穂村弘が引用していた中井英夫の言葉で「小説は天帝に捧げる果実。一行でも腐っていてはならない」というのが良かった。執筆の動機は、読者に何かを届けようとか伝えようと思って書くのではなく、天帝(みたいなもの)のために文章をひたすら研ぎ澄ませて完成度を上げてそれを捧げること、ということ。穂村弘もそうらしいし、僕もわりとそういうタイプだ。そうは言っても全く読んでくれる人がいないと寂しいのもあるんだけど。
私も妻もこのタイプだ。私は哲学?でやっていて、妻は漫画でやっている。
なんか作ってる人にとっては、自分にとって最高のものを作るのが第一義であって、他人からの評価は副産物にすぎない。と、思うのだが、この姿勢を貫くと他人には理解できないものを生み出すかも。でも、全然それでよくない?金のためなら迎合しないといけないけど。
現実的には、まねごとから初めて審美眼を育て、他人の作品をみて価値観を磨くことが多い。なので、自然と他人にも理解できるものを作りがちだと思う。でも、その価値は審美眼を育てた人にしか伝わらないかもしれない。phaの言うとおり寂しいのだが、それはもう仕方のないことだと思う。
人間は何をやっても最後に死ぬのだが、死ぬまでの暇つぶしにせいぜい自分にとって最高におもしろいものを出力したいと思って生きている。
ちなみに、引用元の「どうして書くの?」はなかなかおもしろい本だった。穂村弘の言葉への潔癖さ、戦争経験世代へのコンプレックスには疑問があるけども。
追記
自分を満足させるものを作る、つまり趣味として作るのと、客を楽しませる態度、プロ性は両立する。趣味を求めるからといってアマチュアレベルになるとは限らない。