しゅみは人間の分析です

いらんことばかり考えます

週報 2023/01/15 古典に通ずると文章がうまくなる, 納得したことだけに従う

近況

連休の終わりの日、休みが終わることへの現実逃避としてDyson Sphere Programをはじめた。昨年のゴールデンウィークにもしていた。休暇を食いつぶす自傷行為である。

工場を作る道具を作る工場

これは道具屋筋と呼んでいる工場群である。工場を作るための道具を生産しているから道具屋筋だ。

Factorioをはじめとする自動化ゲームはコンベアを引き回して工場を作る。しかしコンベアを引くのはめんどくさい。どの自動化ゲームも中盤に無線輸送システムが使えるようになる。かわいいドローンたちが物資を積んで、工場の間を飛び回ってくれるのだ。Dyson Sphere Programにも、新たな種類のドローンが追加され上図のような工場を作る工場を作れるようになった。

月曜日にはじめたので、当然まだクリアしていない。労働の日常に戻ってもまだやっている。休暇で生活位相が二時間ズレたこともあり、生活はガタガタである。

できごと

  • 僧帽筋が意識できるようになり、より姿勢がよくなった
  • 関西コミティアの新刊に向けて作業をしている
  • 「語るな示せ」という標語を思いつく
  • RSSリーダーをタブに常駐させるとよいのに気づいた
  • 週報を手書き→OCRで書くようになった

2023年は忙しくなりそう

さいきんの感染状況と社会の反応を見るに、人々はコロナ禍を気にしなくなりつつある。オミクロン系統が最後なわけがないので、致死的な株ができて元に戻る可能性はあるし、後遺症や人が死にまくっている問題はあるが、「空気」として気にしなくなった。慣れてしまったのだ。私もコミケに行っているように、(覚悟をして)イベントに参加するのがふつうになった。マスクをして人との距離に気をつかえばそれなりに感染回避できることもわかってきた。このまま「with コロナ」が 実現され続けるだろう。

こうしてアクティブに動きまわる社会が戻ってきた。きっと今年は忙しくなるのだと思う。人々が動いてイベントを発生するから。イベントごとが好きな人が多いのは理解するが、私は今年も家でじっとしていようと思う。コロナ禍が云々ではなく、コロナ禍前から、土日は家で過ごす性格なのだ。でもまわりはよく動くようになるので、影響はあるし、受けてしまうだろう。だから今年は忙しくなる。基本的には家に居つつ、疲れない程度には付き合っていきたい。

Mendako Sphere Program

民俗学の旅』を読んだ

宮本常一『忘れられた日本人』を読む』を読んだ影響で、宮本常一の自伝『民俗学の旅』を読んだ。宮本氏も語りが上手で、読みやすく、文章も上手だった。これもなかなかよい本である。

特におもしろかったのは、文字の浸透と文明開化で、人々の話し方が変化したことである。

私が年寄りたちからいろいろの話を聞くようになったとき、明治維新以前のことを知っている人たちとそうでない人たちの間に話し方や物の見方などに大きな差のあることに気付いた。たとえば維新以前の人たちには申しあわせたように話しことばというよりも語り口調というようなものがあった。ことばに抑揚があり、リズムがあり、表現に一種の叙述があり物語的なものがあった。維新以後の人たちのことばは散文的であり説明的であり、概念的であった。そしてその傾向が時代が下がるにつれて次第に強くなる。知識を文字を通して記憶していくようになると、説明的になり散文的になっていくもののようである。こうした旅にもそれをはっきり知ることができた。(p109)

この傾向はその後も続き、現代人の言葉づかいともつながっているだろう。我々は概念的で、自分でも意味のわかっていない言葉を使う。20世紀はもっとも日本語が変化した100年に違いない。

古典に通ずると文章がうまくなる

宮本常一、細野善彦もそうなのだが、古典を専門とする人は文章が上手な傾向がある。これは別に定説ではなく、我が家で勝手に言われていることだ。他にも林望橋本治高島俊男などの例がある。我が家で「この人の文章は上手だね」という話になると、その著者はたいてい古典の教養がある。

おもしろく思って、ためしに徒然草を原文で読んでみた。すると、古典は文章の圧縮率が高く、短いセンテンスに多くの意味がこめられているのがわかった。なるほど、文章の圧縮率は大事である。意味が詰まっていると、ハイコンテキストで解釈が大変なのだが、反面、想像をする余地、楽しさがある。圧縮が極まると俳句や短歌になるので、テキストのコンパクトさは文学性とも関連があるのかもしれない。また、上の引用にもあるように、昔の言葉はリズムが大事にされていた。

リズムは大事だ。七五調の言葉をなんとなく覚えてつぶやいてしまうように、リズムのよい言葉は頭に入りやすく、残りやすい。皆、「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。」はなぜか覚えているだろう。リズムが大事なのは、喋りが減って読みが中心になった現代でも変わらない。多くの人は「内言」を使って読んでいる。

古典からは、今と変わらぬ日本語のリズムを習得できるのだと思う。高校生の私はこんな価値があるなんて知らなかった。センター試験の練習では平気で20点をとって、そのままにしていた。今になって、古典の大事さを認識して驚いている。でも、気づけてよかった。今年は日本の古典も読むだろう。

言語はリズムが大事なのは日本語に限らない性質だろう。フランス語にはフランス語のリズムがあり、リズムの感覚を身につけることがネイティブレベルの言語理解になる。たぶん、文法もリズムという抽象に対する具体的性質の関係にあるのだろう。

納得したことだけに従う

近年、我が家の人々のメンタルはたいへん安定している。人からどう見られるかは気にしないし、好き勝手、自分がよいと思ったことだけをやる。

安定しているのは、納得を大事にしているからだと思う。「納得」とは世間での意味とは少しズレていて、「自分の価値観を肯定する理由が複数あること」である。「納得」するための説明・論理は複数なければならない。ひとつではダメで、できればみっつ以上ほしい。

例えば一汁一菜は、「野菜をたくさん食べて健康でいたい」「でも手間は最小にしたい」「おいしさもあって飽きないようにしたい」「コストも安く済むならそれがいい」を満たすことができる。健康もおいしさも、時間もコストも大事なものだ。大事な価値観を四つも叶えられるのだ。とても強い論理である。

これくらい強いアイデア、主張にだけ従うようにすると、自信を持って生きられる*1。強い理由が複数あるので、そう簡単に他人の批判には負けない。また、自分でも疑いをはさむ余地がなくなる。自分にとっての「真理」と言ってよい。どうでもいい価値観、あるいは理由がひとつしか挙げられない主張は「留保」し、従わない。無視する。それでいいし、 困ることもない。特に、生活においては自分が主人なのだ。納得レベルの低いものに気をつかう必要はない。

こういう態度を頑固だ、子供だ、と言う人もいるかもしれない。実際、そう簡単にはなびかないし、頑固だと思う。しかし、従わなかった主張に強い説明があるのがわかったならば、ただちにそれを受け入れる。この態度はまた、節操がない、手のひら返しだと言われるだろうが、別にそれは構わない。

我々はイデオロギーや所有感情に従うのではなく、納得、強い論理に従うだけなのだ。こうしていると、生活がシンプルになるという実利はあるし、論理的な一貫性はあるので、それでよいのである。

*1:納得した行為を生活に組み込むと、日常の実践で価値観が肯定されるので自己肯定感が高まる