という言葉を思いつきました。
点数のつけようがない領域や満点にあまり価値がないことにも、100点を取らないといけないと思い込んでしまうバイアスを表現しています。
さらっと言えて便利だとは思うのですが、注意深く使わないと揶揄になってしまう危ないやつです。
という言葉を思いつきました。
点数のつけようがない領域や満点にあまり価値がないことにも、100点を取らないといけないと思い込んでしまうバイアスを表現しています。
さらっと言えて便利だとは思うのですが、注意深く使わないと揶揄になってしまう危ないやつです。
今年のテーマは
の3本でやっていってます。
正確には何もないこともないんですが、SNSと大衆化とランキングシステムによってS/N比が著しく悪化してしまいました。インターネット上の公共空間的なdashboardを見るのはほんとうに時間の無駄なので積極的に避けていきます。
そもそも、現代の空間における課題は「移動通信端末による空間の多孔化」、つまりみんながバラバラになっていくことなので、テレビ全盛期に存在していた「大きな物語」は力を失っています。
ひとびとは習性からして公共空間を求めるのですが、残念ながらいまのwebでは技術的に実現が困難に見えます。新聞などのメディアも一定の公共性を保持できているとは思うのですが、私のまわりにいる人たちはバラバラの社会を生きているので、新聞を読むこと自体が公共的コミュニケーションの糧になる確率は低いでしょう。新聞を読むこと自体は個人的には価値があると思っています。しかし、コミュニケーションの視点では自己満足の域を出ません。
このように、われわれの世代では公共性なんて無に等しいので、インターネットでは個別のおもしろい人をフォローして最小限の時間を割いて観察していくのが私の最適解になりました。承認を伴うコミュニケーションは現実世界でやるのがもっとも効率的です。
インターネットの集合知云々。ありませんでした。
私の携わるサーバエンジニア界だとインターネットのドキュメントが役に立つことは多いのですが、Mediumの英語圏個人ブログですら10年耐えられる知識とはいえないものが多いように思います。本で基礎を身に着けてドキュメントを読み、考えながら実装すれば、あとは少しの検索で事足りるのではないでしょうか。
業務ではいま目の前にあるシステムを作らなければならないので、揮発性の高い知識もちゃんと吸収していく必要はあります。しかし、個人のプライベート空間、興味を重視した貴重な時間では長く使える知識を重視し、短期的なトレンドによるものは業務時間中に獲得するのがよいでしょう。
また、<エンジニアリング>以外の領域に目を向けると人生が豊かになります。うまく説明できないし、一般性があるか疑わしいので説得する気にもならないのですが、社会や人間について学んで考えることは必ず役に立つことを確信しています。
私のプライベート時間では、プログラミング専門古典知識とその他の知識を2:8くらいの比率で摂っているようです。
最近では日本語の本しか精読できないことに課題を感じてます。
哲学の教養書と姿勢指導の体験、妻がデッサンを習い始めたのを観て気づきました。例えばただ文字を書くのにも、「無意識な身体に任せて書く」のと「一画ずつペン先を注視しながら書く」のでは大きな格差があります。われわれ人間は動物なので気を抜くとすぐに無意識な行動に身を任せてしまいます。しかし、無意識に行った行動から得られるものは何もありません。
これは普段歩くときの姿勢、ごはんを食べるときの口の動かし方、fizzbuzzの実装方法、すべての活動に言えます。
数年間毎日丁寧さを失わずに活動した人と、動物的に生活していた人との間では取り返しようのない能力の差がついてしまいます。姿勢だと健康につながりますし、プログラミングやイラストレーションではスキルにつながります。
ここで、「丁寧にやるとは何か」という疑問が湧き上がってきます。暗黙知に近いところもあり明瞭な答えを持っているわけではないのですが、「対象をつよく意識してゆっくりと動作する」ことで丁寧さが得られると考えています。例えば、文字を書くときにはペン先をよく見るのが大事です。なぜなら文字はペンと紙が接したところから出てくるからです。また、姿勢については――これは全身運動で非常に複雑なのですが――背筋を伸ばした状態の内的感覚を覚えて常に伸ばしておくことが大切です。背筋が伸びてるな〜という感覚を常に持っておきます。
とにかく、簡単にライフハック的な言い方をすると、「対象に<目>を近づけてゆっくりと動かす」ことです。
ここまで言語化はできているのですが、実践は困難です。私も意識的な注意を払って行動しているときより、無意識的な行動をしているときのほうが多いです。
起きてから数時間は仕事がはかどり、定時に向かって効率が落ちていくのは認知的な注意リソース――MPと思ってよい――が減っていくためです。MPがないと丁寧な人間的行動はできません。つまり、人間的な行動はRPGのスキルのような使用回数に限りがあるものと言えるでしょう(❓)。ちなみにちゃんと寝るとけっこう快復します。
長くなって何を書いているのかよくわからなくなってきましたが、とにかくできる限りにおいて丁寧なふるまいを意識するのが肝要です。
インドカレーは一汁一菜です。
カレーも味噌汁みたいなものなので、具材を冷凍しておいて、その日の気分で香辛料と味噌を使い分けるのが良いかもしれない。
ホットクック一汁一菜仮説 - non117's diary
カレー味噌汁説、飛躍してるなと自戒してましたが、土井善晴先生にとっての一汁一菜が私にとってのカレーであったという理屈で昇華されました。
2018/03/28 20:34
一汁一菜文脈での味噌汁とインドカレーの特徴
ところで、「一汁一菜を採用する最大のメリット」はなんでしょうか?
答えは「夕食の献立意思決定コストがなくなる」ことです。自炊をし続けることの困難さは調理工程だけでなく、「何を食べるか決めること」にもあります。土井善晴の提案する一汁一菜が解決しているのがこの点です。
味噌汁もインドカレーもとりあえず旬の野菜と肉を入れておけばよくて、スーパーでの食材を選ぶ意思決定コストもそれなりに安くなります。調理工程の複雑さは味噌汁のほうが有利なので、「🍛を想定して食材🍖🍆を買って帰ってきたものの気力が湧かない😵」ときは味噌汁に方針転換するとよさそうです。*1
相応の意思決定コストを伴う料理はよほどMPの余っている土日などにやればよいのです。土日に作業が立て込んでいて意思決定できないときは平日と同じものを食べればよいのです。
家事を定型化するのは想像以上の利点がありました。同じことを繰り返して人間が慣れることで、昨日より今日のほうが楽に家事をこなせるようになるのです。*2
ちなみに
洗い米について
— 土井善晴 (@doiyoshiharu) 2014年8月13日
お米は乾物だから、洗ってザルに上げ40分ほど置いて、吸水と水切り(これが洗い米)。 すぐに炊かない時はポリ袋に入れて冷蔵庫で保管可。水加減後すぐに火を入れる。確実に米のおいしさを引き出せます。 pic.twitter.com/IVjYzs7SeQ
にならってお米を炊いたらほんとうにほんとうに😭美味しくなったので😭😭😭各位必ずやってください。
がいま読んでいる本。
「わたしたち人間の意識と世界そのものをどう説明するか」という問題が各年代の偉人の手によって少しずつサブ問題へと分解されていく過程(西洋哲学流)を知ることができる。
昔の人の認識は混沌としていたのだなぁと思いつつ、しかし、現代に生きるわたしたちの発達過程でも同じような認知的成長を経ているような気がした。
ウェブ社会の思想 〈遍在する私〉をどう生きるか (NHKブックス)
よかった。先程風呂で読み終えた。
閉じたセカイを関係性によって開いていくのが本書で提示された処方箋だが、関係性と一口に言っても様々なものがある。意地悪な見方をすると「よい関係性」を選ぶことが<宿命>の内側に深く囚われた人に可能なのか、ものすごく時間がかかるのではないかという疑問が出てくる。
たとえ島宇宙的なセカイを脱する途上にある人が多くとも、総体として脱しきれていないものが多数派ならば問題は起こるような気がする。
じっさい、本書の終盤で登場した「大きな物語」の欠如によって起こるとされる社会的な危機は、昨年あたりから実際に萌芽を出しているものにもみえる。
また、「よい関係性を作るための制度を備えたシステム」によって関係性すらGoogleのような数学的民主主義の対象にならないのか。昨今のSNSはそれを志向している可能性はないのか。
関係性すら対象とする制度設計によってひとびとの成長が促されるなら、それはそれでよいことなのだろうか。ここに<宿命>の閉じた構造、あるいは別の問題があるかどうかはよく検討すると面白いかもしれない。
風呂で本を読むと捗る。
という条件によって、冴えた頭で没入して読書を行える。疲れていてもしばらくすると頭がよくなってくる。
ひとたび湯船の外に出ると、脆弱な精神によって何らかのインターネット端末を触ってしまうので、唯一の読書環境にして最高の読書環境になっている。
もともとは、最高の睡眠を得るためにしっかりと湯船に浸かるようになったのだが、思わぬ副作用も得ることができて読書生活も最高になった。
じつは風呂での読書を始めるまでは、本が濡れることを恐れていたのだけど、意外なことに全然濡れないし蒸気で本がフニャることもない。寝落ちしたら話は別だろうけど、寝落ち風呂は体調も壊れるのでもっと困ったことになる。
ただし一つだけ問題がある。10分も読書をしていると発汗がすごくて読書どころではなくなってしまうのだ。已む無くタオルを持ち込んで汗を吹きながら読書をすることもある。面倒である。ただ、興が乗らなかったら読書を10分で打ち切ってしまうこともあるので、身体がじゅうぶんに温まったサインとしても使える。
こんなふうにインターネットを使えない環境に拘束されるといいことがたくさんあるように思える。
によると、戦前の百姓たちは時計もラジオも持っていなくて、時計を意識しない生活をしていたそうだ。
われわれも時計やスマートフォン、PCから開放されて生活できたらよさそうだが、その試みが続いたことがない。それほどまでにインターネットを通して社会と繋がることはわれわれの生活と密結合をしており、悲しいことだなぁと思う。