しゅみは人間の分析です

いらんことばかり考えます

週報 2023/02/19 日記の抽象化

2/11(土)日記の再発見

欲望年表をやってみる。千葉雅也氏が『勉強の哲学』で提案した、自分の歴史をふりかえる手法。精神分析的な要素がある。手許にdiary.docがあったのでこれを眺めた。2004年から始めたもので、当時は中学生。父のPCを借り、フロッピーディスクに保存していた。

読んでみると今と文体や思考様式が変わらないことに気づく。そして、とても日記らしかった。一日のできごとが簡潔に書かれている。いまWorkflowyに書いている日記は、いわばツイートを連投しているようなもので、だらっと一日中書かれている*1。ツイートみたいにテキストを書けるのは思考の補助輪としてよいものだが、本来の日記はそういうものではない。一日を概観し、できごとを圧縮・抽象化して書くものなのだ。こうして「日記」を再開することになった。この週報も「日記」をもとに再構成する方式に変化した。

2/12(日)リズムという欲望

昨日は古い日記を読み耽ってしまい、結局欲望年表をまとめていない。週報を公開したのち、自分の歴史と性格を分析する。結果、出てきたのは「素直さ」「想像力」「リズム」だった。特に「リズム」が意外だった。客観的にみたら明らかなのだが、毎日同じものを食べ、日記や週報を欠かさず続けられる人は多くない。私の古い日記も一度始まると受験などの大きな障害がない限りは数年単位で続いてきた。今も、新しく日課を始めるとやめられないことが多く、たしかにリズムに対する欲望・依存症のようなものがある。

自分の基本的な欲望なので変えることはできない。でも時間がなくて困っている。このごろ日課が増えすぎて困っていた。一月に再開したピアノ日課も未だに残っているのだが、これは楽しいので維持したい。するとリストラの対象としてSNSスマホゲームがあがった。実はこれまでSNSのリストをぜんぶ読んでいた。文字通り、ぜんぶである。本を読む時間を大事にしたいので、SNSにはたまにふらっとあらわれるくらいにしたい。


日記を発掘していたら妻氏が私のブログの古い記事を読み始めた。大学院入試で苦労しつつもなぜか部室に泊まる日々。クズ大学生らしさがあっておもしろいそうな。自分で読み返すとたしかに味わいがある。夜型なのは昔かららしい。

2/13 (月)ぜんぶ伝える

仕事をしていて、圧縮癖があるのに気づいた。圧縮とは思考の圧縮のことで、考えたことを圧縮して短い文章で表現することである。冗長なテキストや長広舌は嫌いだ。私の美学として、文章は短く簡潔であるのが理想なのだが、圧縮率の高いテキストは万人に伝わるものではない。プライベートでよく話す人に対してはこれでいいのだが、仕事では圧縮しすぎるのもまずいだろう。と、反省し圧縮せずに考えたことすべてをテキストにすることにした。

2/14 (火)ピアノにも感情がない

私には顔色というものがない。四六時中一緒にいる妻氏でさえほとんど読めないらしい。怒っていても疲れていても。雑談にも感情が乗っていないので、慣れてない人からは怖がられることが多い(と思う)。これには困っているがどうしようもない。

ピアノはどうかと思って妻氏に聴かせたら笑われた。滑稽なのではなく、あまりに感情が乗っていなくて、楽譜どおりに弾くから笑ったらしい。どこか人間ぽくない、でも魅力がないわけでもないと言う。よくわからない。自分にとっては当たり前なので、よい音なのかどうかは判断できないのだが、ピアノの先生には評価されてきた。その評価を信じ、技術を高めたいなと思った。

2/15(水)炊飯サイクルの崩壊

起きたら食洗機が動いていなくてバタバタしながら出社した。雪が降っていて驚く。問題解決業をしていたら帰りが遅くなり夕食(自炊)が崩壊。炊飯サイクルには気をつけねばならぬ。


チャットテキストの表現も圧縮しすぎないようにしてみた。私の顔色は読みようがないので、何か別のもので考えを表現するほかない。能面なのに圧縮率も高いと本当に何も伝わらない。

2/16(木)日記の抽象化

「日記」の構造化について考える。これまではこの画像のような「日記」を書いていた。

Workflowyでの「日記」も自分では日記だと思っていた。しかし、過去の自分の日記に伝統的な日記の形式も見つけてしまった。どっちも日記らしいが、何かが違う。そこで日記について整理してみたところ「1次日記」「2次日記」みたいな用語を作るに至った。

階層 媒体の例 特徴
0次 生活上の体験 放っておくと忘れる
1次 ツイート、Workflowy 書くのに特化しており読むのは大変
2次 日記、ブログ 読みやすさに気をつけた記録だが量が多い
3次 週報 一週間単位で情報が圧縮されている
4次 四半期まとめ 数年経っても概観できるもの
…… …… ……

ツイートで考えてもらうとわかりやすい。ある人に起きたできごと、思ったことを気ままにつぶやくのが「1次」のテキストである。これが日常に関わるものならば日記と呼べるだろう。しかしツイートはあとから読めるものではない。たいてい大事な文脈が落ちていて、そのときどきの気分が色濃く反映されている。数日後に読むと意味がわからなくなりがちだ*2

伝統的な日記が「2次日記」である。その日のできごとを簡潔に書いたもの。文脈を補いつつ抽象化して読みものにする。「3次日記」は週報で「4次日記」は四半期まとめとした*3。この辺の構造化をどうするかは各人の自由だ。別に3次構造も4次構造もいらんよ、という判断はあると思う。


このように現代の日記に階層構造があることがわかった。大事なのは、数年後の自分が読めるように「他者」を意識して書くことである。ツイートには「他者」への意識が乏しいし、その場のライブ感で考えながら書くのも楽しいので、ツイートに他者性を求めるべきでもない。大事なのは「2次日記」である。人間は寝ると忘れるので、その日のうちに文脈を残さないといけない。

構造化の目的は何か?思考の整理である。人間の考えることはその場その場では混乱しがちで、あとからふりかえってまとめ直すとシンプルな結論になることが多い。深刻な悩みでさえ、さらっとした記述で処理できるものだ。思考の整理は精神の安寧、頭をクリアにするために必要だ。常に自分をカウンセリングしているようなもので、それをより効率的に行うのが構造化という技術である。それに歴史は大事だ。他ならぬ自分の身に起きたことなのだから、必ず今の自分に影響を与えている。これを言語的に把握するのは有益であろう。

システム設計にコマンドクエリ責務分離という設計原則がある。ようは「書きこみと読みこみそれぞれに特化したデータ構造、システム構造は異なるよね」というものなのだが、「日記」にもこれが当てはまる。「1次日記」が書きこみ特化のデータ構造で、「2次日記」以降が読みこみを意識したデータ構造である。日記はあとから読めることが大事だ。どこかでツイートを読みものに変換したい*4


午後、JCOMの営業を家に入れてしまう。モルモットをみてうさぎか?と聞いてきた不届き者である。テレビ線の信号強度を計測するという言い訳の営業であることに気づき「(契約は)妻が決めるので」と言って追いだした。嘘である。

2/17 (金)言葉にも抽象度がある

言葉にも階層がある。日記がだんだんと抽象化されていくように、言葉にも生活に近い具体的なものと、意味が文脈によって異なる抽象的なものがある。例えば「正義」とか「自由」。明治期に漢語として訳されたから我々にとって曖昧なのではなく、ふつうに欧米でも解釈を巡って争われ続けている*5。大事なのは文脈を意識することで、文脈から離れて浮遊した抽象概念を使ってはならない(反省しています)。

圧縮と抽象はよく似ていて、ほとんど同じようなものかもしれない。じゅうぶんにコミュニケーションをしてきた間柄、あるいは専門家同士ならば、文脈を省略しても正しく伝わるが、そうでないのならばちゃんと文脈を補うべきだ。補わずに議論をして水掛け論になるさまはよく見られる。大事なのは定義よりも文脈である。どれだけ言葉が圧縮されていても、何かしらの文脈は参照されているはずなのだ。


夜、月一の社交ダンスレッスンをした。ここ一年か二年はワルツをやっている。ペアは妻氏。この日はライズのための沈みこむ動きを練習したが、男性ステップに例外が多くて少し困惑した。音楽に合わせて踊るのが大事なので、感覚が正解。沈みこむ動きは、スクワットをキツくした動きなので家での運動としてもよいかもしれない。

*1:箇条書きのテキストエディタTwitterみたいに使える

*2:気をつけたら読めるように書けないこともない

*3:3月になんか書きます

*4:フロー情報とストック情報の管理の話はぜんぶこれで片づく

*5:「正義」も「自由」も語自体は明治以前から存在するが、言いたいのは外来語と対応していて意味が曖昧だということです