正月は実家に帰らず家の整理整頓に明け暮れています。工夫で家が広くなると嬉しいし実利もあります。リファクタリングです。
近況
労働
27日と28日に労働をして仕事が収まりました。
Rubyの型をつける方法を調べていて、公式のやり方がよいことがわかりました。Sorbetは微妙そうです。メンテナの態度に不穏なものを感じるし、型解釈くんがC++実装だとコミュニティがメンテナンスできない。
体調
睡眠位相が後ろにずれていて2時から10時まで寝てしまう。しんどいですね。0時までに寝て8時に起きるのがいちばんです。
愚かにも厚手のズボンを履くと足の冷えがましになることに気づきました。部屋着は柔らかいものを好むのですが、夏に買ったテロテロズボンは少し薄すぎたようです。ユニクロか何かで厚手の柔らかい布を探します。
余暇
包丁を研いだり押し入れをひっくり返したり。たくさんいらないものが出てきました。捨てます。ガラクタの整理は簡単なのですが、妻氏の排出した紙類、ネームとか落書き、原稿の整理はたいへんでした。紙の整理に8時間くらい費やした気がします。
2021年ふりかえりを書いていました。といってもかけたのは二日くらい。2018年は相当苦労をして書いていたので、だいぶ作文に慣れてきたようです。
料理
今年は片づけに夢中で料理はてきとうです。気まぐれにパスタを作ったり袋麺で済ませたり。袋麺はたいへん便利で我が家では多用されます。キャベツや白菜と鶏肉を茹でて取り出したあとに袋麺を調理すると完全栄養食になります。
今週の考えごと: 悪意の出てこない物語
アンディ・ウィアーの「プロジェクト・ヘイル・メアリー」を読み終わりました。アンディ・ウィアーとは「火星の人」を書いた人です。現代時間軸と現代科学を用いておおよそ現実的なSFを書く人です。デビュー作の「火星の人」はおもしろくて数年前に一気読みした覚えがあります。映画化もされました。なぜか邦題は「オデッセイ」と意味のわからないものになっていましたが我が国ではよくあることなのでまあいいでしょう。小説はおもしろいので小説を読むとよい。
アンディ・ウィアーの第三の長編が「プロジェクト・ヘイル・メアリー」です。主人公が起きたら恒星間宇宙船に一人きりというところから始まります。この作品はどんなネタバレも楽しみを損なうのでこれ以上は語りませんが、たいへんおもしろい作品でした。電子書籍にもなっているので是非読んでください。
そして読み終わって気づいたのが、アンディ・ウィアーは「悪意に頼らずに物語を動かす」という特徴です。これは「火星の人」のときもそうでした。主人公が宇宙のどこかで一人ぼっちになり、トラブルに見舞われるのですが、トラブルはいつも想定外の出来事や単なるミスで起きます。ここに人間の意図はないのです。
ふつうの創作だと悪意や人の意思を使って物語を動かすことは多いでしょう。世界を滅ぼそうとする敵だとか、主人公の足を引っ張る愚か者だとか。アンディ・ウィアーの著作にはこの手の悪意を持った人間が一切出てきません。これはSFとして大事なことです。
なぜ悪意を出さないのが大事なのか?科学的な現象=物語上の出来事は人間の悪意なしで起こせるからです。SFとしては出来事が悪意によって引き起こされる必然性はありません。
なぜ悪意に頼らなくても大丈夫なのか?科学は既知の範囲でのみ有効な道具だからです。科学は未知の領域ではミスをしますし、副作用を起こします。既知の範囲でミスが起きうるとわかっていたら対処はできますが、知らないことには何も手が打てません。なので、科学的な現象だけを使っても悪意に頼らずトラブルを起こすことはできます。
科学の副作用つまりトラブルはいろいろあります。歴史的には、二酸化炭素排出による温室効果もそうですし、放射線の初期の研究における被爆もそうだったでしょう。知らないものはどうしようもないのです。
余談ですが、既知の範囲でならうまくいく性質はお仕事でもよく問題になります。抽象的に言うと「情報が足りていれば最適な意思決定をしうる」ということです。宮本茂氏が似たようなことを言っています。
岩田氏: あと、宮本さんは「どうしても解けない問題があるときは、きっと誰かが嘘をついている」って言うんですよ。
ええ。それは別に「悪意で嘘をついている」って話じゃなくて、誰かの認識が間違ってたり、事象の捉え方が間違っているから問題が解けないんじゃないかって、そう考えるんですね。
宮本さんってね。なんというか“視点を動かす天才”なんですよ。そのすごさ(視点を動かすことの価値)を、分かりやすい言葉で伝えられると、いろんな人に喜んでもらえますから,とても面白いんですよね(笑)
チームでのお仕事では、各人の頭から情報を集めて最適な判断をするものですが、認識間違いによって情報が足りないと判断は最適になりません。また、「いい問いを立てると問題が解ける」というのも似たような事例です。どんな問いが立てられているかによって、集められる情報が変わるからです。科学革命が起きるのも問いの性質が変わるときです。問いは視点を規定します。問いを立てることで情報を集め、その場その場での最適な判断をするのが理性一般のやり方なのです。余談終わり。
悪意に頼っても物語はおもしろくできます。ですが、物語もたくさん語られてきて複雑化しているので、単純な悪役を出してもおもしろくありません。悪役を出すからには悪役の人生の深みが必要です。魅力的で説得力のある悪役を出すのも難しいですが、悪役に頼らず意図せぬ結果だけで物語を進めるのも難しいでしょう。
ところが悪意に頼るのは楽なのです。近年さまざまな陰謀論が跋扈するのも、悪意を想定するのが楽だからです。人間という動物は群れてコミュニティを作り、敵味方を識別します。敵は悪意を持っています。こう想定するのは人類のファームウェアレベルの機能ですし抗いがたいものです。ですが、現実にはそれほど悪意は多くありません。ないわけではありませんが、多くは意図せぬ結果や偶然の出来事でしょう。敵か味方かを決めず、固い事実が判明するまで態度を宙づりにしておくこと、これが科学的な態度といえます。
科学的な態度を貫徹させると困ったことになります。極端な例を挙げると、大地震が起きて大事な人が死んだとしても悪役や悪意を認定することはできません。現実的・理性的にふるまうことは、どんな不条理が起きても存在しない悪意を想定しない態度を意味します。たいへん厳しい態度です。人間的ではありません。おそらく一流の科学者でも身近なところで不条理が起きたらこの態度を取れないでしょう。
不条理に対抗できるのは信仰です*1。不条理には(根源的)理由がありません。同様に信仰にも理由はありません。近代以前は不条理も多かったことでしょう。人は簡単に死にました。だから信仰に価値があったのです。それが近代以降は不条理が減りました。死ににくくなりました。同時に、信仰の対象は宗教から科学へと移りました*2。
ですが科学的手法・態度は生活世界にとって関係のないものです。われわれはただ道具として科学技術の結晶を使えればよいのであって、生活をする個々人に理性や科学は必須ではありません。理性を使い悪意の想定をやめよと言っても仕方がありません。なのに、理不尽に対抗する伝統的な信仰は失われつつあります。理性も信仰も弱くなっていることは、不条理に対して説明をする原理が失われていることを意味します。納得のできない人々は不条理に対して意味のない責任主体を求めるようになるでしょう*3。しかし、大地震が起きて人が死んだとしても責任主体はいません。地震を原因としてどのように死んだのかは説明できますが、なぜ地震がいま、その場所で起きたのかを説明する原理は究極的には存在しない、あるいは無意味です*4。
そういう意味で、アンディ・ウィアーの物語は科学者としての強い理性でもって書かれています。悪意はまったく出てこないので、アンディ・ウィアーのネガティブ・ケイパビリティは相当なものです。SFとしてはこの態度は手放しに褒められます。なので、上記の私の懸念はともかくとして「火星の人」と「プロジェクト・ヘイル・メアリー」は素晴らしい作品です。それは間違いありません。
私の述べたことは本作とは関係のないものですが、物語の世界から現実の世界に戻ってくると上記のことを意識せずにはいられませんでした。それだけ現実の世界は微妙な状況に陥っています。
科学と信仰の間の中途半端な状況にある問題を考える参考文献として、國分功一郎氏と千葉雅也氏の対談本の「言語が消滅する前に」が挙げられます。古典ギリシア語には中動態があり、する - されるの関係だけではなかったという話をベースに、現代の言葉の使われ方が「科学的な」責任主体を求めてしまうことを論じています。