しゅみは人間の分析です

いらんことばかり考えます

週報2022/01/23 キャラクタービジネス, 理不尽に耐えられない社会

近況

誕生日が過ぎてました。特に欲しいものもないので何も貰いません。

労働

重めのデバッグ業が発生しました。2営業日くらいかけて原因を特定しました。訳のわからないバグを突き止めるのはたのしいですね。

私は労働のモチベーションが暇つぶしなので、変なバグが出ると喜んで解決しにゆきます。

体調

雪の降った日に体調が崩壊しました。原因はいつもどおり、冷えです。行きつけの鍼灸院では脈をとって五臓(心・肝・腎・脾・肺)の元気さを測定するのですが、五臓全部がダウンしていました。大寒のこの時期は寒さが厳しいので、油断をすると冷えが身体に入ってきて体調が終わるのですね。対策は着込むことしかありません。あと運動。運動不足は在宅勤務の弊害ですね。

体調が終わると体温が下がり頭がまったく動かなくなります。トムラウシ遭難事故レポートによると、低体温症によって脳に低温血液が入ると思考がダメになるそうです。今回の不調はこれと似た体験をしたのだと思われます。察するに、死ぬときはだんだん体温が下がって思考が鈍っていくのでしょう。死そのものは苦痛というより意識が鈍って消えていく感じなのだろうなと思いました。

余暇

言語の本質を探るべく論理哲学論考を読んでいました。二周目です。一周目とは違って読書ノートをつけながらゆっくり進んでいます。いま3.xを読んでいます。

金曜日にはブルアカの一周年記念生放送を見ていました。1時間くらいで終わるかなと思って観ていたら3時間あって生活がめちゃくちゃになりました。Yostarのシナリオ・コンテンツディレクターの加藤くんが誠実でよかったですね。

料理

いつもどおりの一汁一菜です。この週末も忙しくて製麺は無理そうです。

今週の考えごと

キャラクタービジネス

漫画ではキャラクターが大事だと言われています。ジャンプ編集部が開いた漫画講座では、第一回でキャラクターの重要性が説かれています。

jump-manga-school.hatenablog.com

キャラクターを磨く仕事をしているのは漫画家だけではありません。(スマホ向け)ゲーム業界では、キャラクターを量産できる企業が珍しくありません。短い期間でキャラクターを設計し声とエピソードをつけてガチャに投入してゆきます。キャラクターに魅力がないと売り上げがあがらずゲームが死ぬので、必死にキャラクターを作っていることでしょう。おそらく今の娯楽業界でもっともキャラクター作りに長けているのは(スマホ向け)ゲーム企業です。

よいキャラクターの条件は二次創作がしやすいことです。二次創作が盛んであることは、誰でもそのキャラクターを動かせることを意味しています。「このキャラクターはこの状況でこう言うに違いない」という想像、ごっこ遊びが誰でもできるのです。キャラクターの性格に客観性(再現性)がある、ファンに対して開かれている、とも言えるでしょう。誰でも動かせるキャラクターは、ファンの脳内に棲みつくことだってできます。

ですが、キャラクターは何でもよいわけではありません。必ず作品世界のなかにいて、何らかの役割を持って存在しています。作品世界なりの社会があり、そこで何らかの役割を持って物語を動かすからキャラクターが活きてくるのです。キャラクター単体でいるよりもキャラクター同士の会話があったほうが存在感が出てきます。二次創作ではR-18コンテンツも多いものですが、エロ表現はキャラクターの日常的な側面があってこそ魅力的になります。なので、キャラクターはどこかの作品世界のなかで、役割をもって活躍してなければなりません。

役割としてのキャラクターは作品世界の基底になっています。役割は被ってはいけません。異なる役割を持ったキャラクターが協調して動くことで物語が進んでいくのです。キャラクターの魅力は物語が進むことでも高まります。キャラクターと物語は両輪となってコンテンツ全体を魅力的にしてゆくのでしょう。

理不尽に耐えられない社会

先日論じたように、偶然性・理不尽は耐えがたいものです。強靭な理性を持っていない限り、偶然的な出来事を事実として受け容れることはできません。偶然性に耐えられないと、出来事に対して、これは超越的な誰かが意図したものだという説明を導入することになります。これが信仰です。ですが、科学技術の恩恵が生活に浸透することで信仰は廃れました。現代では科学への「信仰」が活発ですが、科学は科学の知らないことを説明してくれません。なので、科学に説明できない領域は空白地帯になっています。

宗教への信仰が廃れても理不尽が起きない限り問題は表面化しないものですが、地震感染症という理不尽が起きて、「科学信仰」が盤石でないことが明らかになりました。震災以降、SNSが変わったとよく言われます。理不尽としては、東北の震災はまだわかりやすいものでした。地震という災害は誰の目にも明らかな物理的破壊です。これを誰かの責任に帰せるのは難しいものです。人は傷つくと説明を求めます。なぜこんな理不尽が起きたのか、どうして私がこんな目に遭わねばならないのか、と説明を求め、誰かのせいにしたがります。ですが、相手が完全な自然現象である限りどうすることもできません。誰の責任でもない事態には耐えるほかありません。

一方で感染症は目に見えない理不尽です。感染と闘病が当事者にしか見えないだけでなく、感染者の死も社会から見えない点が重要です。これは近代批判としてよく言われることですが、人が病院で生まれて病院で死ぬようになってから、生老病死は社会から切り離されています。こうして理不尽としての感染症も社会の表舞台からは見えにくくなっています。目に見えず伝聞でしか存在が確かめられないのに、人の動きが変わり生活は否応なく変化させられます。実感から遠いために感染症の理不尽には陰謀論が入りやすいのです。

宗教が衰退した社会は厳しいものです。傷ついたとき、理不尽に見舞われたとき、合理化をする原理がどこにもないのです。今後も理不尽な出来事に対して無力な社会は続くでしょう。傷ついた人間に必要なのはカウンセリングのような対話です。語ることによって偶然性を受けいれるか、宗教や陰謀論によって超越的説明を求めるかしか選択肢がありません。どちらがよい選択なのかはわかりませんが、全体として厳しい時代であることは間違いないでしょう。