8/12(土)東京遠征、モルモットの性格の違いはどこから来るのか
コミケ東京遠征の日。週報をほぼ完成させ、モルモットにたくさんの🫑、チモシーを与えて家を出た。新幹線で東京へ行く。
東京駅についたら荷物を置いて山手線の某駅で降りた。友人宅を目指す。
いつ東京に来ても思うのだが、東京の道路は東京としか言いようのない雰囲気がある。大阪にも京都にも、私の地元にもない雰囲気。地価の高さからくる家の小ささ、道路の狭さ、なのだろうか。あと商店街が栄えている。どの駅に行っても商店街があることに驚く。
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友人宅で二匹のモルモットたちにご挨拶をした。初めてお目にかかる。二匹のモル様はどちらもうちのモルモットと性格が違っていておもしろい。片方は態度がでかくて凶暴そう。すぐにケージを囓ってアピールする。もう片方はモルモットらしい臆病な性格。なのに好物の餌を見つけたら猪(鼠)突猛進。餌を拾うのに邪魔な囓り木があれば咥えて放り投げる。臆病なのに大きな音が出ても気にしない。どこか矛盾を感じるモルモットである。
なんで彼らは脳が小さいのに性格が違ってくるのか。性格の違いは高等動物だけでなく、モルモット、スナネズミみたいな小さな動物にもある。彼ら齧歯類の脳はシンプルで容積が少ない。あまり複雑な処理はできないはずなのだ。
小動物の脳は判断よりも認識に使う部分が多いと思う。前頭葉が発達して判断しまくれるようになったのがヒトだから。つまり性格の差異を産み出しているのは認識系の脳領野ということになる。視覚とか聴覚とか。あと触角。🐭ちゃんはあまり目が見えていなくておひげセンサーでいろいろ感じ取っている。ひげを触るとすごい嫌そうにしておもしろい。
脱線した。認識系の脳領野の実装に個体差があるのだろう。遺伝かもしれないし環境かもしれない。たいてい両方。認識系に差異があると、同じ大きな音を聴いても片方はびっくりして片方は平然としている、ということが起きる。これは人間でもよくあることなのでヒトの性格の差異も認識系の差異に依るのかもしれない。判断するより前に情報がフィルタされていて意識より前の処理が性格に影響する。意識でどうにかなるものではない。
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コミケの宿は会場の真ん前にした。国際展示場駅のホテル。この日は1日目の夜だった。駅へ着くとまだその辺にオタクたちがいた。
歩き疲れて足湯をしてみる。すぐに血流がよくなって頭が動いた。やっぱり私の心臓はしょぼくて足の老廃物を循環させられないのだと思う。
8/13(日)C102、「若者」呼ばわりの問題
コミケの朝。いつもの遠征とちがってちゃんと眠れた。妻氏も眠れたようでかつてないまともなイベントである。昨晩ホテルについたあと昼寝をしなかったのが大きいのではないか。
カーテンを開けて外をみるとすでに列ができている。アーリーチケットの一般参加者だろうか。
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チェックアウトして会場へ。徒歩5分でビッグサイトについて便利だった。毎回ここをおさえられたらいいのだが。
サークル入場口で id:utgwkk さんを発見したが特に挨拶はしない。KMC部員はいきなり話しかけられると狼狽することがあるため。何よりidしか知らなくて顔を覚えていないことがある。
今回は西館。前回もそうだったかもしれないがよく覚えていない。
9時には到着してスムーズに設営ができた。懸案の追加椅子も買えて完璧な設営だった。
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暇になったタイミングで東へ移動してみる。
歩いているとコスプレした人をよくみる。コミケはこの点がコミティアなどと違う。その辺に仮装をした人が闊歩していてお祭り気分になる。
どんなにがんばっていてもコスプレ特有の不気味さがあるのもおもしろい。上手な人、企業の公式コスプレイヤーになれた人でもそのキャラクターらしくなさが見えるのだ。それくらい二次元と三次元は異なる。
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帰りの新幹線でKMC Slackでチャットをする。
「若者」という言葉があって、いわゆる「老人」のインターネットの人がよく使う。「老人」といっても30代である。そう離れているわけではない。別にインターネットでなくても世間一般で使われるかもしれない。
私はこの言葉が嫌いで、使うべきではないと思っている。なぜなら「若者」とカテゴライズすることで自分より若い人を遠ざけている感じが出るから。「老人」の集まりで使うのはまだよいと思うのだが、若い人がみているところで「若者」と言うのはないと思う。言われたほうは愉快ではないだろう。
「老人」は若い人を「若者」と言うようになって「老人」になるのかもしれない。自分から若い人を遠ざける壁を作っているのだ。
8/14(月)夏期休暇、醤油ではなく塩で決める
ようやく夏休み。存分に寝て起きた。妻氏は無限に寝るので放っておく。
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夕食ににゅうめんを作って食べていたら塩気が薄いのに気づく。卓上の再仕込み醤油を入れてみたがあまり変化はない。そこで塩を入れてみる。これで味が決まった。
汁物の塩気の調節は醤油より塩を入れたほうがいいことがある。
醤油は高級であるほど「塩カドが少ない」と言われるらしい。たまり醤油とか再仕込み醤油は塩分濃度が低く旨味も多い。安価な醤油は塩カドがきついので、塩気の調整には向いているのだと思う。それよりももっと直接的に味を決めるのが塩だと思う。
私は土井善晴動画に教育されてしまったので塩は指で量る。何食分あるか、野菜と肉がどれくらい入っているかを考えて勘で塩を入れて味見をする。慣れた料理だと一回で塩が決まるが、たいてい追加が必要。妻氏は薄味のほうが好みなので控えめに調整して個人で足すくらいがよいという話もある。土井先生曰く、フランスだと調味は自分でやるそうだ。それでよいと思う。
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疲れているのでテレビでYouTubeをみる。なぜかPCだと動画を観る気にならない。PCはテキストを読み書きする道具である。
この頃オリーブ栽培に興味がある。オリーブ農家の動画を観た。
オリーブには日本固有種の害虫がつく。オリーブアナアキゾウムシという。明治時代にオリーブ栽培が始まったとき、なぜか木が枯れるので調べてみたらこの虫がいたという。
もともとこの虫はネズミモチという木に寄生していたのだが、なぜか外来種のオリーブが大好物になり害虫として覚醒したのだとか。
8/15(火)言葉が通じるのが不思議
関西に台風が来ていた日。気圧が低いせいでずっと体調が悪かった。ぜんぶ台風が悪い。
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家の片づけをしていた。友人宅の床が多かったのに影響を受けたのかも。
模様替えはおもしろい。ちょっとした工夫で家が広く見える。ポイントは床にグリッドがあると思って、グリッドに沿った配置をすること。空いた空間が長方形になるようにする。
あと色を揃えること。我が家は床と壁が白いので、白くない家具は端っこに追いやるようにしてみた。目につくところには白いものばかり。遠近感がなくなって分けがわからなくなる。
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中途覚醒をしたときになぜか哲学の思いつきがあった。夢で哲学してたのだろうか。
現象学では事物が意識に去来したそのままを捉えて哲学をする。
先日のモルモットの性格差を鑑みると「意識に去来したイメージ」は人によって異なることがわかる。当たり前の事実だと思うが、なぜか現象学は「去来のしかた」の差異を暗黙的に無視している。フッサールとハイデガーの生きていた時代の制約かもしれない。
この問題を考えると「人によって言葉の意味が異なっている」ことを考えずにはいられない。日常生活でも「あれ?思ったのと違う捉え方をされてるな」と思うことはよくある。対面であれば「そういう意味じゃなくて……」と追加の説明をして軌道修正ができる。意味がだいたい同じになったら相手の反応でそれがわかる。チャットだと難しいので、表情や間を読んで意味が伝わったかどうかを判断しているのだと思う。
しかるに、哲学は対面でやらないとあまり意味がないのだろうなと思うのだった。
8/16(水)日記の違い
整頓のおかげで床が広くなった。家が輝いて見えてきて掃除がしたくなる。健全な夏休みという感じがする。ゴミを吸ってモップをかけた。
かがやきだした〜ぼくらをだれ〜が〜
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桐生あんずさん(id:kiryuanzu)の『休職日記』を読んだ。コミケ戦利品のひとつ。他人の日記が好きなので買った。
読む前は「どうして休職中の日記を本にするのだろうか?」と思っていたのだが、読んでみたら良かった。落ちこんだ人間が回復していくさまはたしかにドラマ性がある。そういえば『うつ病九段』も似たような読み味があった。ずっと落ちこんでいるだけだとしんどい読み物なのだが、復活するオチを知っているから暗くても楽しく読めるのかもしれない。
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日記のスタイルが自分と違って驚いた。そういえば日記ってこんな感じだった。その日の出来事と雑感を書くもの。生活で出てくるモヤモヤ、悩みを書きつけるもの。
私の日記はこのとおりである。出来事は書かれるが、ドライであまり感情が表現されない。パッサパサである。乾物。
たまにモヤモヤを書くこともあるのだが、どうも表現がふつうのモヤモヤテキストにならない。感情のあり方が違っているのだと思う。モヤモヤ特有の歯切れの悪さ、みたいなものがない。それはそれで便利なのだけども、小説とかはまったく書けないタイプだよな、とも思う。
私の日記は昆布とか木片(シナモン)みたいな味だと思う。噛んでも水が出てこない。問題だとは思っている。と、書いてみるが本心でそう思っているわけではない。
8/17(木)抽象化のつまらなさ、果物はワインセラーへ
ふりかえり記事を公開した。清書をブログに流しこみ妻氏に読んでもらう。わかりにくい表現を修正してイラストを入れてもらって完成した。総括〜。
今回はなぜか文章のテンションが低かった。疲れているのかもしれない。あるいは書きたくなかったか、何も覚えていないのか。週報よりもロジックが整理されたのでやってよかったとは思うのだが、書き味には不満がある。
抽象化のつまらなさかもしれない。毎日の日記(非公開)がいちばんおもしろい。読める人が妻氏と友人だけなので、内容に容赦がない。書くのも楽しい。週報はなんとか日記の味を残そうとしつつ書いている。でも何かが失われる。それをさらにふりかえり記事まで抽象化すると無味乾燥となって、自分にとってもつまらなくなるのではないか。味がしなくなるところまで整理しちゃった説。
であればどのテキストも毎日の日記のように書くのがよいのだろう。週報もふりかえりも日記みたいに書く。初めてそれを言語化するときのように。これが簡単にできたら苦労はしない。漫画でもよくある問題で、下書きやラフの線がいちばんいいことがある。最初の感じを殺さないように線を整理する。ライブ感のある生ものがいいか、丁寧に推敲して整理したきれいな作品がいいか、どっちも必要で難しい。
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胃腸がダメすぎるので外へ。私の体調不良は歩くと治る。散歩を目的として本屋と八百屋で買い物をした。道すがらオリーブの木を探す。意外とその辺に生えているもので、中には実がなっている木もあった。さすがシンボルツリーと言われるだけのことはある。次は害虫の様子をみようと思う。都市にオリーブアナアキゾウムシはいるのか。
スーパーの2Fにオリーブの木が売られていた。シプレッシーノ(品種名)の4年か5年の木が2万円。1年くらいの木が3千円。あと月桂樹が2千円。ここで追加の苗を買ってもいいかもしれない。しかしあとで調べたらシプレッシーノはあまり実をつけるタイプではないとか。アメブロのオリーブ大好きプロ主婦ブロガーがそう言っていた。アメブロにはすべてがある。
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🍇を14℃のワインセラーにいれたらおいしかった。酸味と甘味のバランスが非常によくなる。どうやら果物は温度管理が大事らしい。
なぜ果物で温度が大事なのか。ワインに適温があるのと同じで温度によって甘みの感じられ方、香りの立ち方が変わるからだと思う。
🍑でも実験をしたらやはりおいしくなった。ただし🍑の場合は温度だけでなく剥き方も大事だった。触りすぎたり、皮を剥きすぎると味が落ちる。🍑の皮を一発でつるりと剥く技術が必要。
8/18(金)読書しまくり
社会復帰(連休明け)を前にして早起きを意識している。
包丁を研いだり本を読んだりして過ごす。この日は三冊も読み終わった。
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『ビリヤニ』
自宅でビリヤニを作る予定があるので読んだ。つまるところビリヤニとは、グレービー=カレーとバスマティ米を混ぜて炊いただけのものである。構造はほぼこれで、調理方法や具・香辛料に地域ごとの違いがある。カレー自体が自由な料理なのでビリヤニも自由な料理である。カレーの構造の基本はあるが、そこを逸脱しなければどう作ってもよいと思われる。香辛料と野菜のソースで炊きこめばどうやってもビリヤニになることがわかった。
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『これならできるオリーブ栽培』
脱サラオリーブ農家の山田さんによる単著。オリーブの栽培方法、病害虫対策、搾油など情報が多い。ただし一般人向けではなく就農者向けの本。搾油工場のレイアウトまで載っている。内容はブログ記事を編集したものが多いがまとまっていて便利。また文章が上手なので読みやすい。オリーブ農家になる気はないが、苗木を買ったので読んだ。
脱サラ就農の成功者。国内で誰もやってない有機栽培ならばオイルの値段をあげてもよい、と気づいたあたり賢い。都市には有機栽培なら何でも買う人がいるのだなあ。そういえば神戸の自然派マダムは虫食い穴だらけの野菜を買うらしい(『マル農のひと』)。
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『継続するコツ』
坂口恭平のエッセイみたいな本。テーマは継続する方法だが、メッセージは「人との比較や規範なんか無視して自分が好きなものを作り続けろ」だと思う。相変わらず散らかった本だがたまによいフレーズが出てくる。「才能があるから創作をやるのではない。才能という概念は疑わしい」「好きなものを作り続けることが幸福である」「スランプ・鬱・不幸は作りたいものと作るべきと思っているものがズレているときに生じる」「目が肥えても、手を動かしながら悩むめばよくて、手を止めて悩むのはおかしい」
この人は精神病構造の極みみたいな人だと思う。サントームに達していて作り続けることで発病を抑止しているやつではないか。でも真似は容易ではない。坂口氏は「規範なんかどうでもいいじゃん」と言うのだが多くの人にとって憎くて大事なのが規範なのである。