しゅみは人間の分析です

いらんことばかり考えます

週報 2023/04/02 間取りの不思議、シビアになる体調管理、価値観の優先順位、頭の整理の哲学

日記

3/25(土) スモスモSUUMO

起きたら昼だった。夜型の我々は金曜日にうっひょーと夜更かしをして昼まで寝ることが多い。

まともな朝食を諦め、パンを狩りにいった。肉系のパンばかり買う。あと食パン。妻氏はたまにパン自作を諦める週がある。
おやつにあんドーナツを買うか悩んだ。私はあんドーナツが大好きで、うっかり買ってしまうことが多い。この日も別腹として計上して買った。あんドーナツの魅力には勝てない。

 

午後、昼寝をしたあと週報。この回からコラージュみたいな作り方を試している。まず一次日記と二次日記を週報ファイルにコピペして、載せる題材を確定させる。そのあと素材をツルツル磨いたり書きなおしたりして完成に持っていく。テキストはコラージュがやりやすいのである。効率的だった。

 

深夜になってスモスモSUUMOする。引っ越しの機運が高まって物件探しを始めた。生活に閉塞感があったのでモチベーションは高い。数年住んでいるうちに周辺環境が変化して日照も悪くなってるし。ただ、引っ越しはめんどくさいよなあ、と思い日和りつつ検索していた。

3/26(日)リビングがでかいとうれしい

KMC SlackにいるSUUMOマスターの知恵を借りていい物件を見つけた。リビングがとにかくでかい。我々はリビングが広ければそれでよくて部屋数はいらない。LDKの絞り込み条件なんかなくてもいいのだ。
午後、ジムへ行く予定を取りやめ、不動産屋へ。見つけた物件の内見を申し込む。日曜日だから管理会社が休みで無理だそうな。翌日内見の約束にして入居申し込みだけしておいた。この時期はほんとうに競争が激しく、いい物件はすぐになくなると言う。


「こんな変な間取りでもですか?」「変な間取りは供給が少ないからそのぶん取り合いになる」「なるほど〜」

 

午後は珍しく趣味プログラミングをしていた。自作アウトラインプロセッサの機能追加を行う。

3/27(月)ジムのあとにしてたら負けてた

昼で退勤し、ビリヤニを食べたあと内見へ。
近所なので現地集合となった。約束の時間より早く到着したのだが、先に着いていた担当者と雑談をするコミュ力がなかったので近所の桜を眺めて時間を潰した。

時間になったら妻氏も合流し部屋を観察する。予想を上回る掘り出し物だったので即契約を進めた。
我々が昨日申し込みをしたあと、数時間後に別の申し込みがあったらしい。ジムのあとにしていたら負けてた。おそろしい時期だ。

 

三十代の夫婦となると、何かと家を買わないのか?と言われる。今のところその予定はない。環境を変えられないのが嫌だから。生活の問題を解決する方法は「自分を変える」「相手を変える」「環境を変える」のいずれかである。「相手を変える」のは暴力なのでないものとする。「自分を変える」は理想だが時間がかかる。なので「環境を変える」選択肢は残しておきたい。家は環境のうちもっとも大きなものである。

3/28(火)冷えに気をつける

体調が悪く低調に過ごした。深呼吸をしようにもできない体調。やばいなーと思いつつ夜まで過ごし鍼で救済された。
身体に冷えが入っていた。そういえば数日前にかなり暖かくなったあと、また冷えてきた。油断してしまったのだ。冷え性の私は曲池へのお灸が欠かせないそうだ。肘にあるツボで循環をよくする便利なやつ。

ちなみに冷えは朝の背中の冷たさで把握できるらしい。朝起きて体温が上がっていくタイミングで背中が冷たかったらやばい。背中の冷え=背中に血が回っていない、という原理で深呼吸ができなくなる、と解釈した。

3/29(水)アッチヤ!

四条通を歩いていたら外国人に道を聞かれた。私の前を歩いていた数人はことごとく無視したのだが、なぜか私は目が合って対応してしまう。英語は得意ではないのだが、subway stationが聴きとれたので烏丸駅の方向を指さした。thank youと言われて解決する。

それにしても話しかけられて無視して歩き去るのはすごいと思う。街で知らない人と話すのが当たり前の文化圏も多いはず。観光客は異様な国だと思うのだろう。

ヨーワカランケド地下鉄ヤナ!アッチヤ!

3/30(木)契約よりも調停

新居の審査が通った。わーいわーい。通ってしまうとスンとなり引っ越しが現実として迫ってくる。うわーめんどくさい。

審査が通った途端にあちこちから電話がかかってきた。不動産会社が義務的にやっている引っ越しとインターネット回線の斡旋。どれも断った。自分で決める。

 

それにしても契約はまだなのに入居が確定したかのように扱うのは何なのだろうか。契約が締結されるまで何も確実なことはないはずだ。捺印して契約書を受けとるまではぜんぶ口約束ではないのか。
日本はその辺が曖昧である。『日本人の法意識』にもそういうことが書かれていた。

「むしろ望ましい」のは、あまりそういう点に心配することなく、もし問題がおこったら、確定した権利義務を主張しないで、その時に「話しあい」をして解決するということを予定することである。(p94)

日本では「調停」が大事で、契約によって事前に拘束する文化ではない。契約は儀式の側面が強い。近年の社会的傾向としては少し変わりつつあるのだが、それでも厳密に契約をする法意識の人は多くない。そういうものなので契約をするときは調停でがんばることを覚悟する。

4/1(金)二十分間憎悪

仕事でリファクタリングをしている。担当しているシステムの中核をいじっており、心臓手術みたいなものである。いろんなプログラムから依存されているので、少し変更するだけでテストは落ち、血がドバドバ出てくるのであった。「動脈と静脈を逆に繋いじゃった。てへ」みたいなこともよく起きるのだが、プログラミングは完成するまで失敗しまくってもよいのである。

 

引っ越しに向けて片づけの作戦を考えた。私は暇があるし整頓が好きなのでいくらでも稼働できる。だが妻氏は漫画の原稿がありあまり片づけに参加できないし、そうすべきでもない。でも妻氏の持ち物の整理もある。

そこで「十分間憎悪」を使うことにした。これは2018年に私が思いついた生活術で、毎日数十分だけ家事や片づけをする、という方法だ。例えば毎日二十分ものの整理をしたら、一週間で二時間の稼働になる。けっこうでかい。あと三週間くらいあるので、これでいけると思う。失敗したら笑ってほしい。

non117.com

雑記

間取りの不思議

今住んでいるマンションは90年生まれである。この世代の間取りは余裕があって、廊下、洗面所とトイレが広々としている。一方、最近できたマンションはどれも居室以外が切りつめられている。この三十年の間で間取りの最適化が進んだようだ。資本主義の効率化圧力はこういうところにも出ている。
なので、部屋の広さは平米数だけではわからないものがある。どんな時代に設計されたのか、という文化っぽい側面も効いてくる。現代の最新式の間取りが最適解と思えても、数十年経ったら別のトレンドになっているかもしれない。

シビアになる体調管理

AIで仕事が効率化されるとむしろ困るよな、と思った。最高の集中力なんて一日に三時間出せたらいいほうだから。労働に拘束される時間のうち、出てくるパフォーマンスにはむらがあるのだ。パフォーマンスが出ないときはつまらない仕事をしている。
だから、フルタイムの業務内容が頭を絞るようなものばかりだと困るのだ。そんなの毎朝5時に起きて筋トレからスタートするような人種じゃないと耐えられない。
それでも頭を絞るタスクばかりやってくれ、と言われたら労働の裁量をください、という話になる。パフォーマンスが出ないときは、つまらないがやらねばならぬ家事でもしていたい。
そういう事情がありつつ、世の中の効率化は進んでいるから労働の裁量が強く求められているのだろう。自由、欲しいよなあ。

価値観の優先順位

ウェブ系に限らず、企業では会社の思想を示す価値観セットが掲げられることが多い。例えばはてなだとこんなの。

ミッション - 株式会社はてな

はてな社を腐す意図はなく、ただ例として出している。いろんな組織でこの問題はある。)

でも、ただ価値観を示されただけでは現実の問題に立ち向かえない。仕事では「金儲けとユーザー体験と技術的挑戦のうち、どれが優先なんですか?」「トレードオフが見つかったんですが、何を優先するんですか?」みたいな問題がよく出てくる。これらの問題を解決するのはどの価値観が大事であるかではなく、どの価値観がどの価値観に勝てるのか?という優先順位である。思想は、価値観と価値観の関係として示されて初めて役に立つものになる。

エラい人に「価値観の優先順位を決めてくれ!」と申し出ても、「一般的には決められない。具体的な問題じゃないと答えられない」と言われるかもしれない。それに例外もあるかもしれない。これもまたもっともである。だが、例外は例外としてその場の合理性を優先すればよいだけであり、原則は決まっていたほうがよい。じゃないと思想として使えない。具体性が必要ならば、一般的に言いつつ具体例を一緒に提示するだけである。

もっと卑近な例だと「私と仕事どっちが大事なの!」が有名だ。場面によっては問いではなく「私を優先しろ!」というメッセージだが、ここでは文字通り解釈する。仕事と家族のどっちを優先するのか、という生活上の価値観が問われている。今風に言うとワークライフバランスであり、まさに価値観の優先度が問題になる。

生活でも価値観の関係は決まっていたほうがよい。思想があると、あらゆる判断が素早く行え、トラブルが起きても冷静に対象できるだろう。

ベルクソンの哲学』を読んだ

現代思想研究者檜垣先生の最初期の本。ちょっとわかりにくかった……。
現象学と違って超越論的自我を想定せずに現象そのものを観察する立場なのはわかった。現在は存在しなくて過去しかないのもよくわかる。ほんと早すぎた天才だと思う。
序章がいちばんおもしろい。原著のベルクソンと前期ドゥルーズが読みたくなった。

頭の整理の哲学

ここ二週間ほど「記号」と「意味」の関係について考えていた。この二つの関係についてちゃんと哲学をしたのはウィトゲンシュタインである。『論理哲学論考』とはそういう本。ただし、ウィトゲンシュタインの目的は「善き生は論理的に語りうるのか」だったと思う。形而上学を退け「生の問題」の性質を明らかにするために、ウィトゲンシュタインは論理と言語を分析した。

論理哲学論考』の結論は「論理で捉えられる世界(空間)」の外に「生そのもの」がある、という事実の指摘。「7. 語りえぬものについては、沈黙せねばならない」で言われる「語りえぬもの」とは「論理空間」の外の空間のことである。「生」とは個々人の脳および身体だと思ってよい。倫理の問題や「善い人生とは何か」は外側の問題である。つまり、人生には論理的に詰めて解を出せる問題と、論理的には解が出ない問題があるよね、ということ。

沈黙するめんだこちゃん

私にとって大事なのは「論理空間は広げられる」ことである。明らかに「小学生が論理的に把握できる空間」よりも「大学院生が論理的に把握できる空間」のほうが広い。この差を産んでいるのは知識である。(事実に関する)知識が増えるほど論理空間は広くなり、論理的に解決できる問題が増える。何歳になっても知識を増やすと人生が楽になる、と言える。

言語化の価値もこの枠組みで説明できる。ただ生活をしているだけだと「記号 - 意味」ペアのうち「意味(体験)」だけが増えてそのうち忘れられていく。論理空間は広がらない。だが、頭を整理して言語化をすると「意味(体験)」を「記号(言語)」に紐づけることができる。記号になりさえすれば論理的操作が可能になり、問題が解決できるようになる。

私にとって読書と日記にはこのような背景があったのだろう。読書は知識を増やして論理空間を広げる。日記は体験へ記号を割り当てて「語りえぬもの」を減らしてくれる。なるほど読み書きを続けていくと悩みが減るわけである。