近況
前の日曜日は休みにできたのだが、どうも体調は不穏だった。喉が痛かったり、ストレス性の皮膚炎が出たり。すわコロナか?となったが、お灸をしたら治ったので違ったようだ。おそらく冷え。秋が来て冷え性にはつらい季節になってきている。
月曜日は関西コミティア。台風が迫っているなか、本を売ってきた。相変わらずスペースには予備椅子がなくてずっと立っていた。午後には台風が最接近していたのだが、会場が家から近くてすぐに帰れた。便利である。
イベントが終わりほっとした妻氏はSplatoon3を買ってプレイし始めた。ナワバリバトルをずっとやっているようだ。私はヒーローモードとバイトをやっている。ヒーローモードの難易度が高すぎて文句を言いながらクリアした。
火曜日から木曜日までの平日は業務。休みを入れて巨大な連休にしている同僚は多かった。私は仕事が詰まっているのでふつうに働いた。締切りが二つ迫っていてたいへん焦っている。
仕事はたいへんなのだが、私生活のイベントは落ちついてきた。あとは次の金曜日の社交ダンスレッスンくらい。やっぱり私はイベントがあるとダメで、落ち着かなくなりストレスを受ける。月にいっこくらいにしておきたい。
手書きの自由さ
仕事で作文をたくさんしていて、手書きの便利さを知った。
これまでの書き物は、アウトラインプロセッサでの下書き、設計を経て、別のエディタで清書をしていた。アウトラインプロセッサはもちろん便利だし、有用なのは変わらないのだが、より前の工程に手書きが入るのに気づいた。
なんせ、手書きは紙とペンさえあればよいのだ。下書きの下書きなので、雑でよい。漢字はまともに書かないし、字はめちゃくちゃだ。たぶん他人には読めない。一ヶ月後の自分にも読めないだろう。でもそれでいいのだ。数日読めればよくて、下書きの役割が終わったら捨てるものである。
紙は裏紙でいい。我が家には二次創作同人誌の通販事務処理で使っていた裏紙がたくさんあった。これをB6サイズに切って手軽に使える裏紙としてストックしている。B6なのがポイントで、気軽に書き散らかして捨てることができる。
紙とペンは思考速度が速くなる。PCやiPad、スマートフォン、どれも文字を打つのにハードウェアとソフトウェアのやり方に合わせないといけない。画面の広さ、キーボード、IMEなどの制約のせいで、思考スピードは落ちてしまうのだ。まともに漢字を書くのを諦めたら、紙とペンの思考スピードがいちばん速い。
紙にしろメモアプリにしろ、その道具の役割は(脳の)外部記憶装置である。思考を補助するメモリになればそれでいい。メモリとして使うのに、間に挟まる道具は少ないほうがいい。
もちろん、読むためにはディスプレイのほうがいい。ここで言っているのは、考えるため、書くための道具の話である。だから、手書きがいいのは下書きまでの話。人に読ませる、あるいは日記にするならば清書は必要である。
『思い出を切りぬくとき』を読んだ
イベント続きで疲れていた先々週、なんだか哲学書や人文書を読む気分じゃないな、となってエッセイを読み始めた。
物語、小説コンテンツは苦手である。壮大な物語はたしかに楽しいのだけども、物語世界に入っていって戻ってくるのがしんどい。別に私は現実逃避をしたいわけではなくて、今ここで、現実にいながら少し物思いに耽るくらいがよい。なので、エッセイがちょうどいいと思った。
前にも書いたように、エッセイは読みやすさが大事だ。内容がなくてもよい。平易でいつでも読めて、その人にしか書けないものが出ているのがエッセイだ。
今ではYouTuberが人生の切り売り競争をしているが、原初の人生の切り売りはエッセイとか自伝である。
ある人物のエッセイに飽きたとき、その人の本に書かれていたことが、全部同じである、と理解する。人生の切り売りコンテンツとはそういうものである。
萩尾望都は、伝説級の少女漫画家である。ちょっと古い漫画ではあるが、内容はたしかにおもしろい。妻氏が萩尾望都を気に入っていたようで、家にたくさん本がある。
そんな萩尾望都の古いエッセイを集めたのがこの本。家に落ちていたので読み始めた。
鈴木光明先生のマンガ教室に毎年、とりあえず講師として一、二度出席するのだが、行くつど教えることは困難だと実感する。こういう表現の形態について、描き方について教えられることはほぼ表面的な技巧面が主だし、なぜ表現するのかという肝心な、そしてもっとも大切なことは、もう教える、教えないの域を超えてしまう。あとは各自が知るのを気づくのを、補助するぐらいの役割しか出来ない。p46
憧れという感情は厄介で、自分の欲望ではないもの、他者の欲望を自分のものだと勘違いさせてしまう。他者の欲望に欲望する。これは消費の一般的形態でもある。
内発的な動機=欲望による表現が一級であるとする意見は今では古いかもしれない。承認や金儲けが大事だ、とも言える時代である。しかし、それでも私は作者が自由な、好きなように描くのがいちばんだと思う。
他にも「このまじめなSさんに創作が遊びとムダから生まれることをどう説明しよう」とか、「5分でできる仕事の依頼でも、割り込み仕事は嫌だ」という話があった。
『中動態の世界』を読んだ
國分氏の本は読みやすい。哲学書なのだが、問いが整理されており、全体構造がわかりやすい。そして本文も平易に描かれている。稀有な哲学書である。
國分氏のことは、千葉氏との対談本、『言語が消滅する前に』で知った。國分氏と千葉氏は東大時代の知り合いか何かのようで、それなりに仲が良さそうである。
その後『暇と退屈の倫理学』を数ヶ月積んでから読み、これもよかったので、『中動態の世界』を読み始めた次第である。
國分氏は千葉氏と違って、ちょー真面目な哲学者だと思う。でも、古典解釈ばかりしているタイプの哲学者でもない。ちゃんと現代の生活世界を見据えて哲学をしている。
そんな國分氏の今回の問いは、「言語は人間の活動を捉えきれていないのでは?」「行動はすべて意志があるかのように言われるが、そうではないのでは?」というものである。
これは至極真っ当な問いで、人間の行動は意志で貫かれているわけではない。歩く動作一つとっても、意志があるような、ないような側面がある。脅迫をされて金を払うとき、明らかに我々は意志に基づいていない。
この、意志概念は構築物では?という問いを、中動態という、消滅した態から分析していく本である。
あらすじ: 一般的には、中動態とは能動態と受動態の中間の態だと説明されるが、國分氏は、バンヴェニストの説をベースに、中動態が受動・自動詞・再帰の役割を合わせもった言語機能であることを示していく。最後に、スピノザの言語理解を解釈し、中動態がたしかに人間の行動をうまく説明すると主張する。
というような、本である。意志、行動、言語、人間を分析するおもしろい本だった。内容も充実していて、サービスもよい、いい本である。