しゅみは人間の分析です

いらんことばかり考えます

週報 2023/04/09 箱で家が埋まる、捨てられた椅子に座る男、持ちものと人生

4/1(土)箱で家が埋まる

引っ越しの見積もりに臨む。今回はアートにした。アートはZoom見積もりに対応していて、YouTuberみたいに家中をスマホで撮りながら説明をしたら見積もりがもらえる。

ちょっと高いかな?でも物はいっぱいあるから仕方がないよなあ、と思っていたら勝手に値引きがなされた。要求してないのに。三万円ほど安くなり、相場通りと思われる額で妥結した。

箱は明日届くらしい。六十箱。本が多いと言ったらこの規模になった。届いたら畳まれた箱だけで家が埋まってしまう。

4/2(日)捨てられないUSBケーブル

片づけを開始する。いらないものは捨て、いるものは分類して収納。引っ越しは物を整理するチャンスである。

ステッカーや説明書、付属品のネジなど細かいものを入れるのにジップロックが便利だった。なんとなく溜まっている大量のUSBケーブルもジップロックLサイズに詰めた。パンパンになる。いらないのでは?

箱を置く場所がないのに気づく。はて?なんで?家具が多いからだった。この家に引っ越してきたときに比べてソファや本棚、机が増えている。コロナ禍の影響もあるし、妻氏が同人活動を本格化させたのもある。どちらも越してきた頃には予想だにできなかった変化だ。

4/3(月)捨てられた椅子に座る男

dailyportalz.jp

いつものように夕食を食べながらDPZの記事を読んでいたら気になるライターを見つけた。住正徳さん。これはリマスター記事なので2008年のもの。今はDPZでは書いてないようである。

住さんの文章は妙に上手い。またアイデアもよい。裸眼会とか。

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今は何をされてるのか、と気になり調べたらTwitterにいた。レシートで短歌を読み、毎日捨てられた椅子に座っていることがわかった。たまに雑談配信をされている。背景には一面の本棚。これは本物だなあと思った。

4/4(火)メモリは通貨

寝るときTシャツを着ているから背中が冷えるのに気づいた。ばかみたいな絵のTシャツを着て過ごしたいが冷え性人間には向いてないことを悟る。Tシャツはくまみねデザインのがおすすめ。

 

KMCの友人に人をダメにするクッションを譲った。我が家では固めの座面が人気である。やわらかクッションは合わなかった。

カーシェアで来てもらって受け渡した。五分ほど雑談をして引き取ってもらうお礼?としてDDR5メモリをあげた。最新世代のメモリは持っていたらそのうち役に立つ。通貨である。

4/5(水)でたらめが先、秩序はあと

片づけ加速中。家具をどかして箱置き場を作った。だんだん生活空間が埋もれてくる。このまま箱といっしょにしばらく過ごすのだ。

 

note.com

よかった。創作はランダマイザー(でたらめ装置)によって、自分でも予想できないものを産み出すから楽しいのである。

4/6(木)その他カテゴリに負けるな

新居のインターネット選定。JCOM 300Mbpsとフレッツ100Mbpsが選択肢だった。数字だけ見るとJCOMを選びそうになるが、実は上りが10Mbpsしか出ない。つまり画面共有やカメラオンのZoomは不可能。フレッツにした。

 

持ち物の整理に棚が便利だった。収納から物を出しカテゴリ別に分けていくと、必ずその他カテゴリができる。その他カテゴリの物はとりあえずどこかに置きたい。床は最悪で、すぐに足の踏み場がなくなる。テーブルが余っているならそれもよいが、棚だとコンパクトなテンポラリディレクトリにできる。

棚にその他カテゴリを置いておくと、別の収納を整理しているうちにちゃんとしたカテゴリに昇格することがある。このスキャナーとラベルプリンターは紙を扱っていて似てるから一緒にしまっておけばいいじゃん、みたいな。

それでもその他カテゴリが消滅しなかったら、諦めてその他収納を爆誕させる。できればその他(2)フォルダは作りたくないものだ。

4/7(金)リクルートスーツが光って見える

夜、社交ダンスのレッスンへ移動していたらリクルートスーツの巨大集団と遭遇する。そういえば四月に入って初の金曜日である。新入社員が連れだって飲みにいったようである。

それにしてもなぜリクルートスーツは目立つのだろうか。就活生が一人で歩いていてもそれがリクルートスーツであることは一目でわかる。こなれたおっさんのスーツ姿は、ネクタイが外れていたりヨレヨレになっていたりする。これが着られる、着ているの違いだろうか。

持ちものと人生

片づけをしていたらいらないものばかり出てくる。いるものもいっぱいある。なんでこんなにものが多いのか。これらはどこからやってきて、どこへ行くのか。なぜ所有し続けるのか。

ものを押しつけないでほしい

もらえるものと買うものがある。もらえるものが厄介。

 

どこかの店でスニーカーを買ったらエコバッグがもらえたことがある。あまり使いやすいものではないが、つい受けとってしまった。でも、店員も本社や上司の指示で配っているだけである。彼らにも責任はない。

なぜタダで配られるのか。安いからである。大量生産技術のおかげで、何でも安く作れるようになった。これ自体はありがたいことである。

本当に使わないものは捨てるしかない。もちろん売ってもいいのだが、売る手間に見合うのは数千円の値がつくものだけだ。

しょうもないものを配り、捨てる人に葛藤させる企業にはムカつくが、どうせ安いのだからと思って捨てるしかない。ただ、さいきんはプラスチックや金属のリサイクルが盛んである。これらの素材のものは気軽に捨ててもよいだろう。

道具とコレクションが残る

こう考えてものを捨てまくった。でも、捨ててもまだ残るものがある。残したものたちの箱が家を圧迫している。何が残ったのだろうか?

 

道具とコレクションだった。

三割くらいが道具だろうか。ペット飼育の道具、調理器具、画材……。いろいろな道具があり、それにしかできない仕事がある。できればシンプルな道具を少数持ちたいものだが、そう万能の道具はない。

残りがコレクション。つまり趣味の産物。我が家の場合は本と原稿である。本は読んで売ることが多いのだが、それでも選別を生き抜いて本棚に溜まっていく。あまり読み返さないにしても、いい本は手許に残しておきたい。捨てられない。

コレクションは、本人(あるいは同じ趣味の人)にしか価値がわからないという特徴がある。市場的に価値があるものを集めたコレクションもあるが、たいていは思い出、思い入れとセットになっている。持ち主の来歴、人生とともにあるものである。なので捨てるには勇気がいる。自分の過去を清算しなければ手放せないだろう。

自分はオタクに向いていなかった

今回の引っ越しでライトノベルとアニメのBlu-rayなどを処分した。00年代からインターネットをしていて、高校生の頃にはニコニコ動画が出てきた世代である。いわゆるオタク趣味とは無縁ではなかった。「アイデンティティキット」の選択として自分はオタク趣味をやるのだ、という意識もあったように思う。

大学に入ってからもその手の趣味のつながりを大事にしてきたのだが、当時から本気で楽しんでいたわけではなかった。コンテンツを繰りかえし鑑賞することもないし、何らかのキャラクターにハマることもない。何より映像コンテンツが得意ではない。だんだん趣味が合わないことに自覚的になり、宗旨替えは進んでいった。

 

こうして今回の引っ越しをきっかけに(ほぼ)すべて精算できてしまった。残ったのはほんの数冊の小説だけ。これは未練、あるいは思い出の本質部分である。

残った趣味で一生遊べそう

こうして今残ったものは何か。どうも人間への興味のようである。構造的把握を目指して分析的に人間一般を観察したい。高校生の頃から人間への興味はあったのだが、そういう学問(人文学その他)の存在は知らなかった。興味はあるんだけどな〜と思いつつ、なんとなく理系に進み今に至る。VRやAIの研究室に所属してみたこともあるが、教官らが観ているのは科学的対象としての人間だった。私は「生」も混みで観察したい。

いらないものは精算しちゃったので、あとは残りの人生を使って興味に向かうだけである。だいぶ遠回りしたが、読み書きも鍛えたので立ち向かえるようになってきた。でも、もし当時に人文学を紹介してくれる人がいたら人生は変わっていたかもしれない。