千葉雅也氏がサイゼリヤの「DG01と紙に書いて店員に渡す」注文方法を嘆いたら、多くの人が反発し、大論争になった。
千葉氏の愚痴の背景にある問題が哲学的におもしろい気がしたので、自分なりに整理してみる。
なぜこんなにも怒られているのか
サイゼリヤに対する愚痴の内容よりも、千葉氏の態度に怒っている人が多いと思う。なんか偉そうだから。
喧嘩は態度で起きる
私が妻と喧嘩をするといつも「あなたの態度が悪い」「その態度を引き起こしたのはあなたの態度である」という会話に終着する*1。
ムカつく態度をみて、こちらもムカつき、こちらの態度をみた相手がさらにムカつき、というループができる。
態度が気に入らないと、ロジックを使って相手の不正を暴こうとするが、言いたいことは「あなたの態度が悪い」「あの態度が気に入らなかった」である。人間は、感情を合理化するために詭弁を弄するのだ。
態度とは、人間の動物的な部分である。非言語で伝わり無意識に働きかける情報。どんなに理性的なつもりでも、非言語情報でひとは動揺する。
千葉氏はTwitterで「偉そう」にしている
千葉氏の「偉そう」な態度は昔から一貫していて、私も「説教くさいな」と思ったことはある。素なのか演技が入っているのかはわからない。おそらく「わざと」やってるところもある。
千葉氏は対談で紳士的にふるまうし「勉強の哲学」や「現代思想入門」は、読者の読みやすさへの気遣いに溢れている。読みやすくなるようサービスをしているから本がよく売れているのだ。
なのに、Twitterでは「偉そう」にしている。Twitterは彼の「哲学的日記」でもあるらしい。エッセイにカテゴライズするのが適切だろう。彼の小説・エッセイにも「偉そう」「気取った」モードが見られるので、Twitterの文体が「偉そう」にしてあるのだろう。
千葉氏のTwitterモードの態度に煽られて冷静でいられなくなる人はブロック・ミュートをしたほうがいい。あなたにはその自由がある。
あるいは、炎上したネタをリツイートしまくる人をミュートするのもありだ。あなたのタイムラインに不快になるツイートを流しているのは、リツイートしまくっている人である。
7万人もフォロワーがいて、愚痴を言うのが問題なのではない。Twitterのリツイート機能が根本的な問題である。
何を言っているのかわからない怖さ
愚痴なのはわかるが、何を言っているのかわからない、と思った人も多いだろう。わからなくて「もやもや」する、不安になる、という心情も理解はできる。「何事もわかりやすく説明せよ」という時代である。
彼のTwitterは哲学的日記帳でもあるので、わかりにくいのも仕方がない。「フォロワーが多い教授さまはわかりやすく説明すべきだ!」というのもナンセンスである。
さて、では何を言っていたのだろうか?ここからが本題である。以下に書くのは私の解釈であり、客観的な「真実」ではない。
私の解釈を読んでも納得できない場合は自分で考えてほしい。わからなさにケリをつけるのは本人の納得の問題である。各人がどこまで粘るかにかかっている。
「料理の名前をなくすと食事体験を味気なくなる」問題
このツイートの説明がわかりやすい。
というか、言葉が何を触発するかという問題じゃないですか。クオリアの問題というか。「ディアボロ風」って何だろうという知的な刺激とか、それが過去の記憶と結びつく効果とか、食べ物を食べる前から食べる経験が始まっている。プルーストがマドレーヌを番号で注文するだろうか。
— Mineo Takamura・髙村峰生 (@mineotakamura) 2022年7月6日
あるいはある味覚への期待が、注文の瞬間から始まっているという、それを声に出して発音するということが身体的なプラクティスであるという、そういうことも含めてですよね。それが全てユニバーサルな「便利さ」で置換可能なんですかね。
— Mineo Takamura・髙村峰生 (@mineotakamura) 2022年7月6日
言葉は記号と意味でできている。記号が対象=料理そのものを示せていたら、記号は何でもいいのだろうか?
たしかに記号化で意味は失われている
例えば、「DG01」はミラノ風ドリアなのだが、「ミラノ」「風」「ドリア」という語の連なりが与えるイメージは「DG01」では失われている。「DG01」と聴いただけでミラノ風ドリアと同じイメージは想起できない。
ミラノはイタリアの地名で固有名詞だし、ドリアは料理のカテゴリーである。どの語も連綿と受け継がれてきた意味があり、ミラノにはミラノのイメージ、ドリアにはドリアのイメージがある。
われわれは「DG01」以前からサイゼリヤを利用しているので、「DG01」=ミラノ風ドリアという変換ができる。だからサイゼリヤの常連にとって、ミラノ風ドリアのイメージが劇的に失われているわけではない。
しかし、今後初めてサイゼリヤを利用する人はメニューの名前を覚えるだろうか?
発音しなくても注文できるし、紙に「DG01」と書けば料理が出てくるのだ。覚えない、名前を認識しないまま食べる人も出てくるだろう。「DG01」以降の世代にとって、目の前のドリアはミラノ風ドリアではなく「なんかおいしい食べもの」「あれ」になる*2。
料理に付随する情報を食べている
ラーメン発見伝という漫画に「ラーメンではなく情報を食べている」という台詞がある。情報とは言葉と結びつく脳内のイメージのことである。漫画の内容に即して言うと、鮎の煮干しを使った「淡口らあめん」に付随する繊細な味のイメージ。
この漫画で芹沢さんは「ラードをたくさん入れているのに、バカな客たちは鮎の風味が残っていると言っている」と批判する。こうして「ラーメンではなく情報を食べている」につながる。
実際にわれわれは料理だけではなく情報を食べている。
例えば京野菜。聖護院大根という京都特産の大根があるのだが、見た目はただの大根である。切って煮付けにされたらプロ以外区別できないだろう。京野菜の聖護院大根ですよ、というラベルをつけられ、京野菜のブランドイメージが伴ってはじめて価値が生じるのだ。われわれは明らかに情報を消費している。
食品業界は名前に凝っている
コンビニ各社も料理の名前を大事にしている。例えばセブンイレブンの「お出汁の効いたきつねうどん」や「完熟トマトソースと牛肉の旨味のミートパスタ」。
20年前ならただの「きつねうどん」「ミートソースパスタ」だった名前が、なぜか過剰な説明がついている。こうすると売れるのだろう。コンビニの商品名はどんどん説明的になっている。
個人的には嫌いな風潮である。説明的な名前には品がない。私は自分で「きつねうどん」をイメージしたい。厚かましい説明はいらない。こうした命名は、私が自由にイメージするのを邪魔している。
もしかすると、人々はイメージした味と実際の味が違うことが怖いのかもしれない。失敗をしたくない、なにがなんでもリスクを避けたい、という人が多くなっている。料理という商品を買うのに失敗したくないのである。
サイゼリヤもイタリア文化を印象づけるために「ミラノ風」をつけている。「DG01」だけ覚えておけばよいとなったとき、せっかく投資してきたブランドイメージは失われる。
料理の名前をなくすことは食事体験を損ねる
料理の名前が大事なのだから、名前をしゃべって伝える体験も大事である。引用したツイートにもあるように、発話に食事という快楽への期待が込められる。
ミラノ風ドリアを「DG01」にする施策、発話させないことは、食べる人がイメージする余地を奪っている。しかも皮肉なことに、サイゼリヤの料理が魅力的であるほど食事体験が損なわれるのだ。
食事体験の質として名前や発話を問題にするかどうかは個人の価値観ではあるが、質が落ちていることは事実である。なので、体験が悪くなったことについて愚痴を言うのも自然であろう。
言語が消滅する前に
コンビニの商品名からもわかるように、言葉は過剰装飾になり、われわれがイメージをする余地は減ってきている。サイゼリヤでは「ミラノ風ドリア」と発話し、食事の予感を楽しむことができなくなっている。
言葉の意味、言葉が与えるイメージは希薄化しており、特にSNSで顕著だ。SNSで気軽に罵倒する人たちは、言葉が与える意味を理解していない。この問題を千葉氏は昔から批判しており、「言語が消滅する前に」という本も著している。
以上のような背景があのツイートから読みとれないのも無理はない。私もこのテキストを書いているうちに理解したところがある。それほどまでに言語とは複雑で不思議なものなのだ。
「店員をどれくらい人間扱いするか」問題
こちらはよくある話で、大企業システムに組み込まれた店員をどれくらい人間扱いするか、という問題だ。飲食店だけでなく、コンビニやUberEatsなどにも適用できる。
この問題は100年以上の歴史があり、産業革命以降ずっと問題になっている。人間を道具と見做すな、替えの効く歯車になりたくない、というやつだ。現代的な例としては「アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した」という本もある。
現代でも「クリエイティブ」な職、あるいはフリーランスになりたがる人は多い。今でも「社会の歯車」を毛嫌いする風潮はある。
システムのなかの労働者
企業が労働者を搾取するだけでなく、消費者も店員に対してきつくあたることがある。店員に暴力をふるったり、高圧的にふるまう人はよくいるだろう。
注文をとって料理を運んできてくれるフロアスタッフは、サイゼリヤというシステムの「部品」とみなせる。ぶっきらぼうに接して命令口調で注文し、「おそろいでしょうか」を無視することもできる。
たいていの人はそれなりに礼儀をもって接すると思う。しかし、彼ら店員がシステムの一部である限り、彼らが人間扱いされない可能性は残るのだ。
もし個人のお店ならば、より対等な取引ができる。「あなたは客ではないので出ていってくれ」と店主の判断で追い出すことができる。
しかし、雇われた労働者に追い出す権利があるかどうか、微妙である。サイゼリヤという店は店長の所有物ではなく、企業の所有物である。この権限の差異をついて、増長する消費者はいるのである。
人間扱いのレベル
ところで人間扱いってなんだろうか。一口に人間扱いといっても、ゼロイチではなくグラデーションがあると思われる。例えばこんな感じ。
- Tier 1 親しい人間としての扱い、家族や友人
- Tier 2 仕事上の付き合いとしてそれなりに尊重する扱い、同僚や取引先
- Tier 3 どうでもいい人、見知らぬ人、通行人
- Tier 4 敵、人権を認めない、無視する。差別はここの問題
目の前の人間をどのレベルで扱うのか、自明な解はない。文化によっても違う。
例えばフランスや大阪だと公園や電車内で知らない人と喋ることがある。知らない人をTier 2に近い扱いをする。
店員がいちばん揺らぐところで、多くの人はTier 3に入れるだろう。システムの一部として、コミュニケーションをする必要のない相手。「店員に認知されたから常連をやめる」という話も聞く。自分が店員にとってTier 3でなければ耐えられない人もいるようだ。
私は信念をもって店員をTier 2に入れる。その場限りだとしても取引をしている働いてもらっているから。ただ、疲れているとTier 3になることもある。疲れ具合とか、精神的な余裕で扱いは変わってくるのは仕方がない。
横柄な客は店員をTier 4に入れている。暴力をふるってもよいと判断するとき、ひとは相手を人間扱いしていない。
サイゼリヤの今の注文方法でも、紙を渡しつつTier 2の対応をすることは可能だ。とはいえ、Tier 3ないしTier 4の扱いに転落しやすくはなるだろう。よりシステムらしくなっており、たしかにこの点で批判は可能である。
まとめ
千葉氏の愚痴の背景を分析したら「言語の意味の希薄化」「疎外の深刻化」が浮かびあがってきた。今回、千葉氏は直接的にこの問題を主張したわけではないが、前者は著書でたびたび取りあげている問題だし、後者は誰でも知っている問題だ。
多くの人はただサイゼリヤは善であるという規範を内面化し、千葉氏の愚痴、および態度に反発しただけであろう。上記の内容に興味がある人が少ないことは承知している。
もし、これらの問題に興味があるならば本を読むことを勧める。Twitterが言論の場で云々と言う人はいるが、SNSはただの情報伝達の道具である。あそこで有意義な議論ができないことはここ数年の炎上騒動でも明らかだろう。本を読みましょう。
2023/12追記
「本来は店が負担する労働=注文管理を客に押しつけるのはサービスの劣化である」という論点もある。
「人が足りないのだから仕方ないだろう」と言う人もあるが、以前はしなくてよかった労働を押しつけられているのだから「サービスが劣化した」と主張するのは正当である。
サイゼリヤが紙に書かせているのはまだマシなほうで、使いにくい不出来なアプリに入力させる店もある。労働の押しつけをするにしても、もっとマシなやり方がある、という話にもできるだろう。