しゅみは人間の分析です

いらんことばかり考えます

2023年4月〜7月ふりかえり

引越し

4月末に引越しをした。
きっかけは些細なことだったが「そういえば家が狭かった」と気づいて決行した。4日くらいで決めて3週間後には住所が変わった。

新居には満足している。賃貸なのになぜかペアガラスが入っていて、外が38℃でもリビングは30℃までしか上がらない。エアコンの効きもよい。
間取りはちょっと、というかかなり変。リビングに巨大なキッチンがあって、あとは寝室と納屋だけ。一般的には使いにくい間取りだが、我が家の価値観としては最高の家だった。
リビングはオフィスみたいになっている。妻氏と私の机が向かい合わせに置かれていて、横に本棚が三つ。ここで漫画を作る。リビングの端っこに畳マットとソファ、テレビなど。作業に疲れたら休めるようになっている。

 

引越しは大変だった。社会人になってから二回目の引越しなのだが、明らかに物が増えている。
家には「思い出」という名の整理してないだけのものが溢れている。昔の趣味の産物とか。こういうものは家を狭くするだけなので、見切りをつけて捨ててしまうことにした。おかげで趣味の棚卸しができて「自分の趣味は読書しかない」と方向性が定まった。

 

引っ越しの準備中、モルモットが体調を崩してたいへん心配した。我が家のモルモット氏が3月末から足底皮膚炎を患っており、病院へ連れていったら見識のない獣医に当たって合わない薬を出されてしまったのだ。モルモットへの抗生剤の投与は慎重に行うべきなのだが「一応獣医の言うことだし……」と思って素直に薬を与えたら体重が減ってしまった。結局、ケージの床材を変えたら足の怪我は完治したので通院は不要だった。

 

終わったあとも苦労は続く。ゴールデンウィークは東京コミティア、5月末は旧居の退去と関西コミティアの新刊づくり。1ヶ月くらいは生活が落ち着かぬまま原稿に追われる生活をしていた。そのせいか4月と5月は妻氏が怒りっぽくなったり、私の日記がつまらなくなったりしていた。

読書ペースがあがった

6月に入って生活が落ちつくと読書が捗るようになった。その頃は5日で1冊くらい読めていたので、週報で本を紹介するようにしてみた。その結果、読書に締切めいたものができてしまう。

それを2ヶ月続けたら読書習慣が確立された。今は締切が云々とか考えることなく暇を見つけたらとりあえず読んでいる。

新居には座るところが何種類かあり、てきとうに姿勢を変えながら本を読めるようになっている。読書には椅子の多様性が大事。

 

読書メーターも再開した。私がインターネットに求めるのは読書仲間である。本ばかり読む人がどんな本を読むのか、この世にどんなおもしろそうな本があるのか、それだけが知りたい。それ以外の交流は求めないので、読書ログに特化した読書メーターがよい、という判断になった。

 

4ヶ月間で読んだのは21冊。良かったのは以下の6冊だった。

日記スタイルの変化

日記にも変化があった。

6月のある日、デイリーポータルZウェブマスターの林さんがブログを更新するようになった。

林さんの日記を読んでいたら、一日のなかの話題が「---」で区切られているのを見つける。
これは日記を書く人にしかわからないと思うのだが、日記で複数の話題を混在させるのは、けっこう難しいのだ。素直にh2, h3タグを使えば話題を分けられるのだが、h2, h3を使うと見出しがいる。日常の出来事に見出しをつけるなんて日記らしくない。日常の話題はそんな大袈裟なものではないのだ。

 

「---」のおかげで日記になんでも書けるようになった。些細な違いだが、文章の段落分けが変わると書ける内容も変わってくる。ほどよい区切り文字があるだけで、日記は自由になった。

ただ「---」だと少々視認性が悪い。区切りであることをわかりやすくするために、私の日記では「🐟🐟🐟」みたいな絵文字による区切りを入れることにした。賑やかになって楽しい。

料理

相変わらず一汁一菜をやっているが、妻氏が大残業をしがちでリズムが乱れている。さいきんは気にせず一人分だけ作るようになったが。

🐟🐟🐟

『パスタでたどるイタリア史』を読んでフランスの一汁一菜を再発見した。記事にしたらたくさんアクセスがあった。スマートニュースにも載っていたらしい。

🐟🐟🐟

パン作りはずっと続いている。もう三年くらい。ついにニーダーも買ってしまった。パンを捏ねるための半業務用の機械である。
製麺はたまに。土日に暇があったら作る程度。

価値観の変化

7月に価値観が少し変わった。
きっかけはチームリーダーの同僚から詰問を受けたこと。

その同僚は、仕事はできるがはっきりものを言わない人である。「(誰に言うともなく)xxしてください」とか「(理由を言わずに)ooをします」みたいなことを言う。ふつうは曖昧な物言いを聞いたとき「裏にはこういう意味があるに違いない」と察してあげるものだが、私は「仕事なんだから明に言われてないことを読むべきではない」と思って曖昧な要求を「無視」し続けてしまった。

そのうち仲裁にやってきた上司と面談をする。上司としては「曖昧に言って察してもらうのではなく、はっきり要求すべき」という立場なので、私の態度に問題はなかった。だが、同僚が私に何かを要求していること自体は明白だったので「わからないままやってみてから考えるのはどうか」と言われた。

「わからないままやってみる」なんて無茶振りではある。上司も難易度の高いスキルだとはわかっていて「できると強いよね」という調子でアドバイスをしてくれた。ふつうは同僚から詰められたら嫌って相手をしなくなるものだが、私は窮地に立たされたら「ここで何か拾えるものがあるかも」と思ってしまう。

同僚は私に対して「ちゃんとやってほしい」と要求していることを上司経由で聞いた。具体的に何をしろと言われているのかはわからないが、その人は自分の理想的な行動をしているのだろう。なので「とりあえず真似をしてみる」ことで要求に応えられるのではないか、と考えた。

これが正解だった。最初のうちは真似した行為の意味がわからなかったのだが、経験が溜まると自分で言語化できるようになった。次第に同僚からの評価も良くなってくる。

 

私がしていたのは「守破離」みたいなものである。「守」の段階では何も考えずにとりあえず型を守ってみる。型を身につけあとに自分で考えて型を破る。これは日本の古くさい価値観で「とりあえず三年勤めてみたら」みたいなものだ。現代的な価値観の人にとってこんな嫌なものはないだろう。しかし「行動して体験してみない限り理解できない」ことは確かにある。例えば言語習得。言葉の意味について説明されるのを待っていたら、幼児は一生喋れないままである。

なぜ守破離が合理的なのか。結局のところ、人は自分で理解するしかないからである。待っていても説明は出てこないことのほうが多いので、真似で取りこんだあとに自分なりの意味づけをするしかない。もちろん素晴らしい指導者による解説が聞けるなら聞けばいいが、そんな場は多くないので真似たほうが速いのである。

妻氏の母校の音楽教師の名言

どれくらい私の価値観が変わっているかを説明するよい例がある。6月の週報で「価値観のアップデートの困難さ」を論じていた文章がある。

仮に大事な価値観を打ち明けたとしても、価値観についての説明を聞いただけでは自分のものにすることはできない。分かった気になって終わる。また、そもそも価値観を言語にするのは難しい。
行動だけ真似したら「最新の価値観」が身につく可能性はあるが、「なぜそうするのか?」がわからない行動を真似られる人は少ない。自己啓発みたいに具体的行動と考え方が明示されていても、日々の行動を変えるのは難しいのだ。生半可な覚悟では行動は変えられない。

https://non117.com/entry/2023/06/18/153331

この議論の趣旨は今も有効だと思うのだが*1、ここで私は「「なぜそうするのか?」がわからない行動を真似られる人は少ない」と書いてしまっている。

今はそうは思わない。「なぜそうするのか?」はどうでもいいから、有用そうならとりあえず真似てしまえばいいのである。

*1:価値観を得るのに真似が有効だとしても行動を変えられる人は少ない