しゅみは人間の分析です

いらんことばかり考えます

週報 2023/06/11 「あとで読む」タブが光ってそのうち消えてほしい、チャットにノイズを入れたい

6/3(土)サイゼリヤが有名になってしまった

ハンズでパン型を買いキャリーケースを物色した。

キャリーケースは同人イベントの搬入搬出のために探している。イベントで売れ残った本を搬出するには「宅配便を使う」「手で持って帰る」選択肢がある。女性向けの同人イベントは売れ残りを嫌って、小部数しか刷らない風潮があるが、我々はせっかく来てくれた人に売るべき新刊がない状況は避けるべきだと考えている。だから必ず在庫が残るのだが、宅配搬出はそれなりに輸送費がかかるし日によっては宅配便窓口に長蛇の列ができる。そこで巨大なキャリーケースを使って搬出をしたら便利ではないかと考えたわけだ。

良さそうな製品はあったものの、同人誌を傷つけずに入れられるかわからなくなって、その日は一旦買わないでおいた。

 

ついでにサイゼリヤで食べて帰った。京都市営地下鉄四条駅の南側と繋がっている店で、最近いつも混んでいる。この日も20時なのに待ちが発生していた。

入ってみると店内がやかましい。ほとんど満席でみんな大声で喋っているので、騒音と言って良いレベルになっていた。

この店だけそうなのかもしれないが、サイゼリヤはもうだめだなぁと思った。サイゼリヤが広告を打っていないおかげだったのか、コロナ禍前はそれほど混むこともなくゆっくりできるお店だった。それがだんだんと有名になっておしゃべりをするのも困難な環境に変わったのだろう。

インターネットの人たちがサイゼリヤについてくだらない議論をした結果かもしれない。

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室町通りにスマホを横向きにして操作しながら歩いている女性がいた。何のゲームをしているのかなと思ってすれ違う時にチラ見したら麻雀だった。歩きながら麻雀を打つなんてよっぽどハマっているのだろうか。

6/4(日)

ほとんど引きこもっていてゼルダと製パン、製麺をしていた。

私も朝にパンを食べるようになったので、我が家のパン消費量が2倍になってしまった。パンは生活に余裕がある限り自作する。うまいので。

この日初めて2倍量のパンを作った。全部で1kgぐらいの生地になり「どうやって捏ねるんだよ」と言いながらなんとか完成させた。

 

うどんも作った。平日の一汁一菜をやるのに米が足りなくなったときのためのものである。というかだいたい足りなくなる。うどんは一汁一菜ではないが、一汁一菜と同じ技術で調理できるので我が家ではまじめに区別していない。

鍋炊きにしても炊飯は面倒なところがあり、週に一度5合だけ炊いている。まとめて炊いたごはんを夕食と弁当に使っているので、どこかのタイミングでうどんを食べざるを得なくなる。うどんは市販の袋入りのものを使っていたが、引っ越しが落ち着いたタイミングで自家製麺に切り替えた。うまいので。

この日作ったうどんは麺帯を分厚くしすぎて妻氏から不評だった。コシがあって分厚いと噛むのがたいへん。

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スーパーでうちわが売られていた。模様がかわいいからといって妻氏が買った。

6/5(月)

深夜、なぜか眠れなくなって3時まで起きていた。業務の集中力はひどいことになる。
あまりに眠れないのでパンこね技術を調べる。我が家のスタンドミキサーで効率よくパンを作るにはどうしたらいいのか?が気になって。パン屋のYouTube動画を見つけて参考にした。

パン屋さんチャンネルは最初の動画でただパン生地をこねるだけの動画をアップロードしていた。とても参考になる。しかし数回後は顔を出してライフハックや持論を述べるチャンネルに変容していった。今もポエムをアップロードし続けている。

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仕事中、偉い人と雑談をしていたら、うっかりインターネットのノリで返してしまった。

「〜ということがあってね。〜しようと思うんだ」「いい話」「いい話じゃないよ!?」

いい話なんですよ。

6/6(火)自由の後退

業務でおしゃべりをしていて新人さんの間の格差が開いているみたいな話になった。

そのときは「近年特に格差がある」みたいなトーンで話したが、そうではなく昔からそうだったかもしれない。最初から自律的に仕事をして「泳げる」人もいるし、丁寧に「泳ぎかた」を教えてもらわないといけない人もいる。格差があるかないかみたいな話だと30年前でも50年前でも格差自体はあるのだと思う。程度が変わったかどうかはよくわからない。

自律性があるかどうかは自由に対する感覚の違いが原因なのだと思う。弊部署はちょっとしたミスをしても全然怒らないし、「どんどん自由にやって自分で泳いで仕事をしてくれ」という雰囲気がある。しかしいつの時代も保守的で好き勝手にやらない人はいる。こういう人たちは、怒られてきた経験が多く自由な行動をしようと思ってもブレーキがかかってしまうのかもしれない。どれくらい怒られてきたかによって自由の線引きが変わってくる。

私や知人たちはアナーキストに近いところまで行っていて、「民主主義社会において個人は法の範囲において自由なのだから、ルールと倫理を守れば何をしても良い。「常識」も不合理であれば無視して良い」くらいに思っている。

 

『言語が消滅する前に』で言われていたように社会が抑圧的になっているのは気になる。もしかしたら個人の自由の線は後退しているのかもしれない。それは主観的な線引きなのだが。

6/7(水)能力を補う道具には価値がある

早めに退勤してインド・ネパール方式のカレーを食べた。インネパカレーはどこに行っても同じだなと思った。ナンがでかすぎる。

その後ジムで運動をする。妻氏はジムでダンスとかヨガ、ストレッチをする。私はトレッドミルに転がされたり筋トレをする。汗をかいてすっきりした。

ジムは平日に行くのが良いのだろう。引きこもりな我々はどうしても土日に行く気にならない。読書も漫画制作も体力が大事である。労働と生活をしているだけでどんどん衰えていくのでなんとか体力を維持したい。

おかわりナン?

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Appleのヘッドマウントディスプレイ(HMD)の動画を見てちょっと欲しくなった。単に新しいから惹かれるのではなく、具体的で切実な要求がある。

私はアファンタジアとして、イメージをする能力には若干のコンプレックスを持っている。妻氏のように「画像を覚えて脳内メモリに保持できたら便利だろうなぁ」と思うことは度々ある。もちろん妻氏の画像記憶能力は飛び抜けたものであり、普通はそうではないことは承知しているが。

私は一日中メモ帳を触っている。空間ディスプレイにメモ帳が出ていると便利そうだ。Bluetoothのキーボードを接続しさえすればいつでも日記がかけるだろう。また読書メモをつけるのにも重宝しそう。あれをかぶったまま外の世界の本が読めるのかどうかは知らない。さらに料理にも使いたい。私はレシピの手順や調味料の量を全く覚えられないので、妻氏に覚えてもらって聞きながら料理をすることがある。料理くらいならばHMDをかぶっていても作業ができるのではないか。

このように自分に足りない能力を補い増やしてくれるデバイスだと見ている。50万円もしてたいへん高価だが、もし上記の使い方ができるならば投資する価値がある。

6/8(木)日記の読み手

湿気で睡眠がダメになり、ヨボヨボ在宅勤務をしていた。

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kangaeruhito.jp

RSSリーダーを眺めていたら日記を読むおもしろさについての記事が流れてきた。考える人というメディアはなかなか良い記事が載るような気がする。

となれば、誰にも読まれない日記の文章がどんなものになるのか、小説の書き手としては大変興味深いのだ。

誰にも読まれない日記はない。日記は書きながら自分で読んでしまうものである。あとから読むことがなくても書くその時には読んでいる。

例えば私の高校生の頃の日記は、あとから読み返すことなんて想定していなかったが、日によって口調が違っている。中二病的な気取った言い方をすることもあった。そうやって口調を変えて書くと、自分の気持ちとかテンションが記されて気持ちよくなれる。

 

日記で大事なのは生きていることが表現されることだ、と思った。何を書いてもいいのだが、生きて生活しているありさまが残るとポイントが高いのではないか。日付がついていて日記が連なっているのはそれだけ生きていたことの証左である。

6/9(金)お花・植物・ねずみちゃん

疲れていて味噌汁弁当をサボった。
お昼は食堂でラーメンを食べる。喧騒の具合がちょうどよくてスープが冷めるまで本を読んでいた。

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昼にインターネットのもめ事をみたあと家に帰って日記を書きながら内省をしたところ、感情が強い人が苦手なのがわかってきた。特に怒りっぽい人。単に怒りっぽい人と自信がなくて防御的に怒る人がいる。

感情が強い人というのは必ずしも感情を表現する人ではない。大人はめんどくさいもので、強い感情を抱いていたとしても表現としては冷静で論理的っぽいガワを借りることがある。でも、ほとんどの場合、隠していても伝わる。頭に血が上っているかどうかは声のトーン、テンポを聴けばわかるものだ。

テキストにも現れる。理性では隠そうと思っていても、無意識に手が滑るのであろう。アファンタジアだからか、テキストの強い感情も苦手である。たぶん私はテキストへの実在感が強い。なので、インターネットではミュート・ブロックフィルタを多用している。

我が家では感情が(低く)安定した人間を好む。これらのタイプの人間のことを「お花・植物・ねずみちゃん」と呼んで重宝している。スナネズミには感情があるのかないのかよくわからない。何を考えているのか全くわからなくて、「これこそが他者だよなあ」と思って「お花・植物・ねずみちゃん」概念の一翼をになっていただいている。

non117.com

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花金だわーい、ということでワインをしこたま飲みながらゼルダをしていた。3時間くらい。

「あとで読む」タブが光ってそのうち消えてほしい

ゼルダに出てくるアイテムで使用期限が決まっているものがある。使い始めてから時間が経つとアイテムがピカピカ光って「そろそろ消えますよ」ということを示してくれる。ピカピカ光る周期がだんだん短くなって最終的に消滅する。

同じようにブラウザのタブも光りながらが消えてくれたら嬉しいなと思った。

インターネットをしていると後で読む記事がタブに溜まっていくものだが、気分が向かないとそのまま1週間以上放置される。旬が過ぎたものは読んでも意味がない。あとになってまとめて掃除をする。

例えば7日経ったらタブがピカピカ光り始めて欲しい。まだ気分が続いているならばその場で読んで閉じるだろう。10日後にもタブが生きていたら120Hzで明滅しながら消滅する。いや邪魔か。

チャットにノイズを入れたい

会話は相手の言ったことに対して間違えた返しをしても続いてしまうものである。

「談慶さん、実は私、こっそり商売しているのですよ」
 「え? どんな商売ですか?」(つられて私も小声になります)
 「私ねえ、『牛角』やってるんですよ」

 私は、何とこのとき、「牛角(ぎゅうかく)」という焼肉屋のチェーン店を、「遊郭(ゆうかく)」と聞き間違えてしまいました。
 したら、「え、遊郭ですか?」という私の問いかけに、何と向こうも、「ええそうです」とさらに聞き間違えたのです。

 以後、スゴイ会話が続きました……
立川談慶の「談論慶発」 聞き間違いは落語の基本|介護・福祉のけあサポ

来たボールに何かを打ち返したらそれで良い。真面目な議論でない限りは、怒られないしそのまま会話が続いていく。あらゆる会話を「真面目な議論」にしてしまう人は単におもんない奴だ。

雑談であれば脱線こそが会話をおもしろくさせる。聞き間違い、勘違い、本筋からずれた発言を拾ってそのまま会話を続けて盛り上がってしまう。

チャットだと脱線が難しくなる。言い間違いに相当する変換ミスは直されてしまうし、考える時間があるせいで勘違いやズレが起きにくくなってしまう。真面目な人だと「正しく返信しなくちゃ」と考えてしまってチャットはどうやってもおもしろくならない。

聞き間違い、勘違い、ズレはノイズである。会話にノイズが乗って情報が変化することでおしゃべりはおもしろくなるのだ。口頭だと勝手にノイズが乗ってしまう。しゃべった音は消えてしまうし、周囲の音で聞こえにくくなる。素早く返答を返すので人間の脳みそ処理の信頼性も下がる。会話はシャノンの情報伝送と違って頼りないものだ。間違いだらけ。その場のやりとりを積み重ねてなんとか意図を伝える。

だからチャットをおもしろくするためには変換ミスはそのままにしておいた方が良いし、勘違いして脱線したテキストもそのまま送ってしまった方が良い。チャットは伝送路の信頼性が高すぎるせいで、放っておくとつまらないことになるのだ。

『語学の天才まで1億光年』を読んだ

高野秀行という外国に行って変なことをするライターの本。コンゴUMAを探したり、ミャンマーの紛争地帯の村に入り込んでアヘン栽培を手伝ったりしてきた。アジアに独自の納豆があることを調べた本でも有名。

この人は探検と称してあちこちに出かける。探検をするには文明の行き届いてない辺境に行く必要があるので、メジャーな外国語ではなくマイナーなその土地の言語を学ぶ必要があった。コンゴでは植民地語のフランス語だけでなく、リンガラ語を学んだ。アヘン村へ行くためにタイ語、中国語、ビルマ語、ワ語を学んでいる。

しかし高野氏は語学が達者なわけではない。あくまで冒険のための道具として身につけているだけであり、必要がなくなったらすぐに忘れてしまう。コツコツ勉強するのも苦手なようで、言葉は現地で覚えるというスタンスも持っている。

 

おもしろかったのは言語にはそれぞれ独自のノリがあるという話だった。

例えば、タイ語は口を大きく開けて発音することがまず大事だ。それから音程は常に高め。タイ語ネイティブの会話は鳥のさえずりに聞こえる。そして話し方は、ひたすら柔らかく優しい。タイ人はマッチョを嫌い、上品な立ち振る舞いを好むから、女性はもちろん、男性もなよなよっとしている。だから繊細なガラス細工を扱うかのように優しくしゃべると、タイ語っぽくなる。私も、タイ語を話すときは思いっ切りなよなよする。(p.235)

これが言語のノリである。言語をネイティブらしくする所作のこと。以前私は言語に特有のリズムが大事だということを書いたことがある。リズムはノリの一部である。

ノリが身についていると文法や語彙の知識が不十分でもそれらしく伝わる。高野氏は初めてビルマ語を使ったとき日本人観光客を助けたのだが、その日本人夫妻は高野氏を日本語を勉強しているビルマ人学生だと勘違いしたそうだ。高野氏は発音は苦手だが、ノリを習得するのは得意そうである。ノリのものまねだけで未開の奥地に入り込んでしまう。

ノリは文法の外にあるものだ。文法書をめくっても付属のCDを聞いてもどんなノリで喋るかはわからない。ノリを身につけるにはネイティブがしゃべる様子を聞くのが一番である。高野氏おすすめの語学学習方法は、日本人の教師に文法を教えてもらってネイティブと喋って言語のノリを掴むことである。発音はネイティブの発言を録音して繰り返し聞く。今ならYouTubeでもよいだろう。

 

手練れのライターだけあって本文は読みやすくおもしろかったのだが、ちょっと高野氏の卑屈な語り口が気になった。私と性格が合わないだけかもしれない。