しゅみは人間の分析です

いらんことばかり考えます

週報2022/01/16 プログラミングと人文学の共通点

近況

労働

体調が最高なのでよい出力が出せています。アイデアがすぐに出てくるし、アイデアの実装もすぐに終わる状況です。集中力が高めで維持されているようですね。

体調

脚を暖めたらすべての問題が解決されました!

しかも体重が減ってきました。実際に贅肉もなくなっています。脇腹を触ったらびっくりしました。

 

冷えていると血流が悪くなり、なんでか知りませんがそこに贅肉がつくのでしょう。輸送網の効率が悪いからそこかしこにバッファーを積んでおくみたいな?

また、肩甲骨のあたりが寒くなることが増えました。これは良い兆候というか痩せたメカニズムを説明できる現象です。

というのも、背中の上半分には褐色脂肪細胞があるのですね。この細胞は脂肪をエネルギーに変換する役目を持っています。血流が良くなったことで贅肉から燃料を集めて背中で燃やしているのでしょう。

余暇

「露出せよ、と現代文明は言う」を読み終えました。数週間前の週報で書いた「内面が直接接続され身体性(無意識)が希薄になっている」ことが精神分析の文脈で分析されていました。現代社会の人々の問題、ネガティブケイパビリティのなさはいろいろな角度で論じうる問題ではありますが、精神分析の視点も新鮮でおもしろかったです。

 

「「論理哲学論考」を読む」という本を再読しています。さいきん「プログラミングと人文学(自然言語)の共通点」について考え続けていたところ、ウィトゲンシュタインがポイントなのがわかってきたので、「論考」を読みなおしている次第です。

 

ブルアカに時間を割いていた週でもありました。ガチャに課金してムツキ(正月)を天井交換したり、最新シナリオを読んで感涙したり。

ブルアカのテキストの密度が高くて高品質なのは事実ですが、私は「エデン条約編のテーマが他者問題だった」ことに注目しています。他者問題を考えたがるのはまず哲学をやる人だと思います。ブルアカ全編を通した敵(名前忘れた)が衒学的な哲学っぽい言葉を垂れ流すあたりも、ライターの哲学素養を感じるところです。

料理

いつもの一汁一菜+魚でした。土曜日にカレーを作りました。

土日に製麺をしたかったのですが、読書と書き物に押されて時間がとれそうにありません。無念。

 

今週の考えごと

プログラミングと人文学の共通点

プログラミングを用いた問題解決の極意は「データ構造の設計」にほぼ全てがあるのですが、これがまた深くておもしろい問題なのです。具体的にはstructの中身をどうやって決めるか、いかにしてstructを作っていくか、という問題意識になります。データ構造の設計がうまくいけば、めんどくさいアルゴリズムなんていらないのです。これは冗談ではなくて、同じことをgolangの作者であるRob Pikeも言っています。

structを作るべくメンバ変数をいじる操作は、人文学的な思考における言葉を選ぶ操作に似ています。哲学や社会学で思索を練るときも言葉の選び方が大事になってきます。また、インターネットで賞賛される「言語化」にも似たものがあります。新しく概念を知ることで、問題を語るのが簡単になることはよくあります。「心理的安全性」なんかが代表例でしょう。

このような概念の導入は、よいデータ構造を導入してコードをシンプルにするのと同じことをやっています。

 

なぜ遠く離れた分野に似たようなコツがあるのでしょうか?「人間が考える」ときにデータ構造=語を使うからでしょう。

「人間が考える」とは何か?を突きつめると、答えとして「集合と論理」が出てきます。一般に、集合と推論規則を使って考えるのが人間知性だとしてよいと思います。データ構造も語も何らかの集合です。データ構造や数学の集合は、要素が何かきちんと定義されているものですが、自然言語における語は要素が不明という違いはあります。人間の脳が勝手に理解し構成しているのが語なので、要素が何であるかは語れません。また、人によって語の要素は微妙に違うでしょう。

プログラミングではstructを型として抽象的に定義し、コンストラクトしたオブジェクトで具体的な処理をします。似た構造が語にもあります。言葉を辞書で引いてみると抽象的な意味の範囲が示されていますが、実際に話される言葉は文脈に埋め込まれていて、具体的な意味を示しています。型=辞書的な意味の定義域、オブジェクト=文脈に埋め込まれた言葉という対応関係です。

 

ここまでは考えたのですが、行き詰まりました。私の問いは「データ構造をいじるとき我々は何をしているのか?」です。

よいデータ構造(概念)を定義すると問題が一気に解けることがあります。この体験はプログラミングでも言語化でも同じです。おそらく、アイデアとはよいデータ構造を定義することなのだと思います。

「よい問いを立てると問題が解決される」ということもよく言われます。データ構造と問いはどんな関係にあるのでしょうか?データ構造は目的によって要素が変わります。ならば、問いが先でデータ構造があとなのでしょうか。なんとなく、私の体験としては問いとデータ構造が同時に確定するように、アイデアが出てきているような気はします……。なんもわからない。

 

というわけで「データ構造をいじるとき我々は何をしているのか?」を明らかにしたくて、論理哲学論考を読みなおしています。ウィトゲンシュタインは言語におけるデータ構造の解明をしているように見えます。ですが、私の問いと似た方向ではなかったようにも見えます。この問いは私のこだわりなので、これから数年かけて考えるものと思われます。