しゅみは人間の分析です

いらんことばかり考えます

週報 2023/04/16 レターパックで現金送れはすべて詐欺、『医学の歴史』を読んだ、表現は代わりにやってもらえない

4/8(土)しいたけこわい

しいたけ.占いの2023年上半期占いを読み返していた。

2023年上半期の山羊座は「家中のすべての収納をひっくり返し、大規模な整理、場合によっては家をすべて建て直すようなリフォーム活動」をしていきます。

(中略)

それは、2022年から継続しているのですが、「これまでの10年の物語が終わっていき、これから先の10年の物語が始まっていく予感」が起こってきているからなのです。それに合わせて、「これから10年続いていく物語にふさわしく、耐用年数が持つ形で、自分の周りにあるすべての物事をつくり直していきたい」と本気で考えてきているのです。

2月にこれを読んだときは「嫌なことが起きたらやだな〜」と思っていた。

(4月は)「新しい世界、来たる!」の金色が出ています。山羊座にとっての2023年上半期は、約10年分ぐらいの過去が一巡し、新しい10年が始まっていく区切りでもあります。この4月のあなたも「新しい名刺」を持つかのような感覚で、新体制のスタートを具体的にしていきます。準備や計画性の整理などは、先月の3月までで一応終わらせてきたので、4月は具体的な始動になっていきます。

そして4月になり、文字通り家中をひっくり返している。まさか引っ越しをするとは思わなかった。そして業務でも過去最大の変化が起きている。こわ〜。

voguegirl.jp

4/9(日)日記には発見と悩みを書く

家の片づけをしていたら家の備品を壊してしまう。どーすんだこれとなったが数日経ったらスンとなり、どうしようもないな、と思うようになった。敷金がガリガリ削られる予感。

 

「日記に何を書いたらいいのかわからない」と相談されることがよくある。「全部書けばいいじゃん」と言いたいところだが、ふつうは私みたいに一日中日記を書かない。深夜に一時間かけて二次日記を書くこともない。夜中に日記を書き始めると睡眠にも影響するし、一般的にはポイントを絞ったほうがいい。

書いておくと役に立つのは「うまくいったこと、失敗したこと」だろうか。「うまくいったこと」は「発見」とも言える。「xxしてyyしたら、うまくいった!やった〜」と思っても数日後には綺麗に忘れるのが人間だ。残しておくとあとから「再発見」して習慣化につなげられる。

「失敗したことは」は「悩み」として書いてもよい。失敗談は他人に語りにくい。ひどい失敗は秘密の日記に書いて墓場まで持っていくとよい。たまに自分で見返すと「こんなしょうもないことで悩んでいたのか〜」と思うかもしれない。そう思えたら成長している。「悩み」は書いているうちに解決することもある。言語はすごいのだ。

4/10(月)レターパックで現金送れはすべて詐欺

レターパックで契約書が届いた。レターパックと言えば現金送れである。送ってはいけない。私の知人たちはみんな「レターパックで現金送れはすべて詐欺」の注意書きが好きでよくネタにしている。「すべて詐欺」のところが異常に強い主張だからだと思う。友人がレターパックで現金送れと言ってくるかもしれない。本当にすべて詐欺なんですか?

 

さまざまな書類に名前と住所を書き、ハンコをぺったんぺったんした。名前を書いていると自分の名前なのか謎の記号なのかわからなくなる。頭がおかしくなって名前の漢字を間違えることもよくある。間違えないように書かねばと思うと緊張する。

添付書類に入居者の顔写真が求められていた。その場で撮影してコンビニで印刷。出てきた写真は二人とも目が死んでいた。犯罪者みたいだ。いいえ、善良な市民ですが……。

書類作成は銀行印がどれかわからなくなって頓挫した。翌日に銀行へ凸して解決。

4/11(火)ピーマンℒℴѵℯ

モルモットを病院送りに。足底皮膚炎と腫瘍を疑ったのだが、腫瘍はなかった。ついでに健康チェックをしてもらったところ、ほかの病気もなさそうだった。六歳のおじいちゃんにしてはツヤツヤ。

足底皮膚炎とは足の裏の怪我のことで、ケージの床材が悪いと起きる。一ヶ月前に発見して床材の改善を試みていたのだが再発している様子。ペットシーツに大きめの血痕があって焦った。

獣医師は投薬治療、抗生剤を使うと言う。草食動物に抗生剤は危険なので内心反対していたのだが、様子がおかしかったら中止してよいと言うので従った。

粉薬をもらってピーマンにまぶして与える。モルモット様はすごい嫌そうにするのだが、ピーマンℒℴѵℯなので欲望に負けて食べてしまうのだった。

4/12(水)読書は孤独なスポーツ

今の時代は本を読む人が稀で、知人や同僚で日常的に本を読む人は少ない。ソフトウェアエンジニアで技術書を読む、という人はいるが、専門外の本を読む人はかなり少ない。ましてや人文学に関心がある人はほとんどいない。

でも、まったくいないわけではない。全知り合いのうち二人か三人くらいはいる。感覚的には二百人に一人くらいだろうか。たぶん全日本の空間で考えたらもっと濃度は薄いと思う。だから初版は三千部とかがふつうなのだな。

本読みの知り合いがいると嬉しいのは嬉しいが、別につるみたいわけではない。ただ、いい本を教えてくれたらそれでいい。「読書で何かを得たい!」と言うタイプはお断りで、ただ「おもしろさ」と知的好奇心のために読んでいる人がよい。

本読み同士でつるむ必要はない。読書は孤独なスポーツである(by プリコネ)。

4/13(木)京都市民の身体はパンでできている

毎週木曜日は在宅勤務をしていて、お昼は自炊をしたりしなかったりする。この日は忙しくて近所のパン屋に出かけた。パン屋は休みだった。

そういえば、たびたびパン屋の前に行っては途方に暮れている。記憶力が終わっていて、定休日を覚えられないのだ。仕方がないのでスーパーで惣菜を買って食べた。

 

夜、MacBook Airの箱の硬さに怒る。分解して捨てようにも硬くて切りにくい。ぜんぜん箱が平たくならない。分解する手間が無駄だと判断して燃やすゴミにした。

4/14(金)モルモットは腸と歯が命

モルモットの食欲が落ちてしまって投薬を中止した。やっぱりダメじゃん。

草食動物は腸が命。腸には細菌がたくさんいて、草を消化してくれる。細菌がいないと消化できない。人間も同じで、大腸の細菌がセルロースを分解してくれている。抗生剤はこの細菌をも殺すことがある。今回処方されたものはたしかにモルモットにも安全な抗生剤だったが、菌を殺さないわけではないのだろう。即座に服用を中止し、野菜をたくさん与えた。食欲が歯に影響しないといいのだが。

『医学の歴史』を読んだ

おもしろかった。文章が上手でお話がうまいタイプの本。興味がない話題でも文章力で読ませてくる。本はこうでなくては。
内容はタイトル通りの医学の歴史。古代のエジプト、ギリシア、インド、中国の医学からスタートする。後半は西欧医学の進歩の話。

これに関連して、中国の古典『素問』に重要な指摘がある。それによると、医師は、本来、「未病」(いまだ病まざる段階)の友、「生理」の相談役であって、治療師であってはならない。治療師は「賤業」であり、聖人の業に値しない、という。こういう言葉で、医術の本来の役割が説かれているのである。(p.41)

いま「医学」と呼ぶ学問・技術は、「悩み」と「癒し」のどちらを看板にするか、両方の可能性があった、と『病理学史』の著者クランバールはいう。結局、「癒し」が含む理想が勝利して医学が成立し、「悩み」に含まれる「現実」は病理学が引き受けたのだが、どちらにとっても荷は重すぎたようである。「時に癒し、しばしば救い、つねに慰む」。これはアメリカの結核療養所運動の先駆者トルードーに、患者たちが捧げた感謝の言葉である。つねに、できることは「悩み」に対応する「慰め」なのに、たまに(時に)しかできない「癒し」を看板に掲げたところに、医学の宿命的な辛さがある。(p.42)

いちばんよかったところ。現代の技術をもってしても、病になってからでは遅いことはよくある。

表現は代わりにやってもらえない

インターネットではしばしば「モヤモヤする」「言語化されてスッキリ」みたいな表現が出てくる。この常套句に対して私は「モヤモヤする」ので「モヤモヤ」とは何かを考える。

 

「モヤモヤ」とは言語化される前の言葉にならぬもの。人と喋ったり事件に遭うと溜まっていく。嫌な出来事でなくても、生きている限り何かしら溜まっていくものだろう。

「モヤモヤ」は「言語化」される。「言語化」はすでにある言葉を組み合わせて表現されることもあるし、新しい語、「モヤモヤ」した人が知らない言葉を持ち出すこともある。「心理的安全性」「忖度」なんかが例。この言葉が人口に膾炙する前にはめんどうな言い回しをしないと表現できなかった。

「スッキリ」するのは「言語化」によって、「モヤモヤ」の原因の体験を論理的に扱えるようになるから。もし「モヤモヤ」を「言語化」したものに納得ができないならば、その悩みはまだ「モヤモヤ」している。よりよい「言語化」があるはずだ。「モヤモヤ」していたものが「言語化」され表現に納得したとき、「モヤモヤ」は言語によって矛盾なく表現されている。つまり論理的に扱える問題になったと言える。

もちろん「言語化」できない問題もある。先日述べた「生」の問題。倫理が代表例。「生きる意味」なんかも。言葉にできないものを無理に論理的、言語的に扱おうとするとおかしなことになる。言明しえぬものとして諦めるのがよい。一般的な「生きる意味」問題の答えは存在しない。

言語化しても意味そのものは伝わらない

図にするとこんな感じ。我々は外界からの刺激によってモヤモヤを得る。体験の種類によって、モヤモヤを意味に変換できたりできなかったりする。意味に変換できたとき、意味は記号と結びつき論理の空間に入る。モヤモヤを論理空間に入れる変換の操作を言語化という。言語化された記号は表現として他者に共有することができる。

 

個人的に気になるのは、他人に言語化してもらって意味があるのか?という問題。もともとのモヤモヤが同じ意味ならば他者の言語化をそのまま受けいれてよいのだが、そうではないことのほうが多いと思う。自分とまったく同じ体験をして同じ感じ方をする人間が都合よくいるのだろうか?夫婦レベルの関係であっても、価値観が異なることはよくある。なのに、特殊な個人的体験を世間的な一般論に回収してしまってよいのか。

他者の目を気にせず、自分のために創作し続ける人は世間的な表現に納得できないから創作している。生きていると勝手にモヤモヤが溜まり、表現せずにはいられなくなる。表現は言語でもいいし、イラストや漫画、音楽でもよいだろう。

世間に自分の納得できる表現がほとんどないということは、自分の表現が他者に伝わる保証がないことも意味する。表現は自分と同じ意味で解釈されるとは限らない。たいてい誤解される。それをわかった上で、表現者は賭けをする。だから真に表現の意味が伝わったときほど嬉しいことはない。創作は売れる数が大事なのではない。伝わるかどうかが大事なのだ。