しゅみは人間の分析です

いらんことばかり考えます

週報 2023/11/19 料理は気合い、秋刀魚が小さい、ユーモアは距離をとる態度から

11/11(土)日常の回復、料理は気合い

9時に起きたもののソファでなめくじになってた。うねうね。
妻氏発熱事件は終わったが、やっぱり疲れている。非日常ってたいへんだ。ノーイベントグッドライフがよい。

 

気力が沸いてきたら、日常を回復すべく掃除を始めた。片づけ魔法(私だけ使える)を発動し🧹で床を掃く。それからモップ。

クイックルワイパー的なものがなくなってたので代わりにマイクロファイバーの布を使ってみた。埃がよく取れるフワフワのあれ。濡らしてモップにつけると意外とふつうに使えた。これでもうクイックルワイパーの在庫をカピカピにせずにすむ。

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料理をがんばった。昨日食べたフランス料理に影響されている。

「料理をがんばる」といっても変な料理を作るのではない。ただ丁寧に調理するだけである。フランス料理は仕事が繊細なので、そういうものを食べると「丁寧に作るか〜」という気分になる。丁寧さというのは、食材の切り方や火を入れるときの観察。ほんの少しの気配りだが、丁寧さを意識するだけで仕上がりが変わるから料理は不思議だ。

丁寧さは日常のなかで失われる。調理を仕事にしてるなら常に丁寧な仕事ができるのだろうけど、我々の料理は余技である。今や自炊をする人は少ない。疲れてるなか「外に出たくない」とか「外食は味が濃くてやだ」「そんなにおいしいものがない」という欲求を満たすために自炊をする。だから疲れて手を抜き粗雑に作ることもある。たいていあまりおいしくなくなる。

そこで丁寧さを賦活するのが真においしい外食なのだと思う。外食と一口に言ってもピンキリだ。自炊に毛の生えたようなレベルのものもある。たまにはうまいものを食べないといけない。

あとは料理動画もよい。動画でプロの丁寧な仕事をみてたら意識も高まるというものだ。

11/12(日)ミッフィーはずるい、『味つけはせんでええんです』を読んだ

引き続きフランス料理に脳を殴られていて、今度は別の店のパテを食べにいった。

パテに脳をやられています

その帰りにミッフィーのばかみたいなお皿を買った。妻氏が朝食に使うらしい。ミッフィーは顔をアップにしてたらデザインとして成立するからずるい。

おばかプレート

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土井善晴『味つけはせんでええんです』を読んだ。

ミシマ社の雑誌に載っていたエッセイ集。内容は料理論?食についての哲学?なのだが、正直なところ微妙だった。

微妙だったのは内容と文章。どのエッセイも似たような主張をしていて、新しいところがなかった。いつも動画で述べている内容でもある。また、文章が散らかっていて読みにくい。

よかったのは「料理の本質は味つけではなく、素材を適切に加工すること。いらない手をいれないこと」という話。タイトルの名を冠する章はよかった。

土井せんせー本人も仰るように、書きものが苦手なのはよくわかった。苦手な媒体で、背伸びをして食哲学を語るのは大変なので、具体的な料理の話を書いたらよいのでは、と思った。『一汁一菜でよいと至るまで』はおもしろかったので、背伸びが原因で読みにくくなってるのだと思う。料理というものはどこまでも具体的な営為なのだろうなあ。

11/13(月)パテを朝食にしたい、秋刀魚が小さい!

急に寒くなり同僚たちがバタバタと倒れていく。一週間で15℃くらい下がってるのだから無理もない。

我が家もモルモット用ヒーターに火を入れた。ついに冬である。

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頭の中がパテでいっぱいなので成城石井で買ってみた。薄いのに千円くらいして高い。

パテは朝食にする。冷えていてもおいしいので、朝食に向いていると思うのだ。それにタンパク質が豊富。パンにも合うので、朝はパテとパンだけ食べれば昼まで元気にすごせるのでは、という魂胆。

 

朝食メニューとして有益ならば、そのうち自作せねばならない。成城石井で買ってばかりいると高くついて仕方がない。

レシピは意外とシンプルで、鶏のレバーを叩き挽肉とともに練り、香辛料とピスタチオを入れて焼くだけ。型はiwakiのパウンド型を使う。三國シェフが使ってた。動画概要にはテリーヌ型と書いてあるが、これは間違いである。明らかにiwakiの製品と同じものが使われている。

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秋の実績解除として秋刀魚を食べた。脂が乗っていてうまかったが、骨が多くて食べるのが面倒だな〜と思った。

なぜなら秋刀魚が小さくなっているから。小さくなると小骨が取りにくい。気にせず飲み込めばいいのかもしれないが、そういうワイルドさは私にはない……。本来は、串を打って囲炉裏で焼き、かぶりつくように食べるものなのだと思う。箸でちくちく骨を避けながら食べるようなものではない。Googleで検索すると「魚を手づかみで食べるのはマナー違反」とか言われるけど、無視して手づかみで食べたらいいと思う。そういう形をした魚である。

11/14(火)ユーモアは距離をとる態度から、フリーレン魔法の謎挙動

業務ですったもんだがあり、寒さで人々が疲れていそうなのを感じた。皆さん冷えに気をつけてください。

どうでもいいけど「すったもんだ」と「ずんだもん」の音が近くて楽しい。

 

朝食実験中のパテは案の定おいしかった。パンと調和する。これは常用候補か。

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先日「ユーモアがないと文章が書けない」「ユーモアとは余裕のことである」と書いた。

余裕というか、距離を置くのが大事である。現実から距離を置いて、近づきすぎずに観察しているとユーモア的な態度がとれる。

ということを考えなおしていたとき、『徒然草』を読んでいたら似たようなことが書かれていた。第百三十七段の評より引用。

(兼好は)何ごとであれ「良き人」たる教養人は、対象と距離を置くことによって、むしろその本質や価値に肉薄していることに注意を喚起し、逆に対象に近づけば近づくほど、そのものを損なうことを述べて、その解答としている。

このような観点は、ドイツの哲学者・カントの『判断力批判』に書かれている、対象をわがものとせず、静かに眺める「趣味判断」の態度とも通じるものがある。

訳者によると、カントも同じようなことを言ってるらしい。昔から考える人は距離を大事にしていたのだろうか。

そういえばインターネットの古いウォッチ文化にも「観察対象に直接触れてはならない」という鉄の掟があった。古いインターネットはユーモアだらけだったので、距離を取れる人が多かったのだろう。

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フリーレンというアニメのあるシーンがまわりで評判だった。調べてみると「「魔力が高いほうの命令に従う魔法」を使う敵に対して、魔力が低いふりをすることで返り討ちにした」という筋なのがわかった。

TCGやゲームみたいな効果だな〜」と思ってるうちに、ちょっとこの魔法の挙動が変なのに気づく。

この物語世界では「「人を殺す魔法」が発明されて数十年後には「人を殺す魔法」が解析し尽くされて防御できるようになった」という設定が登場する。つまり魔法は自然法則の一部であり、どこでも誰でも再現する現象であるようだ。

服従させる魔法」の動作は「魔力が低いほうが服従させられる」という挙動で一貫はしてるのだが、実は別の例外挙動も考えられる。例えば「「服従させる魔法」の発動者より魔力が高い相手の意思は奪えない」とか。というか、こちらのほうが自然法則的な魔法としては自然だと思う。単に物語の都合上そうなっただけではあるのだろうけど、「服従させる魔法」は自然法則的魔法ではなく「神か何かと契約して権限昇格している魔法」と解することができる。だから発動主体が誰かによらず効果が強制される。「服従させる魔法」だけ魔法のルールが異なっているのだ。

というクソリプめいた疑問を覚えたものの、設定を追加したらどうにでもなると思う。物語はTCGではないので(バレなければ)ルールに一貫性がなくてもよい。なので、真面目に批判をする気はなくて、ただ「ゲーム的だな〜」と思った次第である。

11/15(水)下僕を呼ぶ声、欲望は秘められていてほしい

深夜、目が覚めたらモルモットがPUIPUIしてるのに気づいた。いつもは深夜に鳴くことなんてないのになんで?

リビングに出てみたら電気がつけっぱなしなのに気づく。私が消し忘れたような気がする。

なるほどモルモット氏は「電気がついている→下僕(私)がいる」と判断したのだろう。かしこ〜い。

期待させてしまってかわいそうだったので、ピーマンを与えてから寝直した。

💡💡💡

30代の恋愛はややこしいという話をよく聞く。そのくらいの歳になると人を見る目ができてきて、ずる賢くなるからなのだろう。

妻氏の同僚もちょうどそのような関係を持っており、「やっとれんわ」となって別れたのち、なぜかくっついたり離れたりを繰りかえしているそうだ。私の知人も似たようなことをやっていて、30代は理想と現実の狭間で苦しむことがわかってきた。彼らは理想のパートナーを求めて邁進し妥協はしないのに、短期的には「実利」が欲しくて「理想的でない」人との関係を維持してしまうのである。

こういう関係はちょっと怖いな、と思う。理性では拒否しているのに「実利」とか「他者への欲望」には弱いところ。恋愛そのものにそういう要素があるとは思うが、それでも「実利」のために他者を求めるのはちょっとグロテスクだ。互いに利用する関係であり、当人同士ではある種の取引になっているのだろう。

「他者への欲望」に衝き動かされる関係は好きにしたらいいけれども、私や妻氏に喋ってくれなくていいんだけどな、とは思う。おもしろさは感じなくはないけども、ちょっと重い、というかある種の下品さを感じる。

 

そもそも「欲望」の発露自体が下品という話がある。これは「他者」「モノ」「自己」どれに向かう欲望でもそうだ。少々ならいいが、多めの欲望表現をみてもあまりいい気分にはならない。これを古い価値観では「下品」と言った。今ではちょっと規範が緩んでいて広告を嚆矢として、世の中下品だらけである。私が古い規範に属しているだけで取り残されていくだけなのだろうけど、それでも下品なものは嫌だなあと思った。この頃話題の「エンジニア年収自慢記事」もそう。彼らは欲が強くてそれを表現しちゃうのである。欲が強いことが問題なのではなく、表現のしかたが問題。

11/16(木)アウトラインとしての仕様書、出奔🐢

お仕事でプログラムを書くときもアウトラインが使えるのに気づいた。これから書くプログラムの概要をアウトラインとして日本語で表現する。すると、日本語で考えてるうちに細かい挙動への疑問が出てきて、プログラムを書く前に問題に気づけるのである。それって仕様書では?はい、仕様書です。

ふつうじゃん、となるかもしれないが私のチームだとそうではなかった。皆忙しくてドキュメントを書きたい人も少ないので「ややこしいところだけドキュメントを残す」ことが多かった。そこだけ守っておけば実際には困らなかったので、今もそういう風潮になっている。

アウトラインとしての仕様書は、日常的に書くものである。ある新機能を作ろうとするならば、必ず書かれる。でも、これまでの「ややこしいところドキュメント」とは違って気軽に書くのが大事。長くても千文字くらい。

あくまで自分のために書きつつ、仕様書という体裁を取ることで将来の誰かのためにもする。仕様書を書くのも一石二鳥なのだなあ、と思った。

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DPZで「シリーズ出奔」という企画連載をやっている。

「ライターが経費で旅行したいだけなのでは」と邪推してしまうが、ちゃんとおもしろいのでおすすめだ。

でも「出奔」という言葉のチョイスはどうなのか。林さんみたいな本をたくさん読んでる人、DPZの編集者たちにとっては読めて当たり前かもしれないが、世間では通じにくい言葉だ。出奔と聞いてもピンとくる人は少ない。別のメディアだったら「シリーズ家出」にしてそう。

でも「出奔」を選ぶDPZだから私はファンなのだよなあ。

dailyportalz.jp

これは夜逃げ

11/17(金)『すばらしい暗闇世界』を読んだ、店構えからわかるものがある

椎名誠の『すばらしい暗闇世界』を読んだ。

何者か知らずに読んだのだが、あとで『岳物語』の人だと知って驚いた。『岳物語』は読みやすくておもしろい本だった覚えがある。

このエッセイ集も文章が上手。かなり上手いほう。エッセイの醍醐味は語り口、文章の巧さが六割くらいである。

ただ、内容はまちまちな感じがした。大当たりの話もあるし、あまりおもしろくない話もある。締切に追われて適当に書いたんだろうな、と感じられた。

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三國シェフが部下を激詰めする動画を見た。新作メニューを試作する様子を取材したドキュメンタリー動画。三國シェフは一般人向け動画ではニコニコしているのに、部下の料理人、ビストロにはとても厳しい。弟子によると、立ち方や手の洗い方などにも口うるさいそうだ。

マイクロマネジメントと激詰めは嫌だな〜、とは思うものの、実際私は店構えで飲食店の善し悪しを判断することがある。店内の照明の暗さとか、キッチンが整頓されてるかどうか、とか。立ち方、手の洗い方はたしかに料理の質に関わるのだと思う。

ここで見ているのは仕事への態度とか性格そのもの。店構えなどから店を運用するチームの性格を見抜き、自分と合うかどうかを判定してるのかもしれない。自分がどういう店構え、空間が好きかを把握しておくと良さそうだ。

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