近況
なんだか元気がない。
私の元気さは日記の量でわかる。二千字を切っていたらその日は元気がない。頭のはたらきが鈍っていて活動も少ない。起きたこと、考えたことを書くので、文字数に元気さがあらわれるのだ。
まわりも元気がないようにみえる。同僚も体調が悪そう。SNSの知り合いにも調子が悪い人がいる。人身事故も増えているようだし、冬の訪れにより人々の身体とメンタルはやられているのだろう。
冷えは首から入る。首を冷やさぬよう気をつけて過ごすとよい。冷えたら暖かくして寝るほかない。冬は寝るものである。
読書
2冊読み終わった。『論理的思考の社会的構築』と『時計遺伝子』。
『論理的思考の社会的構築』
内容: ◎, サービス: ○
「論理的」と呼ばれる思考様式は国、社会によって異なる。アメリカのエッセイ(小論文)は5段落エッセイの形式になっていないと「論理的」とは認められない。日本やフランスの書き方では点がつかない。逆にアメリカの教育を受けた人がフランスで小論文を書いてもまったく評価されない。
何が「論理的」で説得力があるのかは、その国の歴史、政治的事情、文化によって決まる。社会それぞれに型がある。そのなかでもフランスの小論文の型について調べたのが本書である。
フランスのアイデンティティはフランス革命である。革命は未だに続いていて未完成である、社会は変革され続けなければならない、ただし言論によって。これがフランスの核となる考え方、ひいては市民のあり方である。フランス市民は社会を批判的に検討し、よりよくするための思考法を持っていなければならない。高校卒業時の試験でもこれが問われるし、市民による嘆願でも同じ型が使われる。
フランスの型は弁証法をベースにしている。正と反の二項対立を立て、それらを包括する中立的で抽象的な視点に立ち問題を解決する。ヘーゲル的なお手本通りの弁証法である。他方、アメリカは主張、理由、主張のシンプルな構造をしていて、自然科学の論文に近い形式をしている。フランス人にとってアメリカの型は直線的でつまらない。弁証法的を用いて相反する現実の難しさを抱えたまま考えるのがおもしろいとされる。
フランスで弁証法が大事なのは、フランス革命の辛酸を教訓にしているからだ。フランス革命では王政を倒して逆張りをして、また逆張りをして、というような両極端を行き来する混乱があった。こうした二項対立を経験しているために、両極端を視野に入れつつ考える思考様式が教育のゴールに選ばれた。
フランス革命のような歴史をもたない国には当然なじまない。このように、社会および教育のゴールである、「論理的」思考の様式は社会固有の事情、歴史によって決まるものである。
では日本はどうか。日本はアメリカのエッセイ方式をベースにした独自の形式らしい。しかし「日本の歴史と文化を考えるとこの形式がベストである」みたいな練り上げはされてないようだ。
個人的にはアメリカのエッセイはつまらない。フランスの弁証法のほうがおもしろいと思う。アメリカの文化である、強すぎる個人主義には、キリスト教の予定説の影響もある。我々にはなじまないだろう。
時計遺伝子
内容: △, サービス: ×
理系読み物枠でブルーバックスの『時計遺伝子』を読んだ。人間の脳には概日リズムを正確に管理するモジュールがある。それを研究している人の本。
つまらなかった。著者が自慢ばかりするし、内容は無駄に細かい。サービスレベルは低かった。ブルーバックス、というか理系研究者の本にありがちな傾向ではある。すごい成果を出した研究者でも日本語や作文はめちゃくちゃなのは珍しくない。それを覚悟したうえで読みとばすジャンルが科学系の読みものである。
欲望が露わになった社会
品がなくなっている。山手線の車内の広告でわかるように。
品とは、欲望が隠されたさまである。建前をおいて、欲望を水面下に隠しているのが品がよいことだった。かつて品がよいことは大事な規範だった。
妻氏はたまに、深田えいみをおもしろがってウォッチしている。
深田えいみは喋らせると知性がみてとれる。整形を使いつつ、戦略的に今の地位を築いているのだろう。では、なぜ彼女はあのような顔に作りかえたのか。
親しみやすさが大事だから。身近にあのような顔の美人がいてもおかしくはない。もしかしたら自分でもお近づきになれるかも、そう思わせる親しみやすさがある。この傾向は女優やアイドルでも顕著だ。おそらくAKB以降なのだが、アイドルは親しみやすくなった。会いにいけるアイドル、というコンセプトにも表れている*1。その系譜に地下アイドルの隆盛もある。
それ以前のアイドルは、生活世界からの遠さがあった。私生活が隠されていたのもあるし、顔が端正で整いすぎていて、身近にはいなさそうだったのもある。
古いタイプのアイドルへの評価は「綺麗」「美しい」で、今のアイドルへの評価は「かわいい」「推し」である。前者は対象への距離があり、欲望を内に秘めつつ尊崇する姿勢がある。まさに偶像である。後者は対象への近さがある。「推し」なんかはとても近い*2。欲望は直接的、隠さないものになっている。「手が届くかも」と思わせることで、欲望は露わになるのだろう。
どちらが良いかではなく、どこかのタイミングで価値観が反転したのである。「綺麗」なアイドルの時代でも抑圧された欲望自体はあった。需要はあったのだから、それを表に出してきただけではある。世代交代が進み、「価値観をアップデート」した人が増えて欲望を発露することが普通になった。
同じ構造はインターネット文化にもある。震災以前のインターネット、特にiPhoneが発売された2008年以前のインターネットはアングラ的な場で、「表」の社会とは離れた抑圧された空間だった。水面下の存在だから欲望を発露してもよい、そういう建前があった。ハンドルネームとリアルネームを分けていたのも、別の世界と扱っていたからである。それが、欲望を発露する時代の到来により、「表」の社会と同化した。この価値観の反転は徐々に進んでいき、2010年付近で入れ替わりが進んだとみてよいだろう。
今や価値観は転換し、もう元には戻らない。どこかで再反転が起きて中間に落ちつくとは思うが、それを実践するのは若い世代であろう。今でも「表」のSNSを嫌って仲間内のDiscordなどに籠る人は増えている。メインストリームのSNSでは社会的にふるまい、水面下で親しみをもったやりとりをする。
今のSNSおよび社会では、距離感が人によって違う。知らないアカウントにリプライをしまくる人もいるし、できるだけ避ける人もいる。距離の近さが同人活動などのクリエイティブ趣味を支えている側面はあるので一概には否定しがたいが、距離感についての共通見解、規範ができていないのはややこしいと思う。