しゅみは人間の分析です

いらんことばかり考えます

週報 2024/07/14 仕事場みたいな家なんですよ

7/6(土)

コーヒー豆を買いにいったら100g単価が200円くらい値上がりしてるのに気づいた。前は500円で買えたブレンドが700円〜になっている。いつも二種類を200gずつ買うのだが、前なら三千円だったお会計が四千円に。円安のせいでもあるだろうし、そもそもカカオとかオリーブオイルなどの舶来品が軒並み高くなっている異常気象の話がある。しばらくはこのまま下がらないのだろう。今年も世界的に暑いだろうし、しばらく農産物の値段は落ちつかなさそうだ。農業は土地と結びついているから大変だ。商業的に成り立つ樹木を育てるのに何年もかかるのに、気候変動で栽培適地が移動してしまう。ままならんことだ。

🌶️🌶️🌶️

ベランダの唐辛子を収穫してみた。追肥を忘れていて成長が滞ってしまった唐辛子くん。さてお味は。

唐辛子がなってると便利

オイルソースのパスタにしてみたところ、なんだか皮が硬い。食べられないことはないが噛みにくくて万願寺とうがらしや甘唐辛子系とは似ても似つかぬ食感である。なるほど素人が育ててしかも世話に失敗*1しているとなると、こんなふうに微妙な野菜ができるのだろう。しかも辛みがあんまりない。韓国唐辛子とはいえもうちょっと辛くないと。
とりあえず追肥やら活力液は与えてみた。今後挽回できるのやら。

7/7(日)

姉が京都にやってきたので迎撃。食事をして雑談をした。何年ぶりか覚えてないがだいぶ会っていないと思う。相変わらずノリが軽いというか、話題がぽんぽん変わる人だった。なぜこうも姉弟で性格が違うのか。しかしどこか似ている、共通点と呼べるようなところもあって不思議だ。突発的な行動を好んだり。束縛を嫌って自由にやるのが好きだったり。

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アファンタジアが遺伝性のものなのか気になって姉の所作、趣味、性格を観察していたのだが、どう考えてもビジュアルシンカーとしか思えなかった。ブルーボトルコーヒーに売られているボトルの柄を「かわいい」と言ったり、村上隆の個展を見にいったりする。ネイルもばっちり。写真を撮るのも好きなのだそうな。アファンタジアではないだろう。となると、私に特異的な性質なのかも。謎は深まる。

🥬🥬🥬

家に帰ったらパンを捏ねて焼いた。一次発酵が終わった生地を丸めて型に詰めるだけなのだが、私の手がでかいために作業が効率的なのを妻氏に羨ましがられた。パン生地というのはもちもちふにふにしていて、生地は簡単に変形してしまう。パン捏ね台から型へ移すときに手が小さいと生地が手から溢れて垂れてしまうのだが、私の手だと両手に収まって垂れずに済んだ、という背景。なるほどパン屋では手が大きいほうが有利、という話はありそうだ。もしかしたら寿司屋とかピザ屋さんもそうかも。ピアノ演奏は言わずもがな。

よい出来になったらしい

思わぬところで適所が見つかったので、今後もパン捏ね担当を拝命するのだと思う。

7/8(月)

同僚にVision Proを体験してもらいながら、モルモットやスナネズミの動画を見せてみた。空間ビデオという3D撮影したものを鑑賞できるコンテンツ。このビデオに映った我が家を見た同僚は「仕事場みたいな家ですね」と感想を述べていた。仕事場みたいな家なんですよ。

☕️☕️☕️

姉はパワフルというか、不定愁訴とかなさそうだな、と思った。夏はビール。コーヒーを飲むならアイス。冷え性には信じられない行動様式だった。オフィスワーカーの不健康さを思い知る。

7/9(火)

たまに換気扇が止まったままになってアラート(800ppm閾値)がなる

ラズパイが届いたのでCO2濃度監視システムを完成させて運用し始めた。自作のプログラムをmackerelから呼び出して毎分のCO2濃度をサーバーにあげておく。mackerelとは、はてな社のサーバー監視システムだと思ってもらえればよろしい。ここに時系列データを入れて移動平均で800を超えたらメールやらSlackに通知する。無料プランだと過去のデータは一日ぶんしか見られないが、我が家に必要なのはアラートと傾向の把握なのでmackerelでじゅうぶんなのである。

弱くてかわいい計算機

ラズパイは予定どおりよわよわCPUとメモリの計算機なのだが、思ったよりも弱くてびっくりした。M2のMacBook Airだと一秒もかからないGoプログラムのビルドが30分経っても終わらなかった。それくらいAppleのプロセッサは強かったらしい。

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こうしてCO2濃度が監視できるようになったので、まずは自分を人柱にして実験をする。具体的には、換気扇を止めて実際にアラートが鳴るのを確かめる。まずは800ppmの警告のチェック。部屋を締め切ってふつうに過ごしているだけでぐんぐん数値が上昇していき簡単に800ppmを超えた。どうやら二人いると10分で50ppm上がるようである。人がいないときは400ppmくらいなので、2時間もあれば危険な濃度に達する。換気扇は止めちゃいけないし、常時換気の穴は閉じたらダメなのがよくわかった。

結局1000ppm近くまで上昇するのを見届けてから換気をした。頭が痛くて本当に人柱になっていた。

7/10(水)

同僚の子がなんでも口に入れるという話から、自分が磁石を食べたことがあるような気がしているのを思い出した。なにぶん幼少期のことなので記憶は曖昧なのだが、食べたような気がしなくもない。食べてないかもしれない。どのみち排出はされていると思うのだが、もしかしたら身体のどこかに残っているかも……。

もしMRIを撮ることになって、お腹が痛くなったらあたりである。

💥💥💥

今週はめちゃくちゃ忙しい。というかただでさえ忙しいのに毎日新しいトラブルが起きていた。運が悪いので祇園祭か何かで禊いだほうがいいのかもしれない。とりあえず厄除けの粽は交換する。

祇園祭が終わって夏が来る

7/11(木)

『呼吸の科学』を読んだ。ブルーバックス。かなり読みにくかった。まじめな研究者はサービスが悪く、文章が下手くそなことが我が家では知られている。

この本から「一回の呼吸を長くすると酸素の利用効率が良くなり、リラックスする」という知見が得られた。つまり深呼吸をするとリラックスできるという話。そんなん知っとるわ。エビデンス大好き人間には良いのかもしれないが、とにかく退屈な本だった。

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なんでこんなしょうもない本を読み切ってしまったのか自分でもよくわからないのだが、電子書籍ならためらわずに捨てられるのかもしれない。微妙かも知れない本は物理で家に置かないこと。ダメだとわかったらすぐにブックオフ行きの箱に入れること。

この本に限らないが、つまんない本(特に新書)はタイトルがダメだ。『AとB』『Zとは何か』みたいなありきたりで内容が何でも良いようなタイトル。

いい本のタイトルはちょっと変で目を引きやすい。『パン屋再襲撃』『月と六ペンス』『本が好き、悪口言うのはもっと好き』『読んでいない本について堂々と語る方法』などなど。何これ?となって記憶に残るしタイトルからユーモアも感じられる。

『追放されたチート付与魔術師は気ままなセカンドライフ謳歌する』みたいな長いタイトルも台頭してきている。もう十年以上前からライトノベルを中心に流行っていた傾向。それが当たり前になって、今や漫画でも長いタイトルがつけられる。しかし、ただ長いだけのタイトルは商品内容を説明して広告として機能しているだけである。そんなに記憶に残るわけでもユーモアが感じられるわけでもない。実際、この作品のファンは『チー付与』と略して呼んでいる。

そうではなく、ある程度の短さで「なにこれ?」と思えるような変なタイトルが良い。良いタイトルをつけるスキルは俳句とか短歌、キャッチコピー制作などのポエム的な能力に通じるものかもしれない。短い文字数で実現するほど高度になり、できる人は限られてくる。でも私は洗練された本を読みたいのだから、そこを狙って探すのが良いのだろう。

7/12(金)

仕事でコードレビューをされるとき「いちゃもんや!なおす必要ないもん!」と思ってしまうことがある。このとき、本当に自分の書いたものが正しくてなおす必要はないケースと、勘違いして間違っていることがある。間違っている場合は気づくまで説得されて直したらいいのだが、正しいケースが問題だ。正しいから直す必要がない。それはそうなのだが、真の問題は正しさが伝わってないところにある。つまり説明不足。

『職業としての小説家』に「けちをつけられた部分があれば、何はともあれ書き直そうぜ」という村上春樹の個人ルールが登場する*2。小説を書いて妻にレビューをしてもらって納得がいかない指摘が出てくる。そういうときに村上春樹は「とにかく指摘を受けた部分があれば、そこを頭から書き直す」ことにしている。そうすると、たいていその部分が前よりも改良されているのだそうな。「読んだ人がある部分について何かを指摘するとき、指摘の方向性はともかく、そこには何かしらの問題が含まれている」「その部分で小説の流れが、多かれ少なかれつっかえている」から。意図としては正しく書いているつもりなのに、それが伝わらないことがある。小説家もプログラマも、仕事のゴールは正しさが伝わるように書くことである。伝わらなければ意味がない。そのためにも「指摘があったらとりあえず直す」というルールが良いのだと思う。文章であれば書き直せばいいし、プログラミングだったら処理は変えずに変数の名前を変えたり、コメントを書いたりといった工夫ができる。コードを読むときにも「つっかえ」はあるものだから、それを取り除く作業をしてレビューを打ち返せば良いのである。

🐟🐟🐟

日本人の気質、文化を説明するのに「恥」の概念を使うことがよくあった。「あった」と過去形なのはもうかつての「恥」の概念が通用しなくなってきているから。恥という言葉は残っているし使われるけれども「国家の恥」「家の恥」「恥を知れ」という言い方はもうしない。昭和後期、平成生まれ以降の世代で使う人はほぼいないだろう。今の恥概念は道徳規範ではなく、単に「失敗して恥ずかしい」というような具体的な行為に対する後悔の念を込めて使われるものになっている。

なんでなくなったのかというと「恥」の概念が家規範とくっついてるから。「家の恥」「国家の恥」という用例からわかるように「恥」は家とか民族共同体、コミュニティへの帰属意識を前提にしている。「家」に対する「世間」からの評価を良くしておくよう常に気が配られていた。もちろん家規範は窮屈で抑圧的で、個人にとっては嫌なものだった。だから戦後数十年をかけて解体されてきた。その結果として「恥」の適用範囲は狭くなり、個人的な具体的行為にだけ向けられる言葉になった。

今の「恥」に相当する規範は「身内コミュニティからの評価、評判」に変わってきている。「世間」という感覚も薄れてきており、外野から何を言われようと身内からの評価が良ければそれでいい、という行動規範をとる人も多い。それがエコーチェンバーと呼ばれる現象だ。皆がそれぞれの「村」からの評価だけを気にするようになると、社会全体としての道徳レベルは下がるかもしれない。しかし、かといってかつての家規範を復活させるのはあり得ない。

 

代わりになる規範は何かないのか。一つ思いつくのは「態度」を重視する価値観。今やなんでもハラスメント扱いされるのは態度が大事だからである。日常的なコミュニケーションで威圧的に振る舞ったり、親しくない相手に感情をぶつけてはならない。態度が悪い人はいかに正しいことを言っていてもダメで、内容によらず態度だけで関係を壊すことができる。平等で態度が良い人が尊敬される社会になってきている。

問題があるとしたら、態度の良し悪しの評価には相性が入ってくること。生まれもった性格(脳の配線)と育ちによってどの態度が不快に感じるかは変わってくる。性格上の相性じゃんけんによって、ある人にとって態度の悪い人が一定の支持を集めることは自然な現象であり否定してもしょうがない。また、家規範衰退の反動として抑圧的な人が支持を集めてしまうこともあるかもしれない。まだ次世代の共通基盤となる価値観は存在しておらず、当座のところ人々の性格の相性で決まってしまうものなのだ。

個人的には、気配りができて万人に態度が「まとも」な人が人気なほうが良いとは思う。しかしその価値観が少数派になる可能性も否定できず、ただそうなるよう祈ることしかできないのである。

リンク集

先週書くの忘れてたわね。

note.com

今週も更新されました。相変わらずおもしろい。

anond.hatelabo.jp

良増田

togetter.com

何これ……

www.apple.com

便利そうなのでこのバージョンで生活してますが戻れなくなることは知りませんでした

*1:一切追肥してない時期があった

*2:p.161