しゅみは人間の分析です

いらんことばかり考えます

週報 2023/01/08 餃子・ベーコン・股火鉢

連休の様子

コミケが終わり、正月休みに入った。当初懸念していたCOVID-19への感染もなく、家の片づけや料理、読書をして過ごせた。

元気にすごせたかというとそうでもない。我が家は二人とも夜型で、連休には必ず夜更かしをしてしまう。2時か3時に寝て正午前に起きる。当然自律神経は狂うので、毎日まぶたがピクピクしているし、足も冷える。また運動不足と寝すぎで腰も痛くなる。

休めているのかそうでないのかよくわからなくなる。我々は業務というペースメーカーがなければ健康でいられない。たとえフルリモートには適応できても、フルフレックスはダメだろう。適度なコアタイムがないと病むタイプである。とはいえ、別に積極的に働きたいわけでもない。休めるタイミングでは躊躇なく有給をいれる。

このようにして今日まで不健康な正月休暇を過ごしていた。

料理: ベーコンと餃子の皮

冬は寒くてやる気がないのだが、連休ともなると料理をしてしまう。ほとんど本能であり、やりたいとかやりたくないではない。気がついたら料理をしてしまっている。

今回は

  • サブジ
  • うどん
  • カレー
  • ベーコン
  • 餃子

を作った。

サブジ年報で存在を思いだしたから。クミンが効いていておいしい芋料理である。油脂が少なくて保存してもうまい。うどんはいつもの製麺趣味である。カレーはなんとなく食べたくなって作った。肉や野菜に塩をふってから炒めて、蒸し煮にしたら澄んだ味になった。カレーなのにクリアな味があって意味がわからなかった。

薄く切るとカリカリベーコンにできる

今回の変わり種、新しい経験はベーコンと餃子だった。ベーコンはコミケに行く前から仕込んでいた。豚バラ肉に塩をふってピチットシートで包んでおく。数日寝かせて水分が抜けた肉をけむらん亭で燻製に。できたベーコンはまさに本物のベーコンだった。思うに、スーパーで買えるベーコンは偽物、というか薫香がなさすぎる。おそらく薫香をまじめにつけると癖が強すぎて売れないのだと思う。でも私は煙臭いベーコンのほうがいい。深煎りのコーヒーやフルボディのワイン、樽の香りがするウイスキーが好きな人はこちら側だと思う。

ぎょぎょぎょ

この餃子はなんの変哲もない餃子に見えるが、皮が手作りされている。我が家には製パン・製麺技術があるので、いけるだろうと思って挑戦してみた。その結果、たいへんな苦労をした。たしかにモチモチでパリパリな皮ができた。ホットプレートで焼いたのに店の餃子みたいな味になる。それはよかったのだが、問題は皮を作り餃子を包むのに2時間かかったことである。

何がまずかったのか。手作業で皮を作ったのが問題だった。中力粉と水、塩を練ってひも状の小麦塊にし、10g単位で切って伸ばすのが皮の作り方だ。指先ほどの小麦だんごを麺棒で伸ばせば餃子の皮ができるのだが、この作業が苦痛だった。皮は作業台や麺棒にくっつきまくるし、手作業で数十枚の皮を作る工程そのものが非効率である。

正解は製麺機を使う方法である。麺を作るのと同じようにまず麺帯を作る。ここで麺帯を切らずに型で抜いたら餃子の皮ができるのだ。圧延工程が機械任せで、一気に数十枚の皮が生産できる。こうすべきだった。というか、工場ではこの方法で作っているようだ。

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家の片づけ: オイルレスヒーター購入

暇を使って生活空間のメンテナンスをした。まず、オイルヒーターの買い換え。これまでデロンギのものを使っていたのだが、ついに壊れてしまった。壊れる瞬間に電子部品の焦げる匂いがしたので絶対に使わないほうがいい。修理という手もあったが、現代のヒーターによりよいものがあったので買い換えた。

eureksのオイルレスヒーターを買った。形状はオイルヒーターに似ているのだが、油は入っていない。だから軽い。もはやただの熱容量がでかいヒーターなので、オイルレスと修飾する必要はないのだが、なぜかそう呼ばれている。油が入っていないので軽くてコンパクトなのが特徴だ。

このタイプの、新世代のヒーターは各社から製品が出ている。我らが山善のものもあった。もちろんデロンギのもある。しかしデロンギの製品は高かった。8万円もするのだ。ちょっと出せない値段だな、となって半額で同等の性能であるeureks製のものを選んだ。知らないメーカーだったが長野のオイルヒーター企業らしい。

シュッとしてる

見た目はこんな感じで、上部にMac Proのおろし金みたいな穴が空いている。稼働させるとここから熱気が昇ってくる。冷気を下から吸う構造らしい。ファンがついていないのに空気が巡って不思議である。

今のところ、性能・UIには満足している。ほどよく温かいので股火鉢だといってまたがったりする。乗ってはいけないが。

 

その他、以下のメンテナンスをしていた。

  • Switchプロコン修理: スティック補正が効かないほどドリフトしてしまった。バイトができない。
  • 加湿器のフィルタ交換: 昨春に汚れたフィルタを捨てたのを忘れたまましまっていた。動かしても水が減らないのを不思議に思っていたらフィルタがなかった。
  • リネット送り: 小型家電といらないケーブル、使わないPCなどを送った。付属品のUSBケーブルが溜まりすぎ。
  • 靴の調整: 誂靴の仮合わせをしたさいに、メイン靴の調整をしてもらった。足が痛くなる対策として1mmのソールを入れた。1mmなのに履き心地が変わる。
  • ソファ・椅子のクリーニング: 木目に塗るワックスの蓋が開かなくて苦労する。割った。

挿絵

読書: 『宮本常一『忘れられた日本人』を読む』

哲学・精神分析の本を読んでピンとこなくて困っていたところ、『宮本常一『忘れられた日本人』を読む』を読んでみた。文章が上手で内容に興味があったため、熱中して読むことができた。3時間で読みきってしまう。久しぶりのよい読書体験になった。

この本は歴史学者網野善彦氏が『忘れられた日本人』という本について解釈した講義録である。『忘れられた日本人』とは、宮本常一という柳田國男に次ぐ伝説的民俗学者の書いた本で、昭和初期の農村の様子を描いた傑作である。今の人が読んだらびっくりするような、「常民」の性的奔放さ、女性・老人の強さが語られる。私もこの本を読んでから読書の楽しさを知ったところがある。それくらいの金字塔である。

網野氏の解釈の力点は「女性の強さ」「東西日本の差異」「百姓は農民ではない」にある。

農村での「女性の強さ」は中世あるいはそれ以前から続く文化である。女性は公的な世界からは隠れていたが、繊維産業の担い手であり独立して金を得る技術を持っていた。また、女性が一人旅できるような環境もあった。西欧だと考えられないことである。我々の受けている教育では女性が抑圧されてきた、というふうに教えられるが、そうではない側面もある。

「東西日本の差異」について。西日本と東日本の人間の形質的差異は、西日本と朝鮮半島のそれよりも大きいという事実、そして、文化もフォッサマグナより少し西側で断絶がある、という話。これは関西で生まれ育った人からするとよくわかると思う。今でも東西の差はある。

「百姓は農民ではない」というのは、『忘れられた日本人』および宮本常一の主張ではなく、網野氏の持論である。我々は百姓=農民と思いがちだが、これは間違いで、統計上の「百姓」には漁師、工人、商人などが含まれていたよ、という話。水呑百姓も小作人ではなく、商人だったりする。このあたりの話は『日本の歴史を読みなおす』が詳しい。

という本だった。とても読みやすくていい本である。『忘れられた日本人』が前提になっているのでこちらから読むとよい。『忘れられた日本人』も読みやすい。

音楽の侵襲性

『ぼっち・ざ・ろっく!』の影響でいろいろ音楽を聴いている。アジカンの『Re:Re:』とNUMBER GIRLの『OMOIDE IN MY HEAD』を気に入って毎日聴いている。

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音楽をYouTubeであさると、どんどん時間が過ぎていく。特にライブ動画はアーティストのパフォーマンスにも見どころがあり釘付けになってしまう。音楽それ自体に意識が持っていかれるのに、映像まであると書き物や読書が捗らない。

 

三島由紀夫の『戦後日記』に「他の芸術では、私は作品の中へのめり込もうとする。(中略)音楽に限っては、音はむこうからやって来て、私を包み込もうとする。それが不安で、抵抗せずにはいられなくなるのだ」と書かれている(p38)。また、先日Twitterで「リズムやメロディという抗いがたいメディアに意味のわからない歌詞がのせられて、押しつけられるから歌詞のある音楽が苦手だ」という趣旨の発言をみた。

たしかに音楽は侵襲的で意思を阻害する。リズムがあり、時間が流れていくメディアなので曲の途中で止めるのが難しいし、曲調がよいとうっかり聴いてしまう。勝手に頭の中に入ってくるものだから、不自由さを強いる恐ろしいものだと言える。戦時のプロパガンダにも使われた。

音楽は、実は恐ろしいメディアである。特に、感受性の高い人は苦労するだろうなあと思った。

知っていること 7 割、聞いたことがあること 2 割、知らないこと 1 割

onk.hatenablog.jp

はてなブックマークを眺めていたらこの記事が流れてきた。記事のポイントの一つである「(発表は)知っていること 7 割、聞いたことがあること 2 割、知らないこと 1 割」という原則を知って驚いた。たしかに大事だと思う。
私は新しいこと、聴衆が知らないことに5割くらい割きがちである。間の論理もよくすっ飛ばしてしまう。新しい内容を1割に抑えるのは「サービス」に必須であろうなと思った。

アプリの島

今やインターネットサービスを「Webサービス」として認識する人は少ないだろう。PCユーザーは減り、サービスはブラウザのタブではなく、アプリとして使うものになっている。特にBtoCの、マス向けのサービスでこの傾向は強い。

各種サービス同士の距離は遠くなっている。PixivはPixivに閉じていて、ニコニコ動画ニコニコ動画に閉じている。サービス=アプリが「島」のように孤立している。スマートフォンの狭い画面ではURLを意識しないようになっている。

もちろん例外はある。テキストのSNS、とくにTwitterだ。Twitterだけがブラウザのように、各種サービスへのリンクを持って参照する立場にある。短文を扱うサービスだからだろう。URLと相性がよくてシェアボタンの投稿先になっている。

Twitterが各「島」を参照する構造が今後どうなるかはわからない。この構造が良いとも悪いとも言えない。スマートフォンのUIの制約、各種サービスの性質によってこうなっているだけだ。

Twitterは今後どうなっていくか雲行きが怪しいが、Twitter内で投げ銭ができるようになると窮地に立たされるサービスも多かろうなと思う。fantia, skeb, fanboxそしてYouTubeも。インターネットのグラフデータ構造の多くはTwitterのなかにある。各種サービスはそれに乗っかっているところがある。

キャラクターは欠点から作る

『ぼっち・ざ・ろっく!』を見ていたら、どのキャラもめんどくさい人間だと思った。みんな欠点を持っていて不器用なところがある。でも、その欠点は不快には見えず愛すべき短所として機能している。逆に長所もあり、物語を進める道具としてキャラの能力が活かされる。
一般化すると、キャラクターを作るには短所を考えたらよいことがわかる。これ自体はよくあるセオリーかもしれない。短所は抽象度が高いとよいだろう。そのように作ると、広く「共感」されるものになる。