しゅみは人間の分析です

いらんことばかり考えます

週報 2023/06/04 『日本人の身体観の歴史』を読んだ、他人がどれほど異なるかを考える

5/27(土)なんで銀行が投資しないんですか?

妻氏が電話で投資の営業を受けていた。この手の営業は無視するか断るものだが、妻氏は投資に明るくなく「せっかくなのでいろいろ教えてもらおう」と思ったらしい。相手はメガバンクなのでひどいことにはならないだろうという判断もある。

電話のやりとりを聞きながらゲームをしていると「なんでお金をたくさん持っている銀行(あなたがた)が投資をしないんですか?」という急所を突く質問が聞こえて大爆笑した。

銀行の方が企業の成長性に対する審美眼を持っていたはずだし、持っているべきなのに、なぜか個人が銀行の代わりに投資をする時代になっている。おかしな話ですねえ。

5/28(日)

久しぶりに製麺をした。製麺ができるくらいに生活の余裕が戻ってきた。

そば粉を入れすぎたのでソバーメン

加水率40%、そば粉3割くらい。

5/29(月)

朝。いつものように頭が動かない。

「ワーキングメモリが少ない自分は何でも書かないと作業ができない。「眠いなあ」や「だるいなあ」も作業メモに書くのが良かったはず」と思い出して、日記にテキストを書く。

「めーんめんめんめん。みんみんゼミだよ。めんだこだよ。うおお。」血流がよくなり一気に目が覚めた。

京都特産

5/30(火)(任意の場所)には食いものしかない

名古屋コミティア出張を決めた。

なんと京都からだとインテックス大阪より名古屋コミティア会場のほうが近い。新幹線すごーい。

知人らに名古屋出張の話をしたら、地元の人が集まってきてしきりに食事処を勧めてくる。たぶん名古屋には食いものしかないのだと思う。

5/31(水)

妻氏と私の勤め先はコアタイムが一緒なのに妻氏は私より遅く出ても間に合う。何でだろうな?と思って聞いたら駅と会社の距離が近いらしい。ゆるせーん。ずるい。

 

林さんから「今日の夜にはげます会の課金があるけどやめないで」という変なメールが来る。

blog.yaginome.jp

退会者が減ったらしい。

6/1(木)

食欲がなくてお昼ご飯を控えめにした。「しめしめこれで体重を減らせるぞ」と思って喜んでいたら、21時になってパクパク食べてしまった。

6/2(金)

一日中大雨だったので除湿機に水を貯めて遊んだ。除湿機は魔法の力で空気から水を生成してくれる。この日は2.5Lもとれた。満水になると嬉しい。

その他

  • 朝食はそうめんに代わってパンを食べるようになった。パンは柔らかいので食欲のない朝でも食べられる。
  • 若いうちにYouTuberとかで一芸で財をなしてもそれで一生暮らすのは不可能だよな、と思った。現代の寿命が長すぎるから。
  • コミュニケーションという文字列が長くてめんどくさい。よい訳語はないか、と思って調べているのだがなさそう。明治期に一瞬存在した「交通」が相互性と抽象性を持つよい語だと思うが、流行ってない。
  • 味噌煮込みうどんは山本屋本店がいいらしい。
  • 疲れているとユーモアが出ない。カッカしていてくそ真面目な人は疲れているところはあると思う。
  • この人気配りができるな〜と思う人はたいてい体調不良に敏感な気がする。

『日本人の身体観の歴史』を読んだ

pub.hozokan.co.jp

養老孟司の主著。「現代日本文化には身体がない」「心身二元論ではなく唯心一元論が日本人の思想」という主題の本だったが、養老孟司も考え中の問題のようでいろいろ分析して仮説を立てて終わってしまった。

タイトルとしては身体論となっていて確かに身体の話も多いのだが、養老孟司の大事なポイントは「日本では死体が蔑ろにされている」「死体がモノ扱いされていること」である。なんで養老孟司がそんな話をしているのかと言うと彼は解剖学者として30年だか40年社会から差別されてきたからである。彼にとって死体とは人間で、モノではない。

 

養老孟司の本はおもしろいのだが読みにくい。どの本も何か考えをまとめてから書かれているというよりは、原稿を考えながら書いて、それがそのまま本になっているという印象を受ける。だから繰り返しや脱線が多いし、おそらく本人もどこへ向かって書いているのかよく分かっていないところがあるのではないか。そう聞くとひどい本のように思われるのだが、いかんせん養老孟司は頭が良すぎるのだ。あまりに頭がいいので脱線をつつ本質をついたことを言い始める。だから読むのがやめられない。

他人がどれほど異なるかを考える

この本のキーワードは「実在感」である。

数学者にとって、数学的世界は「実在」だが、ふつうの人の脳は、その「感覚」を採用できない。一般人にとって、数学的世界は単なる抽象に過ぎない。(p286)

私が『唯脳論』という書物を出したとき、「心はあります」という手紙を、数多くいただいた。「存在するのは、脳だけだ」。私がそう主張したと思ったらしい。

右のように考えれば、そういう方たちがいて、それで当然である。それはじつは、「私は心に対して実在感を持っています」という信仰告白なのである。それで少しもおかしいことはない。ただ遺憾ながら、そういう方がたは、右に述べたように、脳に対してまったく「実在」感をお持ちでない場合があろう。(p287)

実在感とはこのような意味の言葉である。数学者には数学的世界の実在感があり、養老孟司には死体や脳みその実在感がある。我々は身体および脳で成り立っており、心とは脳の機能であるということを養老孟司は主張する。

法律家は、法律の世界に生きる人である。そういう人たちにとって、法律は実体でなければならない。というより、法律が実体に、すなわち現実に、変わってしまうのである。それが、すでに述べたように、脳の癖なのである。年中、法の世界に住んでいれば、数学者と同じように、法の世界は実在する、ということになってしまう。おそらくそれとともに、「人」の実体が消える。(中略)

数学的世界が実在すると思わなければ、数学など、一生やっていられない。法の世界も同じであろう。しかし、世界は数学ではない。それと同様に、人は法ではない。数学や法があって、人が消える社会、それを私は脳化社会と呼ぶ。(p79)

実在感の偏りによって人=身体=自然が消えて、脳化社会になるという指摘。養老孟司の哲学を支えるいつもの主張。身体が消える社会の原因。


私にとって気になったのは、実在感が認知的な偏りと関係することである。認知的な偏りとは脳内でイメージが再生できるとか、脳内で人の声を思い出すことができるとか、そのような能力の違いである。例えば妻氏は「さっきのレシート何円だった?」と聞かれたら、たとえ店を出てから30分経っていたとしても正確に答えを返すことができる。レシートの画像を覚えていて、あとから再生できるらしい。妻氏は大学受験の数学の問題も、画像記憶を用いて解いたらしい。画像や映像を覚えられる人は少なからずいると思うが、ここまでよく覚えられる人は多くはないと思う。「そんなのでまかせではないか?」と思われるかもしれないが、実際に目の前にない数字を次々と読み上げられると事実だと認めざるを得ない。

妻氏は映像に対して強い実在感を持っていて、私は持っていない。同様に、音楽に強い実在感を持っている人は楽曲のコード進行を見ただけで頭の中で音楽が流れ出すのだろう。

このように実在感の偏りは確かに存在するのだが、ふつうは他人の認知傾向がどうなっているかなどを気にしないので、多くの人は「実在感に対する実在感」がないものと思われる。これは学者であっても同じだろう。数学者は数学についての実在感が強いだけであって、数学的対象の実在感がそれぞれ異なっていても証明が正しければ実在感の差異は気にしない。数学の理解の裏に複数の実在感があっても気づけないのだ。これはありえない話ではなくて、例えば将棋の棋士にも画像的イメージをする人とそうでない人がいる。ふつうは盤面をイメージするが、藤井聡太はイメージしないらしい。おそらく彼はアファンタジアである。

本当は異なっているかもしれないのに全部同じだと思っているから喧嘩になる。実在感が異なっているということは、世界の見方が異なることを意味する。当然ながら言葉の意味も変わってくる。話が通じないのだ。これに気づかぬまま学者は学会のなかで喧嘩をする(たとえばABC予想の証明)。厄介なことに世代固有の体験によって実在感が変わってくることもあり、ある世代が死んだら学説が変わることもよくある。詳しくは『科学革命の構造』や『理不尽な進化』を読むとよい。

 

でも「私(あなた)」にはこの実在感しかない。実在感は経験や学習によって変わりうるところではあるものの、大きくは認知的な傾向によって制約される。脳内のイメージの鮮明さは訓練で変えられるものではないと思う。アファンタジアは先天的にアファンタジアなことが多いようで、後天的にアファンタジアになったと報告されるのは病気や手術を受けたケースである。おそらく脳の大域的な神経接続構造が影響しているのだろう。

基本的に実在感は変えられないので、他人の実在感は自分と異なっていることさえ認めればそれで良い。実在感の存在と差異の認識は信仰や個人の哲学の問題ではなく、事実認識の問題である。異なるものは異なるのである。異なるものを同じだと思い込むことほど暴力的なことはない。

ハンマーで段ボールは切れない

哲学者は、「言語という手段のみ」を用いてそれを解こうとする。そうした「禁欲的」な態度は、どの学問にもむろんある。しかしその態度は、同時に学問そのものを痩せさせる。それを私は好まない。それは、えてして、その学問分野の自己防御に過ぎなくなるからである。(p136)

学問とは対象を分析する手段の違いによって規定されるという説明を読んだことがある。ハサミを使うかハンマーを使うかで学問分野が違ってくる。段ボールを切るのにハサミかカッターナイフを使えばいいのに、ハンマーしか持っていないからハンマーで切ろうとするのが現代の諸学問である。哲学の場合は脳機能の話をしないのが問題。また、生物学の知識も足りないことが多い。現代の学問は博士になるのに必要な勉強量が多すぎて、構造的に他の学問について無知になる。

対策は本を読みまくることしかないと思う。自分の専門性と関係のないところを浅くてもいいから読んでいく。17世紀の学者は多芸な人が多く、ライブニッツは数学、哲学、神学をやっていた上に政治家までやっている。ニュートンも物理学と数学だけでなく錬金術をやっていたのは有名だろう。当時の学問は今よりも勉強量が少なくて済んだからそういうことができたのかもしれない。

現代では複数の分野で博士なみの知識を持つのは不可能である。なんだか構造的に学問全体の進歩が制約されているようにも見えてしまう。必要な知識量が人間の寿命に対して多すぎる。できることならば200年くらい生きたいものですね。