスを大事にした作品です。昔の商業漫画はサービスを大事にして自己主張を控えめにしていたと思われますが、いつの間にか商業メディア全体が自己主張をするようにもなってきました。もちろん、サービスがなければ売れないのでそこは担保しつつ、ですが。例えば鬼滅の刃は作者が欠損フェチです。これは読み切りの主人公をみればわかります。終盤に重要キャラクターの身体がばんばん欠損していったのも物語の合理性と同時に趣味があったのでしょう。ジャンプにしては手足飛ばしすぎでは?また、チェンソーマンの作者は気持ち悪い行動をキャラクターにさせます。まあ趣味なのでしょう。

 

橋本治は「知性の転覆」という本で次のように書いています。

人間というものは、形が定かではない「欲望」というものを薄い皮で包んだもので、その「欲望を包む皮」のことをモラルと言う。(中略)だから、「欲望を包む皮」は薄い方がいいということになるのかもしれないが、その皮が薄すぎると、中の「欲望」のあり方が透けて見えて、丸わかりになる。

「下品」というのはそうなってしまった状態を言うのだが、そういうモノサシを使うと、「自己主張は下品だ」ということになる。「自己主張」というのは、よく考えてみれば、自分の「欲望」を押し出すことだから、あまりそんな風には言われないが、自己主張が強くなれば、事の必然として「下品」になってしまう。

自己主張の強い、欲望を露出した物語は品がないな、とは思うのですが、そういう時代になってしまったのだから文句を言っても仕方がありません。自分が消費しなければよいだけなのは弁えています。

 

それはいいとして、なぜ欲望が前傾化したのか?なぜ人々は自己主張するようになったのか?という疑問はあります。むしろ私にとってはこちらの問いが大事でした。明らかに90年代とは人間の行動が変わってきている。これはなんなのか?

仮説を考えてみました。「インターネットで本心を吐露するようになり、本心をテキストとして見せびらかすことが当たり前になったから」というものです。2chを使っていたような、黎明期からのインターネットユーザーは同調圧力の強い世間から逃れるようにインターネットでチャットをして、本音によるやりとりをしていました。2000年代インターネットユーザーの楽しみは、世間と距離をとった人たちのコミュニティのおかげでした。少数の荒らしはいましたが、対処できない問題ではありませんでした。

ですが、例の震災とスマホの普及以降は状況が一変しています。誰もがインターネットに繋がり、先人の模倣をしつつ本心によるやりとり、あるいは闘争をするようになりました。また、SNSを中心とした市民同士の相互監視網は今日も元気に稼働し続けています。古いインターネットの楽しみは、世間から距離をとるという共通の価値観があったから、本心でのつきあいをしても心地良い関係が作れたのでした。ですが、誰もが本心を見せるようになると諍いが起きるのも当たり前です。対面して話すときは身体に守られている本心が直接テキストで触れ合うのですから、当然痛みを伴います。

と、このあたりまで考えてみました。これを日記に書いていたところ、Twitterで千葉雅也氏の「欲望会議」という本が文庫化されるのを知りました。欲望?を巡る鼎談の本のようですが、本心=欲望について考えていたので気になって読んでみました。すると、同じ問題意識の話がたくさん出てくるではありませんか。

 

千葉 もう一つ言うと、我々の中から無意識がなくなったのと同時に、無意識が外部化したということがある。それがネットです。ネットというのは我々の共同の無意識です。

(中略)

無意識に書き込むようなことを外に書き込むようになってしまったことも、おそらく無意識の蒸発を後押ししていますよ。

 そういう意味で言うと、もう我々は個人として傷を引き受けることができなくて、何かたまたま衝撃的な出来事が起こると、その傷がすぐに外在化されてしまう。そうすると、ある人に起こった傷が外にあって、しかも外というのは共同無意識だから、ほかの人がそれでまた傷を受けてしまうという構造になるんですよ。

p.89

無意識とは身体とセットなものです。我々はほとんど無意識に身体を動かしていますね。我々の中からなくなった無意識は身体性であり、インターネットで外在化・共同化されているのは、厳密には無意識ではない何かです。テキストを使ってやりとりするのですから、身体がなくなるのも当たり前です。

自分の身体としての無意識ではなく、インターネットに書き込むようになったのはなぜか。いいね、リツイート等の承認が貰えるから、また他人が「もやもや」を言語化してくれるから。このあたりでしょう。初期のインターネットでも似たようなことは起きていました。ですが、SNSに比べて長い文章でのやり取りが多く、やりとりの即時性も低かったので今ほど無意識=身体が希薄な状況ではなかったでしょう。技術とUIの発展が身体性を奪ったという皮肉な話ができます。

 

千葉 人間ってハイブリッドにできていて、言語は人間の外側から人間の体を乗っ取っている。人間には言語を使わなくてもコミュニケーションできる面があります。それと言語の自動性が組み合わさることで、人間というハイブリッドが成り立っているんです。言語を使うというだけでは人間はサイボーグだという見方もできる。言語は機械だからね。

p.130

この箇所は言葉によるバトルを楽しむフェミニストサイヤ人の柴田さん、という雑談なのですが、言葉の性質をよく説明しているので引用しています。

なぜインターネット本心論の文脈で、言葉の自動性=人間を支配する性質が大事なのか。それはSNSに書かれた言葉によって支配されてしまう人が多いからです。「もやもや」や「言語化してくれてありがとう」のようなコメントに見られるように、他人の言葉を読んで満足している人は多いのです。本来の言語化は自分の無意識と対峙して言葉によって無意識を語らせるもので、それなりの訓練と労力が必要です。ですが、それを他者に丸投げできるようになりました。それがSNSで起きていることです。人々の内面は言葉によって繋がれて、「共同無意識」ができています。

 

千葉 我々には、近代的な内面性とは別の主体性のあり方、それこそギリシャ・ローマ的な主体性のあり方を持っている部分があって、僕は、強さというのはそっちに関わっていると思う。だから、内面的な主体性ではなく、ギリシャ・ローマ的な意味での、外側しかないような主体性を復活することが、強くなるということの一つのキーになってくるんじゃないでしょうか。その意味では、傷つきに基づく怒りを僕は「怒り」と呼びたくないんです。内面なき怒りのみを、厳密な意味での怒りと呼びたい。

二村 いまインターネット上にあるのは人間の内面ばかり、傷つきからくる怒りばかりだよね。あれは、何だろう、泣き叫んでいるのかな。

p.195

いわゆる近代的自我の話ですね。古代の人間はもっと精神と身体が癒着していた。精神だけ浮遊できるようになったのはデカルト以降の話です。それが深化していまの状況があります。

また、ここで二村さんがインターネットには人間の内面ばかりがある、と言っています。

 

柴田 自分のガワがないんですよね。境界線となる皮膚みたいなものがないから、MeTooでみんなつながってしまう。皮膚や境界線があったら、「理解はできるけど、私とは違うな」と、同感はできるけど共感にはならないんですよね。SNS的な共感のつながりって、もう自他の認知がグチャグチャで、「私は子供のときにレイプされました」という人がいただけで、それを聞いた人は子供のときにレイプされていないにもかかわらず、「この傷は私のものである」となってしまう。自己の境界がなくて、もうスライムみたいに溶けだしている。私は、「もうちょっと自分に引きこもれよ」と思います。

p.219

SNS上の言葉によって人々(この場合はインターネットフェミニスト)が支配される様子が示されています。身体を失って「共同無意識」に繋がれているから自他の境界が曖昧になり、言葉に右往左往するようになります。

 

まとめます。

  • インターネットで言語を中心にしてやりとりすることで、内面を直接繋げられるようになってしまった
  • 言語化のできる人をハブにして「共同無意識」に繋がれた人たちのコミュニティができた
  • 「共同無意識」に繋がれた人たちは、自他の境界が曖昧になり共感か敵かで言説を判断しがちになる

 

これがSNSを巡る状況です。さらに悪いことに、物理社会のほうにもテキストコミュニケーションは浸透しています。リモートワークをする人たちはSlackやTeamsを使って言葉だけのやりとりをしますし、出勤をして働く人たちも職場のLINEグループに入っていたりします。対面でのやりとりが主な関係でも、離れているときはテキストチャットで内面を繋げてしまいがちです。もちろん、気心の知れた仲ならば本心でやりとりをしてもよいのですが、親しくない人ともテキストで話す必要が出てきています。ですから、ソフトウェアエンジニアの職場で心理的安全性が問題になるのも不思議ではない状況なのです。会って話すと仲の良いコミュニティでも、本心をぶつけると喧嘩になることはあります。対面での会話は身体によって本心が守られていました。いま、我々はあえてこの身体を除去し、内面を直接繋げた「効率的」なコミュニケーションプロトコルを打ち立てようとしています。

では、どうすればよいのでしょうか?プライベートでのSNSはやめられても、職場にテキストチャットが浸透することは避けられません。

「欲望会議」で出てきた結論は「身体を大事にしてほどほどに自閉する」だと私は読みました。身体を大事にするためには、まず第一に、自分が身体を持った死にゆく人間であることを意識する必要があります。そして、次にインターネットの向こう側にいる他者も身体を持っていることを認識することになります。幸いなことに、コロナ禍においてこの認識を得た人は多いかもしれません。ですが、内面同士の接続過剰はこのまま進み続けるため、まだまだ問題は起きるでしょう。