しゅみは人間の分析です

いらんことばかり考えます

週報 2022/07/17 偶然性のおもしろさ

雑記

投票の日

いつも候補者の名前を覚えられなくて困る。候補者一覧が掲示されていても、どれだったかわからなくなる。ワーキングメモリが少なすぎるのだ。同僚の名前もよく忘れるのだから無理もない。

 

政治家は名前が大事である。市民に覚えてもらわねばならない。耳に残りやすい名前は勝率が高いだろう。たぶん政治家の家系は選挙を意識して名前をつけている。
赤松健もいい名前をしている。彼はもとから政治家っぽい名前をしていたのだ。

投票に行って外食、ではなくスーパーで食材を買って帰った。食糧は日曜日と水曜日に買い込むことが多い。

関西人の喋りやすさ

関西人、特に大阪人との会話はリズムゲームである。卓球のラリーと言ってもよい。
なんでもいいから素早くレスを返すのが大事だ。考えすぎたら返せなくなるので、率直に思ったことを言えばよい。

先日おしゃべりイベントを複数こなしてそう思った。関西人は喋りやすい。
どこに球を打ってもラリーが続くように返ってくる。関西ネイティブの人の返しのうまさに甘えてはいるが、関西人ファームウェアが無意識にやっているところもあるだろう。

ZoomやDiscordだとリズムゲームはうまくいかない。音ゲームで遅延が致命的なように、リモートだと会話のリズムが保ちにくくなる。

大阪府出身の妻氏は「大阪人の会話は光速を超えるんや!リモートでは遅い!」と言っていた。意味がわからない。詭弁である。

適度に遠慮しない

おしゃべりイベントの反省として「自分は業務で遠慮しすぎでは?」という疑問が出てきた。
リモートだから、という言い訳も考えたがたぶん元からだ。

チームでの開発において遠慮は適度に省いたほうがいい。遠慮をすると情報が出てこなくなる。「アウトプットは多いほどよくて、インプットは各自のフィルタでなんとかする」のがインターネットの原則だ。チャットなどを使うチーム開発にも適用できる話。

とはいえ同僚にも遠慮しがちな人は多い。会社の採用傾向がそうなのかもしれない。

 

SNSの治安悪化も影響してるのではないか。SNSではしばしば通り魔が出るので、SNSに触れていると発言が抑制的になってしまう。職場に通り魔は出ないのだが、デフォルトの態度が遠慮しがちになっているかも。

職場にもいるのはレスバ・マウントをし始める人だろうか。性差関係なくこういう人はいる。20代ならこうなるのも仕方がないと思うのだが、30をすぎてもマウント会話をしたがる人はどうしようもない。

アンチョビの使いどころ

オリーブオイルでニンニクを抽出する工程でアンチョビを潰しておく。出汁になってパスタ全体がうまくなる。

珍しくアニメをみている

動画は苦手だ。ほとんど見ないのだが、上司にリコリス・リコイルを勧められてみている。
たしかに人に勧めるに値する出来だと思った。よく練られている感じがする。キャラもよい。

 

そういえば私はガールミーツガール、バディものには弱いのだった。
同様のアニメとしてフリップフラッパーズがある。一目見てBlu-rayを買いそろえてしまった。まだ手許にある。

Amazon.co.jp: フリップフラッパーズを観る | Prime Video

読書はいい姿勢でやるものではない

読書はだらけた姿勢がよいのに気づいた。
ソファでもダイニングチェアでも、仕事用のオフィスチェアでもない。読書には読書のための椅子がある。

できればそういう椅子を買いたいのだが、我が家にはもう空間がない。無印の人をダメにするクッションで誤魔化すことにした。動かせるので便利。邪魔だけど。

クッションでダメな姿勢をとりながらの読書は捗る。
完全に寝ていてはダメ。ベッドではいけない。30度から60度くらいの角度がいい。

読書環境

偶然性のおもしろさ

アニメを見ていたら庵野監督の「アニメには制作者の描こうと思ったものしか出てこない」という指摘を思い出した。

制作者の意図を超えるために庵野監督はPreVisをやっている。シン・エヴァでは、物理的な役者にアニメの台本を演じてもらい、それを自由にカメラで撮っていた。物理世界でシミュレーションをしているので、思ってもみない絵が出てくる。

思ってもみない表現はおもしろい。意図せぬ表現には無意識によるものと偶然によるものがあるが、偶然性がいちばんおもしろい。

例えば突然岩が割れるとか。京都の街角で友人と喋っていて、ヒートアップしたところでいけず岩が割れたらめちゃくちゃおもしろいと思う。しばらくネタにして知人に語りまくるだろう。

石でも雨でも雷でもよい。でも、散歩中に熊が出てきたら困る。人が怪我しない範囲でなら、偶然的なイベントはおもしろい。雷が落ちてきて助かったというエピソードは境界例だ。生き残れば笑い話である。

 

物語は偶然性を利用する。作者は偶然を装って登場人物を殺す。偶然性に理由がないとただの理不尽になり納得しがたいので、作者は言い訳として伏線を提供する。伏線には因果関係としておかしなものもある。ただの言い訳だからそれでいいのだ。

死亡フラグをまじめに分析すると、「帰ってきたら……」という発言と事故のあいだに必然性がないことがわかる。「帰ってきたら……」と言ったから死んだのではない、ただ偶然死んだのである。

偶然なできごとには脈絡がない。脈絡がないからこそ、物語を進められるのだ。作者は偶然的なイベントを組み合わせて物語を作る。

偶然性の使い方に作者の力量が出るのだろう。視聴者の感情を適切に揺さぶりつつ、納得のできる偶然イベントを仕込む。これが上手なエンターテインメントである。

庵野監督の場合はさらに上を目指している。作者も意図していなかったものを撮りたい。本物の偶然性だ。意図せずいい絵が出てくるかどうかすらわからない。サイコロを振るようなものである。でも、それでおもしろいものが出てくるならばいいのだろう。