近況
大雪でみんなめちゃくちゃになっていた。京都では雪が降っても積もらないことが多く、これほど積もるのは五年に一度くらいである。備えはないので当然混乱する。
私の労働・生活リズムも乱れ、何もできていないのに疲れてしまった。しかも寒さで体力が枯渇している。土曜日はぐったりして昼寝をしていた。
こんな時は温かくて甘いものを飲むのがよいと思う。砂糖を入れた紅茶とかココア。コーヒーにはいれない。ブラックでしか飲まない。
できごと
- 関西コミティアで同人誌を頒布した。盛況だったのはよかったが、第1巻を売り切れにしてしまったのが悔やまれる。
- 妻氏のキャラクターデザインでは、キャラの目が死んでるのが大事なようである。作者の人間観がこういうところに出る。
- スナネズミ氏が餌を食べなくなったと思ったら、妻氏の手を嫌っただけだとわかった。捕まえて手に載せているとこうなる。
- フォローしている哲学者のシンポジウムに見覚えのある名前があると思ったら、サークルの同期だった。教え子だったとは。
- ピアノは指に意識を向けるのではなく、音をよく聴くのが大事だと理解した。
- 偉い人相手のコミュニケーションでは、数字・ルール・概要でしか伝えられない。どれも嘘の報告をする余地はあるが、嘘をもとに施策を打たれたら困る。しかし骨抜きにできないかは考え続けてよい。
テキストサイトにSNSの原型があった
DPZ林さんのサイトを読んでいる。少なくとも97年からあるもので、テキストサイトと呼ばれていたインターネット黎明期のコンテンツである。
林さんは、そのサイトにツイートみたいな短文を多数載せていた。最初は数日おきの更新だったのが、そのうち一日に何度も更新するようになっている。しかもHTML手打ちで、である。SNSの萌芽はこの頃からあったのだ、と思った。
飛蚊症の発見
98年5月29日の投稿に飛蚊症のことが書かれていた。明らかに飛蚊症のことが言われているのだが、飛蚊症という言葉は使われていない。おそらく、この言葉はインターネットによって広まったのだろう。98年はGoogleが設立された年である。まだ検索エンジンは普及していない。おそらく他にもこのような言葉はあり、現代の語彙にはインターネットの影響が強く働いているだろう。
考える生活
アイデアの出るとき
朝
いいアイデアが出ることもあるが、間違いも多い。メモを見直したら意味がわからなくて困る。私が夜型なだけで、朝型な人はそうでもないかも。
散歩
「わけがわからない!」となるまで考えてから歩き始めると一瞬で解決策が降ってくる。
風呂
よく思いつく場。アイデアの質も良く、あとから批判的に検証しても正しいことが多い。湯船からあがったあとに思いつくことが多い。お風呂は最高。アイデアは出るし、集中して本を読む場でもある。
つまり?
副交感神経と交感神経が切り替わるタイミングで思いつくらしい。
考えるために
入力
読んだこと、聞いたこと、体験したことの範囲でしか考えられない。情報とはそういうものである。本による入力がもっとも効率的である。
テキスト
紙とペン、あるいはスマホ、PCのエディタが必須である。ただ連想したことを文章で書き続ければいい。自動的に連想が止まるまで吐き出し、止まったら論理的になるよう整える。テキストというメモリがないと複雑なことは考えられない。
ユーモア
冗談のセンスとかではなく多面的な視野のこと。
千葉雅也氏の『勉強の哲学』の用語である。アイロニーとユーモアが対立する概念で、アイロニーは狭い視野で深く考えることである。アイロニーだけで考えると、現実から離れていって病むだけである。
ユーモアがいちばん大事。でも、ユーモアだけだと深みが出ないので、アイロニーとユーモアをバランス良く使う。すると現実的なのにおもしろいことが考えられる。これはアイロニーとユーモアの弁証法であるし、『勉強の哲学』の結論でもある。
変わらないところを探し他は捨てる
SNSやはてな匿名ダイアリーを見ていると、よく夫婦喧嘩の愚痴が流れてくる。たいていは「物をどこそこにしまうべきか」とか「バターナイフを都度洗うか」みたいな些細なこだわりが発端である。
生活上のこだわりが衝突する喧嘩の場合、その愚痴の本質は「自分は変わりたくない、相手が変わるべきだ」というメッセージになる。
一般的に、人間関係の問題を解決する方法は「自分が変わる」「相手が変わる」「環境ごと変える」の三択しかない。たいてい選ばれるのは解決せずに有耶無耶にする「先送り」だが、これは問題を解決していない。爆弾を埋め込んで将来またやり合うだけである。
「譲歩したら(自分が変わったら)負け」みたいな勘違いもある。どちらが変わるべきかは勝ち負けの問題ではないのだが、喧嘩に発展し対立するうちに負けられなくなるのだろう。
もっとも公平な解決策は「より無意識にやってしまう方を優先し、意識的にやっている方が行動を変える」である。
癖には変えやすいものから、ほとんど変わらないものまである。変えにくいものほど無意識にやってしまうもので、遺伝子とか数十年の蓄積で自動化された、理由の説明できない行為になっている。自動化された意識の及ばない行為は変えられない。自分だけど自分じゃない自分がそうしているのだ。誰しも、そのような変えられない癖を持っている。生活上の衝突で相手の無意識な癖に当たったら、意識的にやっているほうが譲るしかない。
喧嘩の種になるような癖を呪いのように思う人もいるかもしれないが、癖は単に性質である。性質が良いか悪いかという価値判断は、主観それぞれによる解釈にすぎない。それに、ある人の固有の性質は表現の特徴、スキル、魅力にもつながることが多い。癖は良くも悪くもはたらく。
また、自分に統制できない無意識的領域を居心地悪く感じることもあろうが、人間はそもそも動物である。身体活動のうち、意識が支配している部分のほうが少ない。変えられない性質、無意識があるという事実は認めてしまうのが楽である。自分の根本的な癖を見つけそれに依拠するのが「自分探し」のゴールであり、人生の幸福性の条件でもある。
もっとも、変えられない性質だからといって、開き直りすぎると良くない。無意識の仕業によって何か失敗をしたら、申し訳なさそうにはすべきである。喧嘩は態度で起こるので。