しゅみは人間の分析です

いらんことばかり考えます

週報 2023/03/12 思考の熟成、一点に集める

3/4(土)コーヒーをやめられない、求)酸素

スナネズミの葬儀をした。といっても玄関で焼香し引き取ってもらうだけ。棺には🍓と🥬をいれて送り出した。

 

朝食後にコーヒーを飲むか悩む。さいきん睡眠が悪いのだ。我慢しようと思ったが耐えがたく、飲むことにした。言い訳はこうだ。カフェインの半減期は八時間、排出するのに十時間〜らしい。なので朝に一杯だけなら夜には抜けている。

こうして禁コーヒーは一日で終わった。

 

珍しくジムで走った。鍼師の言った「酸素の供給能力も体力だ」に納得したから。これまではカロリー消費を目的に走っていたのだが、カロリー消費の方法はほかにいくらでもありジムで走る必然性はない。イマイチやる気がでなかった。しかし心肺機能の強化であれば走るのがベストである。他にも水泳で鍛えられるかもしれないが、私はまったく泳げない。

何年も怠けていたので当然長くは走れない。すぐに胸が苦しくなって歩くのだった。懇意にしている走る美容師によると、週に二回くらい走ると疲れにくくなるそうな。一日中集中して髪を切る人が言うのだから間違いないだろう。

3/5(日)ブラインドタッチの再発見、小見出しサービス

ピアノにもブラインドタッチがあるらしい。手許を見ずに弾く技術のこと。PCはホームポジションがあるからいいが、鍵盤にそんなものはない。なのに曲によっては2オクターブくらい平気でジャンプさせる。指先の感覚だけを頼りに正確に着地させる必要があり、たいへん難しい。

ブラインドタッチは練習中に自分で発見したのだが、実は本があるほど有名な技術だった。私はこの技術を先生から習ってないのだがどういうことなのか*1。これ重要な技術では?いいものを見つけたのでは?と思ったばかりに少し落胆した。

 

新形式の週報にも小見出しを入れることにした。現代の書物(ノンフィクション)には細かく小見出しが入っている。入門書だけでなく、人文学の専門書でもそうだ。昔の本みたいに節が十数ページ続くことはまずない。現代人の忙しさ、集中力のなさに合わせて書物の構成が変化しているのだろう。これは時代的な流れであり自分も含めて皆集中力はなくなってきている。そういうものなので、他人にお出しする以上は細かい見出しで要約するものだ、と思ってサービスすることにした。

3/6(月)思考の熟成

寝かせていない思いつきは、つまらないのに気づいた。DPZ林さんのやぎポエムは98年から数年、一日に何度も更新する形式になっていたが、この時期はあまりおもしろくない。また、よい本を書く学者もTwitterだとつまらない。そして自分の日記も。一次日記と呼んでいるすぐ書く日記は、あとから読んでもいまいちおもしろさがわからないことがある。

なぜこうなるのか?思いつきには混乱があるからだ。主観とは本当に信用ならないやつで、思いついたその場ではおもしろい!と思えても、あとから評価すると無駄や矛盾、錯誤が含まれている。

 

混乱を解消する方法は二つ。「書いて寝かせる」か「人に話す」である。

書いて寝かせて、しばらく経ってから読み、再び書きなおすと自然に無駄な情報や単純な誤りがなくなる。もちろん、素朴な思いつきであれば書き留める必要はなくて、記憶を頼りにやればよい*2。書き留めないといけないのは、それなりに複雑な出来事・着想である。日常的な軽い思いつきであれば、数時間〜半日おくだけでも十分だろう。

人に話すと素早く整理できる。ただ、混乱した話は聴く方もたいへんである。それにどんな親しい仲であっても誤りを指摘するのに気を遣う*3。なので、人にレビューをさせるのは、ある程度「書いて寝かせて」整理したあとが望ましい。

どうしても一人だと気づけないことはある。他人の目は使ったほうがいい。しかし、読む人に負担はかけたくない。勢いで生きるのを慎み「溜め」を大事にしたい。

熟成されるめんだこちゃん

3/7(火)メタ認知、自信と客観性

「(低気圧で)ストレスがあるなあ」と日記に書いたらイライラがなくなった。不思議だがこういうことはよくある。体調不良や何かに怒っているときに記述がよく効く。でも気づくのが難しい。渦中にいるとなかなか。

人間観察のなかでも自分の観察ほど難しいものはない。いつもと違う様子の人がいたら「疲れてますね」と観察報告をしてもらえるとありがたかったりする。

 

自信を得る方法を考えたところ、客観性が結論だった。客観性とは現に起こったこと、そこにあるもの、現実をそのまま受けとる技術である。現実と自分の思いこみを峻別する態度。

客観性というと「理系」で冷酷〜なイメージがつきものだがちょっと違う。「あのとき怒っていた」「あのとき悲しかった」という感情の動きも「起きたこと」つまり事実として尊重する。

客観性を鍛える方法はいろいろあるとは思うが、私は日記と読書、妻氏はデッサンで身につけた。デッサンが意外かもしれない。デッサンはそこにある物を見えてるままに描く技術である。デッサン教室に通って数年経ったらメンタルが安定しているのに気づいたそうな。

3/8(水)深呼吸が効かない体調もある

一日ダメだった。なぜか呼吸が浅くて深呼吸でも挽回できなかった。たぶん睡眠不足。こういう日は休んで巨大ひるねをするしかないのだと思う。夜まで働いてしまったけども……。

 

四条通に観光客が増えていて歩きにくくてかなわない。自転車通勤に戻すことを決意した。

3/9(木)反社会的インターネット

布団を薄めにしたらよく寝られた。春に適応する。元気になりウオーっと仕事をしたら夕方に使い果たした。

 

昔のインターネットには反社会性があった。言い方が悪いので、いたずら心とか「ちょっと悪いことをしてやろう」でもよい。役に立たないことを全力でやるのも反経済的であり、反社会的だ。

震災でインターネットが変わって数年後に「インターネットが社会になってしまった」と思ったことがある。今でも「ちょっと悪いことをしてやろう」活動をしている人はいるが、世間様にバレるとたいてい怒られている。でもそういう人を応援したいし、私は悪いこともいっぱい考える*4。このブログも世間様にバレないようにやっていきたい。

3/10(金)一点に集める

月一で習っている社交ダンスで「お腹の接点に意識を集めて」と指導されたらそれだけで上手くなった。

社交ダンスは時代錯誤ながら男性がリードで女性がフォローである。女性はパートナーが踏もうとするステップを腕とお腹の五つの接点から読みとり、正しいステップで応えることでフォローする。

「お腹の接点」とは五つの接点のうちもっとも大事な場所で、二人はここを回転軸にして動く。プロは「お腹の接点」を安定させるために、コピー用紙を挟んで練習するそうな。挟んだ紙を落としたらダメ。

 

つまり「お腹の接点への意識」とは軸を意識することである。軸だけを観ながら踊っていると、自分が送ったステップの指示がパートナーの動きとなって返ってくるのがよくわかる。この感覚はピアノにも似ている。コマンドをパートナー/楽器に送り、反応がステップ/音の響きとして返ってくる。返ってきたものを受けとめ、それに合わせながら次のコマンドを考える。送る、受けるを繰りかえすと全体としてワルツのダンス/ピアノの曲が構成される。非常におもしろい体験で、ダンスの深淵に触れられた気がした。我々のダンスの先生は、二十年ダンスをやってもまだ発見がある、と言っておもしろがっている。

集中の大事さも身に染みた。意識を一点に集めるとそれだけで上手くいくことがある。ピアノもそうだし、読書もそう。そういえば土井善晴氏も「一生懸命茹でてくだ↑さい」と言っていた。

*1:中級上レベルではまだ早かったのだろうか

*2:私は記憶力が終わっているのですべて書いている

*3:遣わない人もいるが私は仲良くならない

*4:はげます会会員です