しゅみは人間の分析です

いらんことばかり考えます

週報 2022/10/23 近況, 空間には文脈がある, 画像生成と偶然性

近況

体力がなくなってた

自転車通勤を再開したところ、体力が喪われているのに気づいた。二年間の在宅勤務の代償は大きかったようだ。通勤で自転車に乗った日は、帰ってきて寝るまでぐったりしている。

しかし体力ってなんなのだろう。われわれは気軽に体力というが、実態は謎である。筋肉だけでなく神経の耐久性もある気がする。神経伝達物質は使いすぎると寝るまで戻らないところがあるから。

在宅勤務で刺激の少ない生活をしていた結果、シナプスが刈り込まれてしまったのかもしれない。

アシスタント作業

妻氏の漫画が仕上げの時期に入り、アシスタント作業をして漫画が公開された。いつものごみ取りとトーン塗り。今回はアナログ作業フェーズのペンが変わったおかげで、いい線が残るようになった。

manga-no.com

今回はゴキブリの話だったが、元ネタは実話である。いつだったか週報に書いた覚えがある。ネームの初期段階では実話ベースだったのだが、途中で脚色したほうがおもしろいことに気づき、オチを変えた。事実としてもおもしろい出来事だったのだが、脚色したらよりよくなる。

グラフィックボード選定

AI画像生成がおもしろくなりそうなので、グラフィックボードに投資する。今はGTX 1070を使っていて、1枚生成するのに30秒から1分くらいかかる。最新のGPUだと数秒になる。

ふつうに考えるとRTX 4080あたりを買うべきだが、3年前にMac mini用に購入したeGPU BOXを使わねばならない、という思考に囚われていた。サンクコストである。

www.razer.com

eGPU BOXにはさまざまな制約があり、RTX 4080が入らないことがわかっていた。であればRTX 3090にすべきか……、と悩み続けていたのだが、eGPU BOXにGTX1070をつけて実験をしたらWindowsがeGPUをうまく認識しないことがわかってしまった。歴史的にeGPUとWindowsは相性が悪いらしい。Macは問題なかったのだが、Windowsはそういう製品であるようだ。

 

思弁的にいろいろ考えていたが、実際に試すと簡単に結論が出た。こういう回り道は仕事でもよくあるよなあ、と思った。スペックシートや数値だけをみてあれこれ考えるが、実験をして具体的に確かめたら素直な結論が出るやつ。仕事だと空中戦を避けて議論ができるのに、趣味の領域だとそのような冷静さが発揮されないことがわかっておもしろかった。

画像生成AIで絵描きの格差が広がる

妻氏と議論をしたところ、AIは道具にすぎず、もともと上手な人が生産スピードを上げるのに使える道具である、という結論が出た。つまり上手な絵描きが上手な絵を、以前より素早く出せるようになるだろう。

空間には文脈がある

家のなかの机、ダイニング、ソファなど、それぞれの場?空間?には文脈がひっついているらしい。具体的に言うと、ソファはくつろぐ場、ダイニングは食事をする場、みたいな。

 

本来は机が仕事をする場、だろう。真面目に何かに集中する場所。そうであってほしかったのだが、私のなかでは机がだらける場になっていたようなのだ。そのせいで仕事で机に向かっても集中ができなかった。ソファやテーブルで仕事をすると捗っていた。ふつう逆である。

なぜこうなったのか。メインの私物マシンをMac miniにしていたからである。ディスプレイがついていないので、日々のインターネットをするのに机に向かっていないといけない。こうして机が遊びの場になってしまっていた。

 

場の文脈は軽視できないなと思った。メリハリというやつだろうか。家で仕事をするには、机は真面目な作業をする場所、というラベルをつけ続けないといけない。そのラベルを維持し続けた結果、机に向かいさえすれば仕事ができる、という状況が作れるのだろう。だから、プロの物書き、学者などが複数の机を持っているのである。

在宅勤務をするうえで深刻なので、私物マシンをラップトップに買い換えることにした。メインマシンのモビリティがない限り問題は解決しない。Mac miniを買ったのは2018年の判断だが、このせいで自分の行動が制約され、机の文脈が遊びであり続けてきた。環境への投資の影響は長く続く。恐ろしいことである。

今やなんでもバッテリーを備えているものなので、ひとまずモビリティ、空間的な柔軟性に振っておくのがよい。家の空間を批判的に検討しさえすれば、あとからいいように動かして、空間の文脈を上書きできる。

理想的には、家で行う活動の種類だけ椅子が必要である。仕事をする椅子、読書をする椅子、だらける椅子、それぞれ違う文脈を持っていたほうがよい。それをするには広い家が必要なので実際には難しいのだが、折りたたみのニーチェアなどを使えばある程度は実現できるだろう。

画像生成と偶然性

画像生成を回す楽しさは、偶然性との出会いである。

原理からしても画像生成は乱数のシード値が大事だ。初期値がなんであるかによって、出てくる絵が大きく変わる。呪文は初期値を方向づけるものにすぎない*1SNSに公開されているおもしろいAIイラストは、どれも乱数ガチャを回したうえで選別されたものである。選別するとき、人間の目が関わっている。

選別する人が狭量だと、常識はずれでおもしろいイラストが出てきても捨てられる。常識を半ば無視しつつ、外部に対して開かれた態度を持つ人だけが、乱数生成のイラストからアイデアを得られるだろう。選別をする目が大事なのは、そういう意味である。技術的な審美眼も必要だが、態度が開かれてなければならない。

*1:と、勢いで書いたものの呪文も大事である。今の私の理解だと、呪文は空間の制約であり、呪文でよい空間を定義できると、乱数に頼らず狙ったものが出せる。それがおもしろいかはともかくとして

週報 2022/10/16 AI画像生成でキャラクターを理解する, 欲望の棚卸し, ほか

AI画像生成でキャラクターを理解する

特定のキャラクターを再現する呪文の開発にハマっている。

ブルーアーカイブの阿慈谷ヒフミさん再現プロジェクト

それの何が楽しいのか?キャラクターのキャラクターらしさを理解するのが楽しいのである。キャラクターの特徴を言語化する遊び、だろうか。

呪文にはキャラクターの本質的特徴が含まれてなければならない。特徴を理解して呪文を作るのが人間の仕事であり、楽しみ、というわけだ。キャラクターが再現できたかどうかはみればわかる。二次創作のイラストにも似てるもの似てないものがあるのと同じだ。

具体的な特徴は目元、髪、表情に出やすい。タレ目かツリ目か、髪の色、アホ毛があるかどうか、などなど。ちょっとした違いでも、これは違うキャラじゃん、となるのがおもしろい。

非常に微妙なニュアンスを持ったキャラクターもいて、安定的に再現するのは難しい。ニュアンスのあるキャラクターはIPという観点でも強いだろう。他のキャラクターとの差異があって覚えやすいから。

正直なところ、生成されるイラストには執着・感慨がない。イラストが欲しいのではなく、キャラクターの理解が目的である。ゲーム的な楽しみでもある。キャラクターの固有名詞に頼らずにキャラクターを安定生成する呪文ができるとうれしい。

包丁はこまめに研ぐ

包丁はこまめに研ぐとよいのに気づいた。3000番から5000番くらいで二週に一度研ぐと、よい切れ味が維持できる。包丁の細かい傷をこまめに修復していく作戦になっていて、カボチャや魚の骨を切らない限りはうまくいくと思われる。大きな欠けができたらさすがに1000番が必要になる。

この方法が嬉しいのは、使う砥石が固定できる点にある。これまでのやり方だと数ヶ月に一度、1000番と仕上げ砥石で研ぐ、みたいな方法だったのだが、砥石を交換して研ぐのはけっこうめんどくさい。それに、数ヶ月に一度みたいな頻度になるとたいてい研ぎ方を忘れている。

というわけで、頻度をあげて、シンプルな方法で切れ味を維持していく作戦にかえた。有効だと思われる。

お仕事の様子

三週間ほど本業プロジェクトを放置していたらお尻に火がついてしまった。人を待たせるタスクがいくつか溜まってしまい、つつかれる。すみませんすみません、と形だけ土下座をしながら片づけていた。優先度判断は間違ってないのでまったく悪気はない。

半日ずつ別の仕事をする、みたいな働き方は苦手で、マルチタスクは向いてないな、と思った。

環境問題について妄想する

ある日の風呂上がりに環境問題について考えていた。風呂で身体を洗ったり、タオルで身体を拭いているときに変な思いつきをする。

そのときのテーマは地球規模のエネルギー問題だった。問いは、持続可能なエネルギー源は何か?というもの。

 

答えは人工の核分裂核融合である。というのも、埋蔵エネルギーや植物などは、どれも太陽から降ってきたエネルギーを貯蔵したものだから。石炭も石油も、バイオマスも、すべて太陽のエネルギーが変換されて蓄積されたものである。数億年かけた太陽エネルギーの蓄積なので量はあるのだが、原理上限りがある。近年のエネルギー消費速度を考えると、埋蔵資源を食い尽くすのは明らかである。

なので、太陽以外からエネルギーを持ってくる必要があり、それは質量欠損だ、という話。「人工の核融合」と言ったのは太陽が天然の核融合だからである。結局のところ、自然界で得られる巨大エネルギーは核融合が主である。それを太陽からとるか、人工で得るかの違いになる。早く実現するといいですね、核融合発電。ただし、人類の核融合技術のレベルによっては、ヘリウム3が足りなくなるかもしれない。

 

まだ問題はある。エネルギーのゴミ、つまり熱の排出。わかりやすく言うと地球温暖化地球温暖化は人類の活動でエネルギーのゴミが出ている、と捉えられる。もちろん二酸化炭素の排出もあるのだが、人類のエネルギー使用量が大きいほど、出てくるエネルギーゴミも多くなるはずだ。電気設備や化学反応は熱を放出する。これほど無駄なエネルギーはない。

熱もエネルギーなので、これを回収して電気に、あるいは物体として固定化できるとよい。そういう技術は存在するし、研究もされているだろうけど、効率が悪いのが現状だろうか。熱エネルギーを効率的に回収できるようになると、二酸化炭素を多少排出していようが、温暖化は止まるはずである。エネルギーにもなる。

SF的な発想をすると、『プロジェクト・ヘイルメアリー』のアストロファージの熱一般バージョンがいたらいいのだろうな、と思う。微生物による化学反応はスケールするのがよい。条件さえ整えれば、微生物のもつ酵素によって効率的な反応が実現できる。と、思弁的に理解しているが、実際のところどうなのかは知らない。発酵の制御もいろいろ苦労はあると思う。

欲望の棚卸し

お絵描きAIの登場により、絵師の実存が脅かされている。らしい。絵師が駆逐されるという簡単な話ではないし、共存すればいいだけなのだが、それでも不安を持っている人は多いだろう。

しかし、絵師のアイデンティティが揺らいでいるのはもともと、である。AIの登場とは関係がない。消費市場では差別化が必要で、他人と似たものを作るのにはあまり価値がない。商業的に安価にイラストを生産するならば似ていてもいいのだが、趣味ならば自分の癖に尖らせるのがよい。なのに、似たような絵柄の絵師がたくさんいる。

問題は癖を育てるのに努力が必要な点にある。努力はたいへんで、自然にできるならば苦労はしない。自然に努力ができるのは、絵を描くこと、あるいは絵を描いて評価されることへの欲望が強い人である。たいていの人はそんなに強い欲望を持っていない。

欲望が強い人は、生活や健康を犠牲にして、リソースのすべてをお絵描きに費やすだろう。これはお絵描きでなくても、何にでも言える。しかし一方で、健康や対人関係、社会的な信用なども犠牲にしかねない。破滅的な性質も併せ持つのが、欲望の強い人である。

もちろん多くの人は欲望が弱め、あるいは強くなく、バランス感覚を持って生活と社会と趣味を両立させている。すると、お絵描きにすべてのリソースを投下する、という判断はしないようになる。つまり欲望が弱めで広い視野を持っている人は異常な努力ができなくなる。よって、イラストの上達スピードは遅くなる。

若くて欲望の種類が少ない人、あるいは欲望が強い人はそのまま放っておけば上達していく。問題は欲望が弱くて冷静さのある人である。絵を描きたい気持ち、評価されたい気持ち、がほどほどにあるが、生活を投げ打つほどの勢いはない。そういう人がジレンマで悩む。

 

必要なのは、欲望の棚卸しと欲望を育てること、である。個々人の欲望には、理由のある欲望と、まったく理由のない欲望がある。

理由のある欲望は、他者から植えつけられたものが多い。他人がガジェットか何かを買って自慢していたから自分も欲しがる、みたいなやつ。他者の欲望に欲望する、と消費論で言われるやつ。この手の欲望は、本当に欲しいのか?と疑っていくと消えてしまうだろう。

大事なのは理由のない欲望である。ただそれをやると楽しい、線を引いて妄想を具現化するのが楽しい、理由はない、そういう欲望。このタイプの欲望は個々人の脳構造、認知様式に由来するもので、意志で曲げるのは困難である。あるがままにして、こちらのタイプの欲望を育てるのがよい。

 

というわけで、自分の欲望を並べて吟味し、棚卸しをしていくことが必要になる。お金や時間などのリソースは限られているため、自分の小さな欲望を全部叶えるのは無理である。強くない欲望を持つ人は、棚卸しをするだけの思慮、大人な性質があるはずだ。理由がある欲望を諦めれば、理由のない欲望を残してそれに投資することができる。

理由のない欲望を毎日刺激し、時間を投下していけば自然とその欲望は強くなる。もともと欲望が強い人のレベルにはならないかもしれないが、中くらいの強さの欲望にはなるだろう。思慮分別とほどほどの欲望、実務能力を持つ者はなかなか強いと思う。強すぎる欲望を持つ人との仕事は難しいから。

 

ちなみに私は「文章を書くこと」が理由のない欲望である。言語化が楽しくて、なぜ楽しいのかは自分でもわからない。アファンタジアの認知様式にはこれしかないのかもしれない。

週報 2022/10/09 Stable Diffusionを試した, BA1ワクチン接種 ほか

Stable Diffusionを試した

宇宙モルモット

こんな画像が出てくる。たしかにおもしろい。

導入手順は以下のとおり。ふつうは素のWindowsで動かすと思われるが、まともなシェルが欲しかったのでWSLを使った。sshmacOSから管理できて便利である。

必須要件

  • メモリ16GB
  • nvidiaのグラフィックボード

手順

  1. .wslconfigでメモリ割り当てを12GBくらいに設定する。モデルがでかいので多量のメモリがないと落ちる。
  2. Hugging Face からStable Diffusionのモデルを落としておく。Waifu Diffusionでもよいかも。

  3. WSLのインストール、ユーザー作成。
  4. 22番、7860番ポートをVMからホスト側へフォワードする*1sshとStable Diffusion web UIのポート。
  5. パッケージを入れる。Pythonの依存cudaなど。cudaが必須なのかはよくわかっていない。
  6. asdfを入れる。
  7. asdfPythonを入れる。
  8. Stable Diffusion web UIをgit cloneする
  9. webui.shを動かす。いろいろ自動でビルドされるので待つ。
  10. 無事に起動されたら一回落として、python webui.py --listenで起動する。これで0.0.0.0で起動される。
  11. ホストマシンの7860ポートにhttpアクセスして遊ぶ。

アイコンのキャラを生成しようとして出てきたふんいきイラスト

今のところWaifu DiffusionはNovelAIほど精度がよくない。精度とはなんやねん、とは思うが、ともかく、そう簡単に綺麗なイラストは出てこない。ただ、シンプルな呪文であればおもしろいものは出てくる。

AI画像生成の領域は数日でブレイクスルーが発生する状況、確変状態であり、悲観する必要はない。メモリとGPUを犠牲にする余地さえあれば、どんどんおもしろい、あるいは綺麗な画像が生成できるのではないか。

刺されそう

プロンプトに呪文を入れて試行錯誤するのが楽しい。ランダムにノイズを除去していって、画像を生成しているので、どこかガチャみたいなところがある。時間と電気を使って何かを降臨させる儀式だ。

プロンプトに入力する呪文は空間を制約するためにある。思ったとおりの絵を出すには、できるだけ狭い空間になるよう、言葉を選ぶとよい。語は重複しないほうがいいだろう。重みづけは()でできるので。

かにパルサー

AIと絵師の対立があるが、たしかに絵師は困るだろうな、と思う。虹裏としあきが「スケブに発注せずにすむ」と言っていた。たしかにそうである。投げ銭で稼げる時代が来たと思ったら、AIに仕事をとられるのだ。たまったものではない。

となると、AIで再現できない絵はなにか、という問いが出てくる。個人的には「狙ってないのに出てしまう癖や絵柄」が答えだと思う。こういうものを「味がある」とも言う。

個人を狙ってモデルを作られたら癖すらも学習可能だとは思われるが、そんなあからさまな敵対的な行動をする人には法的闘争の余地があるだろう。ひとまず、自分の味を磨くのがよいと思われる。

クラブサンドハウス

BA1ワクチン接種

一昨日、オミクロン株対応の二値ワクチンを接種した。ファイザー製。10月に入ってそろそろかな、と思っていたら明日から打てます!と告知がなされた。7、8月の波で幸いにもブースター感染をしなかったので、すぐに打つことにした。感染した人はいつ打つか判断が難しいと思われる。

 

副反応は軽かった。熱は微熱程度で、37℃を超えていない。副反応は腕の痛みと倦怠感。3回目のモデルナに比べたらかなり楽。

と、言葉でいうと軽かったのだが身体のだるさはきつかった。おそらく免疫反応によってプロスタグランジンが産生されまくったのだと思う。足はむくんで頭はふらふらだった。

対策はイブプロフェン等のプロスタグランジンブロッカーである。すぐに飲めばよかったのだが、気づくのが遅くて苦しんだ。12時間後から18時間後にかけてだるさのピークがあるので、その辺の時間を狙って6時間ごとに飲むとよい。だいぶ楽になるはずである。

バジル

初夏の頃、知人にバジルの苗をもらった。数ヶ月育てて腰の高さまで成長したのはいいのだが、もうすぐ冬である。バジルは耐寒性がなく、寒さでやられてしまうそうだ。家の中に入れることにした。

UPSとバジル

数年間ベランダで何かしらの植物を育ててきたのだが、室内に入れるのは初めてである。そもそも鉢皿を持っていなかった。鉢皿とはプランターの底から溢れる水を受けるための皿である。

京都大丸の屋上の園芸店が最寄りだったのだが、閉店していた。なぜか大丸の8Fは廃墟になっている。最寄りだったペットショップも閉まって実に困る。もっと収益性のよい店舗に入れ替えるのであろうか。横暴な。

鉢皿がその辺で買えなくて困り、結局東急ハンズでお盆を買った。銀色のステンレス製のお盆である。ふつうにコップや皿を運ぶ道具なのだが、サイズがちょうどよかったので、鉢皿にしてみた。

 

バジルが家の中にあると便利だ。すぐに料理に使えるし、手入れもしやすくなる。モルモットの餌にもなる。問題は光量が足りるかどうか。蛍光灯と植物用のLEDライトを使っているが、屋内で越冬できるかは賭けである。

ロシア料理店キエフ

祇園にあるキエフというロシア料理店で食事をした。キエフのロシア料理というだけでもう怒られそうな店名なのだが、この店はソ連時代からあるので非難される謂れはない。そうはいっても、いちゃもんをつける暇人はいるだろうけど。

食べたのはランチのコース料理で、前菜、ボルシチ、メイン、黒パンなどが出た。あとは取り分け用にプロフ。

ちゃんとサワークリームが入っているボルシチ

味はふつうだった。学生時代から知っている店で、当時はかなりおいしい店だと思っていたのだが、店と私のどちらか、あるいは両方が変わったらしい。味の記憶とは信頼できないものである。むしろ変わらない味のほうが珍しいかもしれない。

これはピラフ

プロフを注文したらカレー味のピラフが出てきて驚いた。ピラフではなくプロフと表記されているので、中央アジアのあのプロフだと思ったのだが、この店の解釈は違うらしい。私は羊肉にクミンが効いたものを期待したのだが、ちょっと残念である。

この店は黒パンも黒パンらしくなかったので、日本人好みの味に寄せているのだろう。客層は中高年。あまり尖った味付けにはできないと思われる。おいしかったが、もっと本格的なものを食べたいな、と思った。

労働の様子

この頃出社日の弁当として味噌汁弁当を運用している。ジャータイプの弁当箱に具沢山の味噌汁を入れたものだ。それとおにぎり。出社する日は早めに起きてちょっとした調理をする。

前の晩にカット野菜をタッパーに詰めるのです

切っておいた野菜と鶏肉を蒸して、ジャーに入れ、味噌とお湯を入れる。すると、運んでいるうちに自然と味噌が溶けて味噌汁ができる。おにぎりはタッパーの白米をラップと塩で包んだもの。

10分〜15分で作れて、味もよい、野菜もたくさん食べられる食事なのだが、それでも早起きが必要になるのはたいへんである。弊社の定時がちょっと早めなのも問題ではあるが。

 

今週数日出社労働をしたところ、私は出社しているほうがよく働くことに気づいてしまった。やっぱり家だとだらけるし、運動不足で頭のはたらきが鈍るのだ。歩いて血流をよくしたほうが働ける。特に冷え性の私の場合はそうである。

通勤で時間が減るのは歯痒いのだが、ちゃんと進捗を出してから退勤するほうが気分がよい。塩梅が難しいなと思う。寝ている間に会社の席についているならば、毎日出社しても構わないのだが。

私的領域の包摂

ロシアは欧州からどう見られるか、ではなくロシア国内からどう見られるかを気にしているようだ。外に向けては一貫性のない主張を繰り返している。矛盾や不誠実さがあっても気にしない。

大国は外ではなく、内部の対立、反乱が怖いのだと思う。大きな国は内側から崩壊するのが歴史の常である。中国も警察費用が嵩んでいるし、外よりも内をみているのだ。

 

この構造は身近なところでも見られる。この頃ニュースやインターネットで槍玉にあげられる「炎上」は、身内向けの態度そのもの、あるいは身内向け態度を外に見せたことで起きるものが多い。

内輪では身内向けの態度をとり、外と違った顔をする。これは動物的に自然である。人が群れて集団を作り、身内を優遇する、身内向けの特別な態度をとる、何千年もこうしてきたはずだ。

公的な空間と身内向けの空間を区別する規範は昔からある。我々の祖父母世代であれば、「世間」向けの態度を叩き込まれているし、我々にもそう躾けてきた。彼らの世代では身内と社会が峻別されており、世間向けにちゃんとした態度をとっていればそれでよかった。あるいは、場に応じた規範がはっきり決まっていて、それに従っていただけなのか。

 

現代では公私は曖昧、というか、私的空間が公的空間に侵食されている。どの身内向けの「コミュニティ」「会社組織」も閉じていなくて、どこかに穴が空いている。身内向けだと思って行動したら晒されることがある。「コミュニティ」独自の規範はあってないようなものになり、常に公的空間の規範の側から比較、判断される。

公的空間における「大人」の凄みはなくなり、すべての人はただの人間になった。つまり、前期近代は誰もが公的空間で「役」を演じていたということだろうか。今はみんな私生活をもった人間である。誰もが裏側に生活世界を持っている。ハルヒが指摘したように。

 

今や誰もがSNSで直接的につながるようになっている。裏側の生活世界は筒抜けで、政治的信条すら露わになっている。『露出せよ、と現代文明は言う』で言われたように、情報化時代の市民は「心の闇」を失い、個人の心は白日のもとに晒されている。

その結果「心の闇」や私的な領域を失ったもの同士、公的規範によって監視しあう社会ができる。いつどこでも、監視のまなざし、他者の目線を気にしないではいられなくなる。

世間の目線を気にしていたのは祖父母世代でもそうでは? 同じではない。彼らの世代は、公的空間における他者の目を気にしていたが、私的空間では自由だった。一方で、今は私的空間も世間の目を気にする場所となったのである。

 

対抗する方法は、もちろん「心の闇」をもつことである。公私をはっきりとさせて、私的領域への「社会」の干渉を無視すること。自己と他人をしっかりと区別すること。

残念ながらコミュニティを作るのは難しくなっている。少人数の信頼のおける人だけで作るならばいいが、人数が増えたら途端に私的空間に穴が空いて、公的規範が入り込んでしまう。大きなコミュニティはすなわち社会だと思ったほうがよい。

自他の区別が曖昧な人は苦しむことになる。安心できる私的領域がなくなり、常に「社会規範」の圧力に晒される。皆で相互監視をして、皆で不幸になるゲームのなかにいる。残念だが、公私の厳密な区別が外から与えられる時代は終わってしまった。現代を幸福に生きるには、自己を定立する以外の方法がないようにみえる。

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週報 2022/10/02 役割を重視しない文化, 情報空間での優先度付け

近況

Splatoon 3のフェスに参加していた。ナワバリバトルはいいのだが、トリカラバトル?とやらの意味がわからずにプレイしていた。ルールがわからくてほとんど負けてしまう。暇つぶし派の同志に土下座である。

御苑散歩

前の日曜日は京都御苑で散歩をしていた。

京都の住宅街は意外と緑地が少ない。家と道路しかなくて、散歩コースとしては飽きやすい。左京区であれば鴨川や疎水、何かしらの寺社があるものだが、私の近所には少ない。繁華街に近くて便利ではあるが、車のための街になっている。

京都にはもう10年くらい住んでいるのに観光はしたことがない。同僚や友人も同様で、インドアな人はこんなもんである。「観光とは、そこに噂どおりのものがあるのを確認する行為だ」と誰かが言っていた。そのとおりである。

観光には興味がないのだが、自然は眺めたい。たまにそういう気分になる。というわけで、緑を求めて御苑に行ってみた。

京都御苑へ足を踏み入れるのは二回目で、一回目は大学院生の頃だったはず。当時、Ingressにハマっていて夜な夜な緑陣営の拠点を焼いていた。京都御苑にもポータルが多数あったので、足を運んだ次第である。

 

しかし御苑はちょっと微妙だった。たしかに緑は多かったのだが、砂利道が歩きにくく、木々はほとんど松だった。管理の行き届いた人工的な空間であって、変化には乏しかった。

やっぱり鴨川だな、と思った。

平日

平日は久しぶりの週5勤務。実装はせずにほとんどサブ業務の作文、資料作りをしていた。意外と体調はまともだったが、進捗は芳しくない。締切りが近くて焦る。

役割を重視しない文化

昔、であること、できること、すること - non117's diaryというテキストを書いたことがある。社会的な評価である役割よりも、本人のできること、することが大事だ、という主張。先日、中途で入ってきた同僚と喋っていて、「役割よりできること」という考えはごく一部の社風でしか通じないことに気づいた。

自由な雰囲気のソフトウェアエンジニア業界であっても、「ナントカエンジニア」みたいな役割を作って人を役割にはめ込むことは多い。もちろん、自律性の高い人は枠にとらわれずに行動するのだが、組織としては役割を作ってしまう。役割からの逸脱は歓迎されない。

しかし、役割は(ある程度)無視して組織に必要なことを、自分の能力が最大限発揮されるように、働くべきである。自由な文化の組織でしか通じないかもしれないが。

情報空間での優先度付け

Twitterで流れてくるテキストをすべて、真面目に、読んでいる人がいるのを知った。

ということは私は真面目に読んでない。私の友人たちも真面目に読んでない。それがふつうだと思っていた。

しかし、全部読んでしまう人はいるし、おそらくたくさんいるのだと思う。SNSでトレンドの話題にいちいち怒る人たちも、たぶん真面目に読んでいるタイプだと思う。すべてに感情的に対応するので疲れるし、疲れた結果、より怒りやすくなるだろう。

 

たぶん、彼らはコンテンツの優先度づけをしていないのだと思う。真面目に読まない側の人は、テキストを読む前に読むに値するかを判断している。

なんでそんなことをするのか?疲れるから。情報が多すぎてきりがないから。本質的にインターネットは暇つぶしにすぎないため、SNSコンテンツが多いのは悪いことではない。なのだが、スマホとSNSに切り刻まれている - non117's diaryで書いたようにすべてに対応して精神をこまぎれにするのはよくない。もちろんメンタル的にも。

 

私はSNS以前からインターネットをしていたから優先度付けできるようになったのだろう。2000年くらいのインターネットには今ほど情報がなく、すべてがゆっくり流れていた。当時は2chテキストサイトを全部読む余裕があった。そこへ少しずつ情報が増えていき、ブログブームを経てSNSが誕生した。私にとっては少しずつ情報が増えていったのである。なるほど優先度をつけるよう適応しても不思議ではない。

一方で、スマホ以降の世代は、インターネットを始めた当初から情報が多い環境である。彼らにとって、優先度付けする態度が自明ではないのも理解できる。

午前は使いものにならないのに気づいた

gugu.jp

時計遺伝子のタイプ、睡眠リズムのタイプという怪しい分類があるのだが、私はオオカミタイプとやらだな、と自覚した。つまり夜型である。夜型ではあるが、不眠症のイルカ型ではなく、寝入りが遅いもののちゃんと寝られる。睡眠時間は7時間半くらい必要。

朝はだいたいぼーっとしていて10時からの会議はあんまり内容を聞いていない。午後なら大丈夫。コーディングが捗るのは正午前から昼食までと17時以降。どうしてもこの時間帯でないと知的生産ができない。

もしかすると運動習慣などで改善できるのかもしれないが、自分の頭がよく働く時間はここしかないのだと思って諦め始めている。自分の身体にはあらがえないので、諦めて身体仕様に従い、適応するのが一番である。

ここ数年は自分の身体に従ってばかりである。頭で身体を支配しようにもうまくいかない。合わせるしかない。こういうのが大人になることの第二段階なのかな、とも思う。第一段階が社会に合わせること、業務ならばチームで働くこと。第二段階が身体および無意識と仲良くすること。

週報 2022/09/25 『思い出を切りぬくとき』, 『中動態の世界』を読んだ

近況

前の日曜日は休みにできたのだが、どうも体調は不穏だった。喉が痛かったり、ストレス性の皮膚炎が出たり。すわコロナか?となったが、お灸をしたら治ったので違ったようだ。おそらく冷え。秋が来て冷え性にはつらい季節になってきている。

月曜日は関西コミティア。台風が迫っているなか、本を売ってきた。相変わらずスペースには予備椅子がなくてずっと立っていた。午後には台風が最接近していたのだが、会場が家から近くてすぐに帰れた。便利である。

イベントが終わりほっとした妻氏はSplatoon3を買ってプレイし始めた。ナワバリバトルをずっとやっているようだ。私はヒーローモードとバイトをやっている。ヒーローモードの難易度が高すぎて文句を言いながらクリアした。

火曜日から木曜日までの平日は業務。休みを入れて巨大な連休にしている同僚は多かった。私は仕事が詰まっているのでふつうに働いた。締切りが二つ迫っていてたいへん焦っている。

仕事はたいへんなのだが、私生活のイベントは落ちついてきた。あとは次の金曜日の社交ダンスレッスンくらい。やっぱり私はイベントがあるとダメで、落ち着かなくなりストレスを受ける。月にいっこくらいにしておきたい。

手書きの自由さ

仕事で作文をたくさんしていて、手書きの便利さを知った。

これまでの書き物は、アウトラインプロセッサでの下書き、設計を経て、別のエディタで清書をしていた。アウトラインプロセッサはもちろん便利だし、有用なのは変わらないのだが、より前の工程に手書きが入るのに気づいた。

なんせ、手書きは紙とペンさえあればよいのだ。下書きの下書きなので、雑でよい。漢字はまともに書かないし、字はめちゃくちゃだ。たぶん他人には読めない。一ヶ月後の自分にも読めないだろう。でもそれでいいのだ。数日読めればよくて、下書きの役割が終わったら捨てるものである。

紙は裏紙でいい。我が家には二次創作同人誌の通販事務処理で使っていた裏紙がたくさんあった。これをB6サイズに切って手軽に使える裏紙としてストックしている。B6なのがポイントで、気軽に書き散らかして捨てることができる。

紙とペンは思考速度が速くなる。PCやiPadスマートフォン、どれも文字を打つのにハードウェアとソフトウェアのやり方に合わせないといけない。画面の広さ、キーボード、IMEなどの制約のせいで、思考スピードは落ちてしまうのだ。まともに漢字を書くのを諦めたら、紙とペンの思考スピードがいちばん速い。

紙にしろメモアプリにしろ、その道具の役割は(脳の)外部記憶装置である。思考を補助するメモリになればそれでいい。メモリとして使うのに、間に挟まる道具は少ないほうがいい。

もちろん、読むためにはディスプレイのほうがいい。ここで言っているのは、考えるため、書くための道具の話である。だから、手書きがいいのは下書きまでの話。人に読ませる、あるいは日記にするならば清書は必要である。

自分でも読めないところがある

『思い出を切りぬくとき』を読んだ

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イベント続きで疲れていた先々週、なんだか哲学書人文書を読む気分じゃないな、となってエッセイを読み始めた。

物語、小説コンテンツは苦手である。壮大な物語はたしかに楽しいのだけども、物語世界に入っていって戻ってくるのがしんどい。別に私は現実逃避をしたいわけではなくて、今ここで、現実にいながら少し物思いに耽るくらいがよい。なので、エッセイがちょうどいいと思った。

前にも書いたように、エッセイは読みやすさが大事だ。内容がなくてもよい。平易でいつでも読めて、その人にしか書けないものが出ているのがエッセイだ。

今ではYouTuberが人生の切り売り競争をしているが、原初の人生の切り売りはエッセイとか自伝である。

ある人物のエッセイに飽きたとき、その人の本に書かれていたことが、全部同じである、と理解する。人生の切り売りコンテンツとはそういうものである。

 

萩尾望都は、伝説級の少女漫画家である。ちょっと古い漫画ではあるが、内容はたしかにおもしろい。妻氏が萩尾望都を気に入っていたようで、家にたくさん本がある。

そんな萩尾望都の古いエッセイを集めたのがこの本。家に落ちていたので読み始めた。

 

鈴木光明先生のマンガ教室に毎年、とりあえず講師として一、二度出席するのだが、行くつど教えることは困難だと実感する。こういう表現の形態について、描き方について教えられることはほぼ表面的な技巧面が主だし、なぜ表現するのかという肝心な、そしてもっとも大切なことは、もう教える、教えないの域を超えてしまう。あとは各自が知るのを気づくのを、補助するぐらいの役割しか出来ない。p46

憧れという感情は厄介で、自分の欲望ではないもの、他者の欲望を自分のものだと勘違いさせてしまう。他者の欲望に欲望する。これは消費の一般的形態でもある。

内発的な動機=欲望による表現が一級であるとする意見は今では古いかもしれない。承認や金儲けが大事だ、とも言える時代である。しかし、それでも私は作者が自由な、好きなように描くのがいちばんだと思う。

他にも「このまじめなSさんに創作が遊びとムダから生まれることをどう説明しよう」とか、「5分でできる仕事の依頼でも、割り込み仕事は嫌だ」という話があった。

『中動態の世界』を読んだ

www.u-tokyo.ac.jp

國分氏の本は読みやすい。哲学書なのだが、問いが整理されており、全体構造がわかりやすい。そして本文も平易に描かれている。稀有な哲学書である。

國分氏のことは、千葉氏との対談本、『言語が消滅する前に』で知った。國分氏と千葉氏は東大時代の知り合いか何かのようで、それなりに仲が良さそうである。

その後『暇と退屈の倫理学』を数ヶ月積んでから読み、これもよかったので、『中動態の世界』を読み始めた次第である。

國分氏は千葉氏と違って、ちょー真面目な哲学者だと思う。でも、古典解釈ばかりしているタイプの哲学者でもない。ちゃんと現代の生活世界を見据えて哲学をしている。

 

そんな國分氏の今回の問いは、「言語は人間の活動を捉えきれていないのでは?」「行動はすべて意志があるかのように言われるが、そうではないのでは?」というものである。

これは至極真っ当な問いで、人間の行動は意志で貫かれているわけではない。歩く動作一つとっても、意志があるような、ないような側面がある。脅迫をされて金を払うとき、明らかに我々は意志に基づいていない。

この、意志概念は構築物では?という問いを、中動態という、消滅した態から分析していく本である。

 

あらすじ: 一般的には、中動態とは能動態と受動態の中間の態だと説明されるが、國分氏は、バンヴェニストの説をベースに、中動態が受動・自動詞・再帰の役割を合わせもった言語機能であることを示していく。最後に、スピノザの言語理解を解釈し、中動態がたしかに人間の行動をうまく説明すると主張する。

というような、本である。意志、行動、言語、人間を分析するおもしろい本だった。内容も充実していて、サービスもよい、いい本である。

週報 2022/09/18 日本の家庭料理独習書

日本の家庭料理独習書

www.kinokuniya.co.jp

調理方法の意味を問うた本

土井善晴氏のちょっと若い頃の本である。ほらこんなに若い。

ぴちぴちですね

この本は、土井先生の『一汁一菜でよいと至るまで』で存在を知った。

 同じ「調理」という言葉で表現されるのでも、プロのすることと、家庭料理で行う手法の違いを、意味を含めて明解にしていく。例えば、「ほうれん草のおひたし」なら、家庭料理のおひたしと料理屋のおひたし、また、栄養大学のテキストにあるほうれん草のおひたしと高校生の家庭科のテキストにあるほうれん草のおひたしは、それぞれ全く異なるものです。
(中略)
 また、授業のあり方は、炙る、茹でる、炒る、蒸かす、膾、干す・発酵というように、一回の授業を一つの調理法に特化することで、多様な調理方法を比較しつつ理解を深められるようにしました。私なりの調理法の授業です。
『一汁一菜でよいと至るまで』 p207-208

と、あるように家庭料理での調理方法の意味が解説された本である。私は行動にはすべて意味づけをしたい、自分で説明できるようになりたいタイプなので、ぴったりの本であった。

 

中身は料理書らしからぬ文字だらけ。レシピというよりは、調理法の解説が主眼であり、基礎技術の本である。

ポイントのところで意味の話がされてるのがよい

いい本だと思うのだが、残念ながら絶版している。古書でなら手に入る。
私はまだ全部読んでないが、ぱらぱらめくって土日に修行をしていくつもりだ。

思い出の薄い料理を作るのは難しい

ただ、個人的には、この本の料理をみてもピンとこないものが多かった。思うに、実家での食事経験の問題である。

実家の料理、特に和食がおいしかった場合は、こういう本を見て、これを作ろう!と思えるのかもしれないが、私の実家はそうではなかった。

母の料理はあまりおいしくなかった。まずくはないのだが、おいしくはない。これは自分で料理をするようになってから気づいた。私のほうが料理うまいじゃん、と。

汁物にしても、煮物にしても母の料理はなんとも微妙だった。だから私の体験として、家庭料理の和食にはいい思い出がない。印象が残っていないので、これを作ろう、という気にはならないのだ。

 

幸いにも妻氏の和食経験はよさそうだった。つまり妻氏の母の作る和食はおいしく、妻氏はこれがおいしかった等々の思い出を持っているのである。妻氏の体験・印象をもとに献立を作り、自分の家庭料理の体験を更新していく。この方法で、実家の体験を補えるのではないか。

食事体験は文化資本である

このように、実家での経験はばかにならない。まさに文化資本である。

核家族の世代において、ふつうは一つの家庭しか経験しない。経験が一つしかないからそれが当たり前だと思いこむ。相対化されるのは結婚やシェアハウスなどの共同生活を通してのみ。

共同生活は暗黙的な経験同士がぶつかり合う場となる。自分の経験が、ある特殊な一例であることに気づける人は少ない。核家族生活で培われた癖・感覚は容易に覆せない。癖は無意識に行われるから。

 

幸い我が家は合理主義の精神によって一汁一菜を主軸にできた。時間がないから、という理由で合理化をすると、癖は排除できる。これで数年間、おいしく健康に過ごせているので問題はない。

しかし、世の中ではそうではないらしい。一汁一菜を勧めるとたいてい、毎日同じものを食べたくない、と言われる。味噌汁は毎日同じように作っても、微妙な差異が出るものだが、消費社会は小さな差異を潰して大きな差異を消費するものである。消費者にとって満足できないのも理解できる。

 

一汁一菜でよいのに、なぜ私は改めて和食をやりたがっているのか。妻氏の実家の異文化を知りたいのが一つ、単に技術を高めたいのがもう一つ、だろうか。

前者はわかりやすい。妻氏のほうがすぐれた文化資本を持っているようにみえるので*1、それを私も継受したいという話。後者は趣味の問題。私はたぶん料理が好きなのである。これまでブログにも食の話ばかり書いてきたことからも明らか。趣味として、和食をやろうとしているのだろう。

近況

先週日曜日に広島での結婚式から帰ってきて翌日を休みにした。週報とアシスタント作業をしていた。火曜日には会社で健康診断。昼前までの絶食がきつかった。そのまま夕方まで仕事をした。

水木は在宅勤務をして実装をがんばっていたと思う。空いた時間にはアシスタント作業をしていた。金曜日朝が関西コミティア新刊の締切りだった。アシスタント作業は水曜日に終わらせて、木曜日は雑務サポートをしていた。

なんとか徹夜をせずに本ができた。高速に同人誌が刷られてもう家に届いている。半分はイベント会場に着弾したはず。明日、19日の関西コミティアで頒布をする。台風でどうなるかな、と思っていたが開催はするようだ。珍しく京都での開催なので帰れるとは思う。

金曜日も出社。サブ業務をうおーっとやっていた。19時までがんばったが片付かずに退勤。来週なんとかしないといけない。この頃業務での書き物の量が増えており、自作アウトラインプロセッサが活躍している。

土曜日は妻氏の実家へ。遺品回収の立ち会いをしていた。故人には工作趣味があったようで、謎の木工物体がたくさん引き取られていった。妻氏と一緒にPCサポートやSwitchBot人感センサーのセットアップをした。

今日は買い物と昼寝で終わった。ちょっと体調が悪くなってきており、イベントごとに弱いのを自覚する。明日、コミティアから帰ってきたらまた寝まくるであろう。

*1:ただし妻氏は料理がほとんどできない

週報 2022/09/11 広島・1.0mm製麺

この土日は旧友の結婚式で広島に遠征していた。土曜日に移動し、友人と酒を飲んで翌日挙式・披露宴に参加、そして帰ってきた。

思ったよりも広島は遠くて、移動だけで1時間半かかった。コロナ禍でぜんぜん実家に帰っていないので感覚を忘れていた。

スーツを持って移動する必要があり、けっこう疲れる。人と会うのも疲れる。イベントがあるとしばらく情報処理に時間をとられたので今日は休みにしている。

広島は道が広くて札幌みたい

キリスト教式の挙式には初めて参加した。儀式の手順はなんとなく知っていたが、結婚証明書にサインを書くのに驚いた。書面にサインをすることで、結婚という契約を西欧的に行っているわけだ。日本と違って型どおりの儀式をすればよいだけではない。結婚の契約性が前面に出ていておもしろかった。

結婚式や葬式の主催を経験していると、コスト計算をせずにはいられない。この生花がいっこ五千円、これは一万円かな……と試算しながら設備を眺め、花びらを投げた。

貝うますぎる

料理もよかった。こういう場でないとなかなか食べないものもある。洋風の料理も和風の料理もあったのだが、貝出汁のスープが好みだった。ステーキやキャビアよりも魚や貝。家でも和風の方向で料理をして技術を磨いてみたい。

平和大通りも緑がモサモサしていてよい

さて、先週は何をしたのだったか。

出社が増えてきた。様々なことがあり、在宅勤務から出社へとシフトしつつある。個人的にはあまり嫌ではない。運動不足の課題があったので。

ただ、感染リスクは高くなるので弁当を作るようにしている。ちょっと面倒ではあるが、我が家には具だくさん味噌汁を高速に作る技術があるので、弁当の用意は10分あればできる。long covidのリスクを背負い込むよりはマシと思って、続けている。

 

NASから異音がしている。小さめの鈴虫みたいな音。リーンリーン。最初はルーターや無線APかと思ったのだが、NASの電源を落としたら音が止んだ。

おそらくHDDの老朽化だろう。もう4年か5年使っているので壊れてもおかしくはない。しかし、S.M.A.R.Tの値やヘルスチェックには問題がないので放置している。放っておくと認知に乗らなくなるレベルの音なのでまあ別にいいや。

 

仕事が忙しい気味。一時的にタスクが増えていてあっぷあっぷしていた。今は収束しつつある、はず。珍しく長めの残業をして仕事を進めたのはいいものの、代償に茶碗を割ってしまった。やっぱり無理なので残業は1時間までにしておく。

 

私の日記は起きたできごとが時系列に書かれている異常な代物だったのだが、先日それをやめた。時系列順に思い出すのは負荷がかかるし、時系列にすべき、というルールもおかしい。なぜかわからないが、日記をやっているうちに時系列規範を身につけていたようだ。

規範は無意識に構築されるものがある。自然に出来たルールが自分を拘束するので、謎の規範に従っていないか、チェックして棚卸しをするとよい。

 

新しい製麺機を使ってみた。いつものようにスタンドミキサーで水回しをしたあと寝かせて圧延、切断。いつもと違うのは、パスタカッターの細さ。念願の1.0mm幅のカッターを手に入れた。

1.0mmの中華麺ができた

私はなぜか細麺が好きで、幼少期からそうめんを好んでいる。蕎麦も中華麺も細麺がいい。なかなか素麺以外の細麺は売られてないので自作する価値があるのだ。

パスタマシンはキッチンエイドのアタッチメントのものも持っていたのだが、自動で回転するローラーが怖いこと、北米から輸入した1.0mm幅カッターが壊れてしまったという理由で使わなくなった。

こうしてふつうのパスタマシンであるアトラス150を調達し、再び細麺が作れるようになったわけである。

スタンドミキサー水回し

新しい製麺機くん

なめらかな麺帯