1/6(土)
昼に新しいアルミパンでパスタを作る。ニンニクが焦げないし野菜の香りが残るし最高にうまいオイルソースパスタができた。わーいわーい。
午後は買い物。新京極へ行き自転車の新車を購入した。対応してくれる店員さんがなかなかのオタクで
「いま何に乗られてますか?」
「Scottのほげほげです。2010年の」
「あーあれですか。この頃のScottは大きめの作りになっていて、たしかに前傾がきつくなりがちですね」
という調子。我々はオタク店員が好物なので全幅の信頼をおき自転車を選んだ。これや!というものに決まってお金を払った。納車は二週間後。楽しみである。
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調理中は腕が四本ほしい
このごろ妻氏に調理補助をやってもらっている。「お芋剥いて」「お玉とって」「包丁洗って」「お皿出して」みたいな指示をする。
妻氏は調理が苦手というか、手順がきっちり定義されてないと動けないタイプ。私はあるものでてきとうに作れるタイプ。塩さえ決まればええやろ派。
と、明らかに私のほうが向いているので料理長をしている。
問題は腕が二本しかないこと。調理は同時にやることが多くて大変。肉、野菜に火を入れている間はコンロから離れられない。並列でやらないとボトルネックになる下処理もある。
ちょうどイナダシュンスケも調理補助に関する記事を書いていた。
「料理人になるためにはどうするのか」という連載記事で「見習いは調理補助をやりまくるべし。先読みができるようになると強い」と書かれていた。
家庭料理でそこまでの効率化をする意味はあるのか?
みんな時間に追われてるので、できるなら補助してもらったほうがいいと思う。補助は料理が苦手な人でも問題ない。物を取ってきてもらうだけでもいい。そうやって一緒に台所に立つようになると、世の中は平和になるだろうなあ、と思った。
1/7(日)
社会復帰に向けて早起きをする。といっても9時だが。
週報の清書とpublishをして朝食。お昼にカレーの残り物を食べた。妻氏に最後の肉をとられ、私はひもじく豆と芋を食べる。中世農民である。
昨日の自転車屋に案内された動画をみた。ロードバイクの基礎知識を解説するもの。ちょっとダサい雰囲気の動画だけど、わかりやすくてためになった。もう10年以上ロードバイクに乗っていたのに知らないことがたくさん出てくる。自己流はダメだなあ。
午後は四条へ。ハンズで台所用品を探し、大丸へ行った。
🧈🧈🧈
シンプル地味門松文化
このごろ散歩をするときに門松の品評をしている。京都の門松はバリエーションが豊富で、変なものがいっぱりある。もっとも多いのは根引き松。
根引き松とは写真のようなもので、根っこのついた松の新芽を玄関脇に打ちつけたもの。京都らしい家ならだいたいこのタイプの門松をつけている。質素でよろしい。
次に多いのがオーソドックスな松竹キャベツ。これはホテルとか旅館に多い。華美で京都の価値観ではないと思う。
最優秀賞は大丸の門松だった。シンプルで地味なのにどこかめでたい感じがする。
つまり、色のトーンが抑えられていて、パーツが少なくて地味なのに形が美しいのが京都っぽさなのだろうか。枯山水とか茶室みたいな雰囲気。そういえば祇園のローソンも茶色い看板になっている。あの茶色は美しくないと思うが、ともかく地味であることが大事。華美にして威張ると「あれはないわ」と噂されるのが京都なのかもしれない。
1/8(月)
連休最終日。
「この休みにあれとこれとあれをやろう」と思って溜めていた娯楽TODOがある。娯楽TODOという語義矛盾はどうかと思うのだが、よく考えた結果捨てられなかった。しかし休みはあと一日。どうするのだ?
覚悟を決めて効率的に処理することにした。これじゃあ娯楽じゃなくて仕事だが今日やるしかない。これまで怠けていたツケが来ている。
方法は前に前に詰めること。娯楽なのでタスク自体は非常に簡単。小粒なものから順番に処理していった。スマホゲーム複数のイベントシナリオとコミケで買った同人誌。庭のプランターの手入れ、昼夜の自炊、買い出しなど。日記も夕方に書き始めて夜の時間が空くようにしてみた。
結果、とても充実した一日となった。なんかおかしい気がするのだけど、たくさん遊べたのでよしとする。
実は一般的に効率的なタスク処理法なのかもしれない。今の流行だとシフトレフトとか言われるやつだろうか。
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日記はなぜか起きた時刻が書かれる
桐生あんず氏の『休職日記2』を読んだ。復職編である。休職からの復職というものは少しずつ稼働時間を増やすものらしい。知らんかった。
だんだん調子を取り戻していく日記かと思ったが波瀾万丈だった。家事に追われコンテンツ消化に終われ、同居人が突然魚を釣ってくる(鯵フライ祭)、インフルエンザ感染。
調理する人からすると突然鮮魚が家に来るのは恐怖でしかない。魚は足がはやいんだぞ。釣り趣味はやばいなと思った。
他人の日記としての発見もあった。必ず起きた時間が書かれるのである。「10時起床」みたいな書きだし。私もよくやる。というか毎日書いている。なんで日記は起床時間を書いちゃうのだろうな。戦中戦前の日記の場合は天気も書かれる。不思議な文化だ。
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カッチビリヤニが簡単美味
ビリヤニを炊いた。二回目。
今回はカッチという炊き方。この方法がもっとも楽だった。なのにそれっぽい味になる。とてもおいしかった。
- スパイス入りヨーグルトに肉を数時間漬け込む
- 香り米を浸水させる → 茹でる
- 玉ねぎを褐色になるまで炒める
- 玉ねぎに1を混ぜ、上に茹でた米を載せる
- 20分極弱火で火にかけて10分蒸す
- トマト、玉ねぎを切ってクミン、塩入れたヨーグルトに混ぜる(ライタ)
という手順で作った。詳しくは水野さんのビリヤニレシピ本を参照すべし。
ビリヤニだけだと野菜が不足するのでぜひライタを添えてほしい。マリネに使った残りのヨーグルトに野菜を入れたらできて、ビリヤニにかけるとうまい。単体でもうまい。ガスパチョに似た料理かも。
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食事による集団の維持
東浩紀の『訂正可能性の哲学』を読んでいる。
「構成員が入れ替わってルール(言葉づかい)が少しずつ変わるのに同一性を保っている集団」について哲学されていた。本文での例だと家族だが、家族に限らずそういう集団はある。
例えば大学のサークル。サークルの例会が毎週木曜日の18時からナントカ棟の201であって決めごととか連絡をする。たまに誰かが発表をする。楽器の練習でもいい。例会が終わったらそれぞれのグループを作って近くのご飯やさんへ行き食事をする。毎年人が入れ替わるし日によっては来ない人もいるのだが、そのような恒例行事をすることでサークルのサークルらしさが維持される。大学でなくても定時後の飲み会、趣味の集まり、友人の恒例行事でも同じことが言える。
食事という儀式が大事なのかもしれない。決まった行動Aをしたあとに必ずご飯を食べる、という形式。いつもの「あの店」かもしれないし、毎回違うかもしれない。卓を囲むメンバーは固定でもいいし、たまに知り合いの知り合いが来てもよい。
家族であれば「めでたい出来事があったのですき焼き大会をやる」というような文化だったり。
このように「行動(出来事)→食事」の形式が集団の同一性を維持するのに役立っているのではないか。
1/9(火)
仕事始め。いつもの時間に起きられるか心配だったのだが、難なくスッと起きられた。8時。連休中は10時に起きてた。
自転車で出社してぼーっと会議に参加。重い議題もないしゆるやかなスタートだ。
会議から業務に戻っても皆さんどこかゆっくりした調子。いいぞいいぞ。私もだらける。
結局ほとんど手を動かさずにコードレビューだけして退勤した。早めに終わって読書の時間を確保するのである。
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素直で内省する人を好む
私と妻氏は口が重い人を好む。喋らせてみても「……。あー」という調子で時折考えこみ、何かまとまった段階で喋るような人。内省をする人。
内省ができる人は自分の意見を持っている。世間的な一般論を返してこない。興味がない話題だったら素直に「わからない」と言う。無理をしない人。
こういう人のことを「身体がある」という言葉で評価してきた。我が家独自の用語である。しかし「身体がある」「身体がない」は抽象的でわかりにくい。
どういう意味なのか、突き詰めて考えたら「自分の固有の経験をもとに思ったことを素直に述べられる人。経験を自分のなかで咀嚼している人」という定義が出てきた。
出来事に対して「感じたこと」を咀嚼するとその人らしさが出る。それを聞くのが人間観察の旨味なのだろう。
1/10(水)
さっそく労働にやられたのかどんよりとした一日だった。会議と会議をやってあとはDynamoDBのAWS SDKと戯れる。たまにドキュメントには載っている機能が実装されていなくて困る。big techの作るOSSは雑なものがある。
そこそこのところで退勤して夜は読書をしていた。『訂正可能性の哲学』がおもしろい。風呂で1時間、出てきて1時間読む。あとちょっと。
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宇宙生物ロマネスコ
このごろスーパーや八百屋でロマネスコを見かける。フラクタルで、とてもきもちわるい。宇宙人か神が設計した植物だと思う。もしかしたらモンスターかもしれない。
最初は近所のスーパーで見つけたので、そのスーパーの趣味かと思ったのだが、後日別の八百屋でも売られていた。陰謀論的主体が私の行く先々にロマネスコを置いていっているのだろうか?いや、旬なのかしら。こわいので私は食べない。
1/11(木)
うっかり早起きしたら睡眠が不足してダメになった日。私はなぜか日の出とともに起きることがあって、何時に寝たかに関係なくそうなる。ランダム中途覚醒の能力を持っている。
この日はアラームの40分前に起きたので、そのまま活動し始めたが一日頭が動かずぼーっと仕事をして終わった。朝起きたときはスッキリ感があったのに……。
しかも夕方に鍼で自律神経をふにゃふにゃにされてしまう。ストレスと疲れがあるので副交感神経優位にされちゃったのだ。必要な処置だが、仕事も読書も捗らなくなって寝るしかなくなる。読書したかったのに……。
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日記のメモ書きに「軽車両なので軽油を飲む」と「ロマネスコを集めて巨大ロマネスコを作る」と書かれていた。
軽車両とは自転車のことである。人が軽油を飲む。
ロマネスコはフラクタルなので、ロマネスコを集めて積むと一段階大きなロマネスコが作れる。さらに上を目指すと数十メートルの大きさになるだろう。
1/12(金)
わりあいしっかり寝た。その代わりアラームで起きて遅刻ギリギリ。労働者をしていていちばん嫌なのは時間に縛られることだ。かといってコアタイムのない会社にいたら夜がどんどん遅くなる気がする。つまり8時間労働が良くない、という話。
このごろ自転車通勤をがんばっている。12月の週報で「通勤で運動するのが最適」と書いた。それの実践。久しぶりにしっかり走っているので足、腰、背中の筋肉が痛む。
なんでこれまで乗っていなかったのかというと、自転車のサイズが合っていなくて、正しい乗り方も知らなかったから。自転車屋の動画を見てから正しい姿勢、正しいサドルの高さで乗るようにしたらずいぶんスムーズに漕げるようになった。おもしろいくらい進むようになり楽しく乗っている。
ただ、やっぱり今の自転車はサイズが合っていない。ハンドルを握るとお尻が前にずれて、サドルにお尻を合わせるとハンドルに届かなくなる。買い換えた判断は正しかったようだ。もちろん、パーツだけ交換してハンドルを近くする選択もあったけれども、もう13年も乗っているのでよいだろう。
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『訂正可能性の哲学』を読んだ
読みやすくて濃密でおもしろかったのだが、要約が難しい。なんで難しいのかな、と思って「25年後の『存在論的、郵便的』から『訂正可能性の哲学』へ」というイベントの動画を見たところ、それがデリダおよび東の議論のスタイルなのだとわかった。一冊の読書体験として考えながら読むことで、読者に何か新しいものが残る、という哲学書なので一読して要約できるようなものではないのだろう。
が、それでも私の中に残ったものとしては月曜日の日記の「食事による集団の維持」と
理性的で公的な言葉ではなく、感情的で私的な言葉こそが、一般意志の暴走を、すなわち「自然」や「公共」や「真実」や「正義」の絶対性を切り崩す(p.326)
というところ。
「食事による集団(家族的類似性)の維持」は東が書いたものではなく、私が勝手に東の議論と千葉の「宗教的なものについて考える」講演を合体させて考えたものである。
後者の「感情的で私的な言葉こそが〜」というのは現代社会の「真面目さ」批判であり、批判の対象は「真面目」すぎる「正しさ」の政治とか現今のインターネット、ビッグデータと人工知能による民主主義実装等々。人文学をやっているものだとごく自然に覚える現代社会への違和感である。が、私は他人の「真面目さ」が変わることに期待をしていないので「他者に対してここまで熱くなれないな」とも思った。
ただ「感情的で私的な言葉」を抑圧してしまっている自分はいて、なんとか出してきたいな、という思いはある。それを後押しするよい本だったと思う。