エヴァは「不気味な他者」がテーマだった。親子喧嘩のシーンが核心。ゲンドウは他者が嫌いで彼には本とピアノしかなかった。漫画および地上波版でもゲンドウは他者とはわかり合えないと言っている。このポイントは一貫しており、昔から設定があったのだろう。
今回の映画でシンジは何を手に入れて変わったのだろうか。Qの終盤でシンジは大事な他者、カヲルくんを目の前で失った。そして黒波の死で何かを取り戻した。これは何だろうか。もしかすると、母からの愛なのかもしれない。綾波シリーズとして設計され仕組まれているとはいえ、レイは母=ユイに近い存在で無償の愛を与えてくれる。とはいえ、なぜそれでシンジは自らの弱さを認められるようになったのか。「自分の弱さを認める強さ」を得たからシンジはゲンドウに勝てたのだ。この点がまだ言語化しきれない。いや、そもそも愛とは「自分の弱さを認める強さ」と関係があるのかもしれない。ゲンドウを電車から下ろしたあと、シンジはアスカやカヲル、レイへ愛を与えて呪縛から解放し、現実世界に返していった。そして、シンジ自身も母の愛によって返された。
愛情は簡単に得られるものではない。無償の愛といえば親からの愛くらいのものだ*1。恋人の関係でもなかなか無償とはいかない。ただ、縁の遠い他人でもうっすらと愛情を与えることはある。社会生活における薄い愛情=相手を相手と認めること*2、これが連鎖して安定した社会を形作る。それが第三村の人々の開かれた態度だった*3。こうして村人との泥臭い生活により本来の役割を取り戻した黒波が、愛情の連鎖から外されたシンジを救出したのだ。自己愛を取り戻したシンジは、同じく連鎖から外れていたゲンドウに愛を与え解放した。
こう考えると、シンエヴァはTV版最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」にも繋がっていた。最終話では「ただ、お前は人に好かれることに慣れていないだけだ」「自分が嫌いな人は、他人を好きに、信頼するようになれないわ」という台詞がある。シンジは自己との対話で自己愛の可能性に気づいて「ここにいていいんだ」「おめでとう」に至った。シンエヴァでもこれと同様に母からの愛情によって自己愛を取り戻したと言える*4。
以上が私の解釈である。「不気味な他者」問題は愛による連鎖で解決される、それが庵野らの答えであった。
以下は私とエヴァの話である。なぜかエヴァを語るとだれもが「エヴァとわたしの人生」というテーマに脱線する。「不気味な他者」問題は万人が立ち向かうものだから仕方がないのかもしれない。
もともとシンエヴァを観にいくつもりはなかった。ところが、ネタバレ上等で感想を読んだら、映画が気になってしまったのだ。公開日以降ひたすらエヴァ情報を摂取している。自分で思っていた以上にエヴァへの思い入れがあったようだ。これは私が「不気味な他者」問題にもともと興味があったからだ。趣味で哲学をやっており、言葉と他者の問題を一生考え続けるものと覚悟している。
この映画に関わって得たものが二つある。消費者は描かれていないことを読みとること、他者問題への一つの答えが愛であるということ。後者は前述のとおり。前者はエヴァを語る人々を観察してわかったことだ。これはTV版エヴァ最終話でも言われているように、おのおのが主観の世界を生きているということだ。仕方がない。ひとは自分の人生に近づけて物語・言葉を解釈する*5。妻は同人誌を描いて質問箱のようなものを運用していたのだが、ここでも同じことが起きていた。描いたつもりのないエピソードへの感想が来るのだ。それもたくさん。だから逆に人々の感想をみると彼らの人生が見えるのだ。それがおもしろい。エヴァは人間の根本問題を扱うため、触れると自分の人生を語ることになる。それがこの作品の懐の深さでありおもしろさだと思う。