しゅみは人間の分析です

いらんことばかり考えます

週報 2023/01/01 『ぼっち・ざ・ろっく!』をみた, モノを介在したコミュニケーション

小さな風邪をひいていた

25日あたりに小さな風邪をひいていた。少しだけ喉が痛んで熱は出ないものの、だるくて無気力になる体調不良のこと。

鍼の先生によると冬には小さな風邪を何度もひいているものらしい。小さな風邪を放置するとその辺のウイルスにやられて発熱する。

冬に無気力になったらすぐに休むのが大事である。葛根湯が効くのもこの段階だ。熱が出てからでは遅い。

『ぼっち・ざ・ろっく!』をみた

連休に入って時間ができた。すこし気になっていたアニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』をAbema TVで全話みた。ちょうど無料公開中で助かった*1

 

以下ネタバレを含む。

アニメスタッフが行間を埋めまくっているよいアニメ化

このアニメ化では原作の2巻中盤までエピソードが消化された。1巻と半分である。おかしくないだろうか?ふつうの漫画だと4、5巻まで進むことも珍しくない。どうなっているのか。

第5話 12分

なぜこんなことが起きたのかというと、原作がもともと濃密だからだ。一コマあたりの情報量が多い。しかも行間が省略されている*2。例えば第5話、姉試験ライブ前の自販機シーンは、原作だとこれだけなのだ。

第1巻 p81

アニメ版の後藤と虹夏の会話の本質は、たしかに原作で表現されている。しかし、会話の「間」や後藤の苦悩は明に描かれていない。四コマというメディアの制約でもあろうし、後藤がいちいち悩むのは自明ではあるから。でも、そこを丁寧に映像表現にしたのがアニメスタッフの偉いところだ。よいアニメ化とはこのことである。

ライブで「覚醒」することってあるの?

フィクションだと主人公がよく「覚醒」する。「覚醒」は現実でも起きるのかな?という野暮な疑問が出てきた。

よくあるのは偶然うまくできるケース。バトル漫画ではこの流れが多いと思う。修行中に偶然うまくいって、それをモノにすることもある。偶然うまくいったものを成果に繋げるのは、現実でもよくある。ペニシリンの発見などが好例。でも、『ぼっち・ざ・ろっく!』の「覚醒」は偶然うまくいったわけではない。

第8話のライブ中覚醒に関しては、次のような解釈はできる。後藤は練習量が多く、他のメンバーと違って初ライブでもまわりをみる余裕があった。そのため、予定外のギターソロで他メンバーを刺激し意識を揃えることができた、と。逆に第12話では喜多に冷静さと余裕があった。

となると、ライブパフォーマンスでの「覚醒」を支えるのはふだんの練習量と、本番での冷静さ、なのだろうか。これならば現実でもありそうである。

雑感

www.youtube.com

モノを介在したコミュニケーション

昨日まで冬コミ、C101に参加していた。夏と同様に妻氏のサークルの手伝いである。

 

同人誌の対面販売はただの買い物ではないな、と思った。どうしてもコミュニケーションが発生する、というかコミュニケーションが目的で本を刷っているところがある。コンビニでのほぼ自動化された処理の対極にある。

本があれば会話ができる。どれを買うか、どこまで持っているのかの確認、お金のやりとり、そして最後に一言軽い感想、応援コメントをつけたり。会話がほとんどなくても、立ち読みをして全部買っていかれると、それだけでも伝わるものがある。言葉すらいらないことがあるので、広い意味でのコミュニケーションである。

だから新刊は必ず持っていかないといけないのだな。我々のコミュニケーションの苦手さをモノによって補っているところがある。新刊がないと、何を話したらいいかわからなくなるし、すぐに会話は途切れてしまう。新刊によって作者と読者はつながっているのだ。

8時半についた

古いスマートフォンが現役でフロントエンドエンジニアは困る

コミケ会場でiPhone 7らしき端末が使われているのをみた。それなりの数が動いていた。古いiPhoneスマホ向けWebサービスを作る人にとっては天敵で、たいていSafariは謎のバグを抱えている。古いSafariのためにたいへんなデバッグをして特殊なプログラムを書くことになる。

まだ世の中でたくさん動いていることを知っておそろしい思いをした。どうかOSのバージョンは最新まであげて、サポートが切られたら買い替えてほしい。

ううう。

スピノザ』を読んだ

サービス: ○, 内容: ○

國分先生の新しい主著。スピノザ修論時代からの専門らしい。スピノザ生涯とその哲学を俯瞰し解釈する本なのでちょっと難しい。『暇と退屈の倫理学』『中動態の世界』みたいなわかりやすさはない。ゴールが不明瞭な本ではある。

でもおもしろかった。「真理経験は数学の証明みたいに、自分で示す体験をすることで得られる」「古い言葉の理解を深めることで、古い言葉で新しい概念を表現できる」というくだりがよかった。また、コナトゥスと変状のモデルはふだんの内省に便利である。

*1:12/31に無料期間は終わっている

*2:逆にサービスは微妙で読みにくくなっているとは思う

年報 2022年 週報を一年続けた

週報ふりかえり

昨年の12月に週報を始めた。毎週土日に、一週間の出来事や雑感を三千字程度の記事にまとめる試み。それを一年続けてみた。

なんではじめたの?

  • 某漫画家が週報で近況共有をしていたものの真似
  • 昨年末に一年分の日記を読もうとして多すぎる!無理!と思った
  • 日記ではない公開の記事もあれば文章の練習になるかなと思った

という事情があった。

年末のふりかえりはやりやすくなった。週ごとの記録だと、ほどよい粒度で当時の出来事や気持ちを思いだせる。でも、52本の記事を読み返すのもまた大変だった。四半期ごとに読むのがよさそうである。

文章の練習にはなったと思う。最初は二日かけて書いていたが、今は下書き、清書あわせて二時間くらい。シンプルに短く書く意識も芽生えた。テキスト筋のトレーニングとしてよかった。

テキストエディタの変遷

そんな週報だが、テキストエディタには悩んだ。一年かけて

と、変遷してきた。今は日記をアウトライナーで書き、一週間ぶんの日記を読みながら紙に下書き。最後にUlyssesというテキストエディタで清書にしている。

作業環境の変遷

書きものをする環境も課題だった。机では集中できなくてソファで書いてみたり、カフェに篭ったり。ブレークスルーは「空間には文脈がある」という発見だった。まじめな作業をする場とリラックスする場を分けたらうまく作業ができるようになった。

発見と反省

週報を読みかえしたところ、以下の発見と反省があった。

初夏はアクティブ

5月や6月は新しい料理に挑戦したり、物を買ったりと活動的なのがわかった。8月や12月、1月はだるそうにしているのだが、気候がいいと元気になるらしい。5月の過ごしやすさを考えると納得できると思う。また、同様に10月も精力的だった。これも気候。夏の疲れがあって5月ほどではないけども。

このように、自分の一年の調子を把握できた。新しいことに挑戦するときは初夏がチャンスだ。ゴールデンウィークを費やして初速を出すとよいだろう。

ゴールを意識して書く

何が言いたいのかわからないテキストがちらほらあった。省略が多かったり、適切な段落分けがされていなかったり。何を伝えたいのか意識をして書くのが大事だとわかった。ゴールがないとすぐに筋は混乱してしまう。

愚痴をやるならおもしろく

愚痴のテキストもあった。共感を求めるならともかく、頭の整理に書いていただけなので公開すべきではなかった。愚痴をやるならおもしろくすべきだと思う。

2022年ふりかえり

ここからは週報を使って一年のふりかえりをする。

週報によく出てきた話題を

  • 時事
  • プログラミング
  • 料理
  • 読書
  • 哲学・人生の考えごと

にジャンル分けする。あまり社会には関心がないほうなのだが、大きな事件が起きると影響を受けるようだった。

時事

年初はウクライナ戦争が話題だった。1月下旬からきな臭くなり、2月にはついに勃発。生きているうちに戦争らしい戦争が起きてしまった、という衝撃を受け、なぜロシアはこんな判断をしてしまったのか西側諸国との違いはなんなのか、と考えていた。

3月には電気が足りなくなった。きっかけは関東の地震。夜に都内で電気が止まった。停電したその瞬間に友人と通話しており、会話が途絶えたのを覚えている。その後も発電機が足りない騒動が起きた。夏や冬に電気が足りなくなるかも、と不安を覚え太陽光パネルと巨大蓄電池を買って災害の備えとした。

4月はヤクルト1000がよく売れていた。私も睡眠には関心があり、コンビニで見つけては買って帰る生活をしていた。今も気になっていて、できれば入手したいのだが最寄りの店では見かけなくなってしまった。レディと契約するといいのは知っているが、そこまででもないのが悩ましいところ。

今年は同人イベントも復活した。妻氏のサークルが数年ぶりに関西コミティアに参加し夏コミでも頒布をしたコミケは台風が来ていた覚えがある。シャッター近くで風が強かった。外で並んでいる人たちが雨に降られたり。

9月末にはSplatoon3が発売された。ヒーローモードが難しすぎる、と週報に書かれている。その後、イカはサーモンランばかりやっている。

10月にはお絵描きAIが登場して騒動になっていた。私は生成する側で楽しんでいた。そのためにGPUを買ったりもした。ついこの間までテキスト生成AIも話題に。きっと来年もAIにふりまわされることだろう。

プログラミング

仕事でコーディング・レビューをしていて気づいたことや、アウトライナーを自作して思ったことが書かれていた。

コミットが新しい順に読むとレビューしやすい(ことがある)」と「入出力をロジックから遠ざける」が仕事での発見。

アウトライナーを作っていた頃、以下の記事を書いていた。

料理

もっとも量が多かった話題。やっぱり料理が好きらしい。元気な時期にはいつもと違う料理をしていた。

など。ほとんど一時のブームで終わってしまったのだが、ザワークラウトは今も続けている。妻氏が好んでおり、食べているとお腹の調子がよくなるらしい。

調理技術・知識も身につけていた。

特に「蒸し茹で」が大事なスキルになった。これは土井善晴の『一汁一菜でよいと至るまで』という自伝に書かれていた調理方法。鍋に少量の水と野菜を入れて火にかけると、ふつうに茹でるよりもすばやく火が入る、という技術だ。一汁一菜弁当で用いている。朝は時間がないので。

家業の同人漫画 https://manga-no.com/works/104ce380aaf95ef6064

読書

読書も大事な趣味である。今年もよい本をたくさん読めた。

積んでる本からてきとうに読んでいるので、今年発売でない本も混じっている。基本的には哲学・思想の本が多く万人に勧めるものではないが、「みんなのユニバーサル文章術」「現代思想入門」はわかりやすいのでおすすめである。

哲学・人生の考えごと

人生とか生活、人間について考えたのが以下の記事。

今年は「偶然性」がテーマだった。いかにして偶然的で所与な自分を受け容れ向きあうか。判断しきれないところを運に委ねるか。などなど考えていた。おおよそ結論は出ていて、自分の性質は事実であり内省によって分析するしかない、決めきれないことはコインに決めてもらったらよい、というものである。

結び

以上が今年のふりかえり・まとめである。

週報はやってよかった。自分の備忘録が主目的だが、インターネットにコンテンツをおすそ分けすることも意識している。

来年も続けるつもりである。よいお年を。

おまけ

お気に入り記事集

  1. インターネットに情報を増やしたい
  2. 土井善晴氏の観察から出てきた大阪文化の分析
  3. 悪意の出てこない物語
  4. 性差と身体
  5. 日本でモルモットは野生化できるのか

週報 2022/12/25 そうめんをほどいて収納する, お花・植物・ねずみちゃん ほか

免許更新のオンライン講習が便利だった

これこそがDXだと思った。ゴールド免許更新の講習が家で受けられるのだ。使うのはスマホマイナンバーカードだけ。免許更新センター現地での事務作業は20分。入所してから30分で新免許証を受けとることができた。

ただし以下の注意点がある

  • オンライン講習のサイトへの誘導が貧弱なので、警察署HPではなくGoogle検索で見つける
  • オンライン講習へのログインにマイナポータル連携が必要だが、エラーが出てリトライが必要になる
  • オンライン講習の動画を観ながら、途中で3回自撮りをする
  • オンライン講習を受けた場合の(京都駅前での)更新手続きは10時半からである(早めに行ったら追い返された)

というふうに、罠はいっぱいあるが便利ではあった。使わない手はない。

サーモンランの考え方

1回のゲームのなかに無駄な時間はない。これがポイントだと思った。つまり常に盤面を有利にするような行動をすること。オオモノが出てこないからといって遊んでいてはいけない。シャケ・コジャケを撃滅したり、コンテナ周辺の治安を維持することで盤面は優勢に傾く。こうやって有利になる行動を積み重ねるとWave3までクリアできるようになるのだ。

というかこれってゲーム一般の性質だ。サッカーとかにも適用できそう。ミクロな行動で有利さを積み重ねマクロな結果を動かす。将棋もそう。

ゲーム一般の考え方は言語化できたのだが、実際にそのように動けるかは別の話である。具体的な立ち回りは練習するしかなさそう。

そうめんをほどいて収納する

好きな食べ物第一位はそうめんである。うどんやラーメンではなくそうめん。小学生の頃から一貫してこうだった。今や朝食にそうめんを食べることすらある。箱買いもよくしている。

そうめんは束だと扱いにくい。夏場にそうめんを食べるとき、1束だと少ないが2束食べたら多かった、という経験をした人も多いだろう。朝食や間食としてのそうめんも1束ではなく1.5束食べたいことがよくある。

束なんてものがあるのが悪いのだ、ということで紙テープを外してパスタケースに入れて保管してみた。

自由なそうめん

そうめんを食べまくっていると乾麺の量感覚は勝手に身につく。見たらわかる。それでも困ったら重さを測ればよい。

本棚に食糧をいれる悪癖があります

また、見た目もおもしろい。立っている乾麺をチラ見するとパスタかな?と思うのだが、よく見ると白いのだ。違和感すらある。

今回使ったのはOXOのケースだった。ヨドバシカメラで見つけて買ってきた。見た目も機能もよいケースだったのでおすすめである。

お花・植物・ねずみちゃん

妻氏と雑談をしていたら「あなたの無害さはお花・植物・ねずみちゃんのようなものなのだ」と言われた*1。これはどういうことかというと、ふつうの人は感情を撒き散らして生きているものだが、私はそういったドロドロしたものを抱えておらず、かつ、垂れ流すこともないから家にいても平気なのだ、という話である。ただそこに生きていて、感情的なエゴの発露をしない、という点でペットのスナネズミプランターの植物と同じカテゴリーに入れられている。決して悪い意味ではない。

感情がない?

感情がないということはない。映画やノベルゲームで感涙したことはあるし、体調不良で怒ることはある。しかし、かなり安定していて情緒が揺さぶられることが滅多にないのは事実である。

なぜ安定しているのか?

他人の感情の影響を受けにくいからだと思う。アファンタジアであることが関係している。

例えば、知り合いのXさんがSNSで家族の愚痴をツイートしているものとしよう。おそらくファンタジア、ふつうの認知の人であれば、怒って愚痴る知人Xの姿、音声が脳内再生されると思う。その人の怒っているさまがありありと描写されるから、その感情からダメージを受ける。

しかし、私はこのイメージができない。脳内で人間の姿形や顔、音声が再生されることはない。ただ知り合いであるXさんが、何らかの事情で怒っているのだなあ、と思う。事実をそのまま受けとる。このように、他人の感情の発露を見ても影響はほとんど受けない。だから安定している。

感情の影響を受けないのはいいことでは?

もちろんいいこともある。便利だとも思っている。特にこのSNS時代においては。

しかし他方で、影響を受けないことは共感能力が乏しいことも意味する。共感は示せないことが多いし、日常的な感情の発露も少ないので、冷たくて無神経な人間だと思われることも多そうである。まあ実際にそうなのかもしれないのだが、能力的にイメージできないのだからどうしようもない。

家に落ちてた落書きです

共感ってなに

共感をするには、相手のイメージをビビッドに描く必要があるのだと思う。ただの情報処理ではない。脳内での再現、追体験が必要なのだ。

共感能力を支える脳内再生、イメージの能力は人によって異なる。アファンタジアでも多少はイメージできる人がいる。私のように味、体性感覚、皮膚感覚、イメージ、人の声、すべてが再生できない人もいる。また、イメージ能力自体はあっても、その鮮明さが人によって異なる。頭の中に詳細なイメージを描ける人、曖昧でブラーのかかったイメージを描く人、さまざまである。

であるから、共感能力はもともと人によって大きく異なるものなのだろう。インターネットで言われる「共感」は「共感を示すこと」まで含意されることが多いので、感受性と言うのが正確だろうか。感受性は人によって大きく異なる。これなら意味が通りやすいだろう。そのうえで、共感を示すのか、共感を示したふりをするのか、は各人の選択である。

よかったツイートオブザウィーク

インフラを整えると生産性があげられる

情シスなんかはまさにこういう仕事をしている。インフラそのものだけでなく、インフラを整備するための予算の余裕も大事だろう。SaaSの導入とか。

文化的な側面として、Wikiの使いやすさがアウトプットの量を決めるとかがありそう。UIはバカにならない。UIのよさもインフラである。

アメリカの謎の冗長文化

どの分野でもアメリカの本だとこの傾向がある。本当に困っている。

*1:お花と植物が同じカテゴリーでは?とツッコんだが、語呂がいいのでこのままになった

週報 2022/12/18 猫背の克服, 読書感想, 近況 など

近況

日が沈まないうちに家事をする

先週の週報で「暗くなってから移動すると落ちこむ」と述べた。同様に、土日の家事も明るいうちに片づけるのがよいことがわかった。食料品の買い出しは昼間からやるし、調理や掃除も夕方のうちに。そうすると夜は休むことができる。なにより日が暮れてから家事をするとなんだか焦るのだ。土日も明るいうちに仕事を終わらせるのがよい。

自転車のメンテナンスをした

通勤にロードバイクを使っている。学生時代、たしか2011年頃に買ったもので、当時のTwitterの知り合いにそそのかされて買った。下宿と工学部のキャンパスが数km離れていたという事情もあった。その後、京都に引っ越したり就職をしたりと変化はあったが、この自転車は使い続けた。就職をしてお金に余裕ができたらメンテナンスに出してみたり。

先日、この自転車のタイヤがパンクしてしまった。自転車屋に持っていくとタイヤがひび割れているのを指摘され、前後のタイヤとチューブを交換することにした。修理から戻ってくると走り心地が全然違うのに驚く。なるほどタイヤは消耗品である。11年も使い続けるものではない。

また、ヘルメットも買い替えた。ヘルメットの耐用年数は4年程度らしい。これも11年使っていた。たいへん危険である。ヘルメットは潰れることで頭部を守るのだが、潰れるクッション部分が経年劣化するようである。タイヤといいヘルメットといい、肝心なところをメンテナンスしてなかったな、と思った。

残業サポート

妻氏の仕事が佳境らしく、連日残業である。帰ってすぐ温かい夕食が食べられるとよかろう、と思って帰宅するタイミングを狙って調理をしている。自分のぶんは先に作って食べる。二度手間で面倒では?と思われるかもしれないが、最適化された一汁一菜システム*1のおかげで調理は5分だけである(加熱は10分かかるが放置でいい)。5分投じるだけで用意できるならそうしたほうがよい、と思って毎日やってみた。

年末ふりかえり

準備中。今年からは年報と呼ぶべきであろう。1年ぶんの週報を読んでふりかえっている。

戦争準備

どうやら数年以内に戦争が起きるようだ。最悪の想像までしたあと、命が残ればいいかな、と思った。労働ができればどうにでもなる。

読書

『現実逃避してたらボロボロになった話』

サービス: ○, 内容: △

膵炎に興味があったので読んだ。序盤はおもしろかったのだが、後半はダメだった。人生切り売り系はおもしろくするのが難しい。ただ自分の内面をひけらかすのはサービスではないのだ。

自己愛について考える

永田カビの漫画を読み、自己愛が問題になる人は多いな、と思った。知り合いにも自己愛に問題を抱えた人がちらほらいる。これ自体はおもしろい問題だと思って、自己愛および愛一般について考えてみた。

手短に結論を述べると「なんでもお金で買える社会は、なんでも取引になることを意味する。必ず対価が要求される社会において、他者から永続的な愛をもらえる状況はありえない。愛は自分で自分に与えることしかできない」である。この論考は清書が面倒で捨ておかれているが、なんとか年末休暇に書きたい。

『タイのひとびと』

サービス: △, 内容: △

旅物エッセイ。あまりおもしろくない寄りのふつう。

シリコンバレー最重要思想家ナヴァル・ラヴィカント』

サービス: ×, 内容: ○

知人が褒めていたので読んでみた。たしかによいところもあるが、全体的に説教くさい本だと思った。アメリカ的な上昇志向と冗長な語り口も鼻につく。あまりおすすめはしない。

よかったのは中盤。「複利は生活にも適用できて、毎日の積み重ねが結果につながる」「基礎知識、基礎教養を身につけてシンプルに世界をとらえる」という主張には同意できた。以下の幸福の定義もよかった。

私にとっての幸福は欲望のない状態、とくに外的なものへの欲望がない状態だ。欲望が少なければ少ないほど、物事をあるがままに受け入れることができるし、心が雑念で揺れ動かなくなる。
p146

猫背の克服

ついに猫背を治した。

猫背を治すとはなにか。正しい姿勢を理解し、その姿勢を維持したまま歩けることである。

きっかけは月一の社交ダンスレッスン。指導をする先生の姿勢をみて、何が正しい姿勢なのかを理解した。その後、正しい姿勢で歩いていたら、猫背が治っていることに気づいたのだ。

正しい姿勢とは?もちろん言葉で説明するのは難しい。無理に表現をするならば「身長計測の器具に背中を沿わせる感じ」である。少なくとも胴体の上半分はそうするのが正しい。上半分は、と述べたのは下半分は違うからである。背中を反らせすぎると反り腰になって腰痛を招くので、お腹はドローインで締められていないといけない。胴体の上側は仮想的な棒に沿わせ、お腹は常に締めておくのが正しい姿勢である。こうすると、脊椎のカーブも理想的な形になる。

 

克服するのに6年かかった。最初はジムの姿勢・歩行指導を受けた。今ダンスを習っている先生が姿勢指導のレッスンを開いていて、月1回の指導を1年くらい続けた。1年か2年経った時点である程度姿勢はよくなり、知人から別人と間違えられるようになった。しかし、最後のコツを習得するのに4年かかった。このコツは非常に微妙な違いで、他人からみたら胸骨の角度が5°変わったかな?というくらいだと思う。でも、この細部を身につけない限り猫背が治ったとはいえない。頭は重いので正確に胴体の上に載せていないと首は凝ってしまう。

そんなの気軽に治せないじゃん、と思われるだろう。しかし姿勢とはそういうものだ。数十年かけて培った癖なのだから変えるのには数年かかるのも不思議ではない。

京都付近に住んでる方には松村先生を紹介できるのだが、他県の方であれば『日本姿勢と歩き方協会』に所属するトレーナーを探すとよいのではないだろうか。

shisei-aruku.com

*1:前日にタッパーに詰めておいた野菜を煮る、魚は塩をかけてけむらん亭で焼く、米はタッパーに詰めたものをレンチン

週報 2022/12/11 明るいうちに帰りたい, 話を聴くのは難しい

週報 2022/12/11

明るいうちに帰りたい

暗くなってきた。もう冬至である。

このごろ自転車通勤を再開したのだが、暗くなってから帰ると気持ちが落ちこむのに気づいた。朝は寒くても爽快な気分で漕げるのだが、帰りは疲れと暗さで嫌になる。徒歩と電車の通勤でも同じで、そもそも暗いなか移動するのが嫌いらしい。たぶん夏は問題になりにくい。

これもすべて近代が悪い。電気によって人間はいつまでも働けるようになった。太陽をまったく無視して深夜まで働ける。前近代であれば、仕事は日が出てから沈むまでだった。夜は寝る時間である。

と、言いつつ夜にはゲームや読書をする。電気はありがたい。

要するに時間管理された労働とそれに伴う通勤が嫌なだけである。

『ええかげん論』を読んだ

mishimasha.com

土井先生と中島先生の対談本第二弾。前著の『料理と利他』がよく売れたのだろう。というかふつうに二人が仲良し。

内容は「一汁一菜によって日常を整えましょう」「『ああすればこうなる』の近代合理化精神批判」「守破離によって人為からはなれ、偶然性の肯定へ至る」など。いつもどおりな話もあるし、新しくておもしろい話もあった。まあまあおすすめである。

ただ、最後の章が説教くさかったのが気になる。近代合理性(現代社会)を批判するとき、どうしても説教じみた態度になることは多い。私もやりがちである。しかし読者へのサービスとしてはないほうがいい。という点で、最後の読み味が微妙ではあった。

p169にこんなことが書かれていた。

中島 土井先生とお話をさせていただくようになって、自分で料理をするときに、どんどん 素材に任せるように、調味料をあんまり使わないようになり、かつ劇的に変わったのは、味噌汁から出汁を抜いたところでした。その味にずっと馴染んでくると、外食するとき、つらいんですよ。味が濃く感じて。どんどん外食の量が減っていく。

土井 一汁一菜のような基準をもって、料理して食べるという暮らしを実行していると、外食に行く理由がなくなってきます。それに感性がよくはたらいて、よく気がつくようになりますよね。自分の体を傷つけるものや、食べなくてもよいものを食べようと思わなくなると思います。

これは私も思っていたことである。一汁一菜を毎日やっていると、舌がチューニングされるのだ。外食は味が濃くて毎日食べられるものではなくなった。我が家だけの現象かと思っていたが、どうやら一般性がありそうである。

評価の季節

大ボス*1からの評価コメントに「同僚にすばやく頼るといいよ」と書かれていた。たいへん耳が痛い話で、私は(ある程度)一人で考えて手を動かせるがために人に頼らないところがある。最近になってようやく頼るようにはなってきたが、それでも頼るのが遅い。頼ると他人の仕事を止めることにはなるが、チーム全体の効率を考えるとさっさと頼ったほうがいい。

大ボスはよく人をみているな、と思った。

いかにして生き残るか

www.youtube.com

この動画がよかった。50分もあって長いのだが内容はおもしろいのでおすすめである。
主題は殺伐としてきた社会状況の分析と、どうやって生き残っていくか。みんな気になる話題だと思う。

動画の中盤に「自分の畑をもっておいてそれを耕す」「作品は一つ作って終わりではない」という趣旨の発言が出てきた。これは2019年のこの記事で「ひと鍬いれる」と言っていた考えである。毎日ひと鍬入れることを念頭に読書と日記、そして週報をやってきたが、自分の畑もそれなりに育ってきた感じはしている。妻氏も漫画を描き続けており、それぞれの畑を耕している。これでよかったのだな、と安堵している。

話を聴くのは難しい

業務で専門的な会議をしているとついていけなくなることがある。集中力の具合や雑音にもよるのだが、気を抜くと置いていかれる。幸い議事録があるので致命的には困らないのだが、日本語リスニングに難があるのだろうか、と不安になることもあった。

とも思ったのだが、どうも妻氏も同じで、同僚の話を聴くのは難しいという。さらに、妻氏が同僚に聴いたところ、半分くらいは話を聴くのに難しさを感じているようだった。

 

なぜこんなにもリスニングに問題が出るのか?と考えたところ次のような仮説が浮かんできた。

まずは、聴きたいレベルに個人差があること。正確に聴いて意味を理解しようとするほど、ノイズに弱くなる。気を抜くとついていけなくなってしまう。私や妻氏がこのタイプである。一方で、てきとうに聴いてわかった気になる人もいる。そういう人は、リスニングに難はない、と言うのである。これは実感にも合っていて、饒舌で話があちこちへ飛ぶ人ほど人の話を聴いていないことが多い。ただ思ったことをまくしたてて、相手が反応を返してくれるから会話が成り立っているように見えるのだが、饒舌な側は話を聴いていないのである。まじめに聴いているほうがサービスをしている状態。割を食っている。

また、ふつうの人は喋るのが下手、という話もある。私の経験としては、大学に入ってから講義を聴くのが難しくなったように思う。それも当然で、大学の先生は教育者としての教育を受けていないのだ。学生によく伝わるように喋るテクニック、サービスの技術を持っているとはかぎらない。持っているのは予備校教師や義務教育、高校の先生だけである。あるいはそういう教育を受けた人、才能がある人。同様に、職場の同僚もわかりやすく喋る技術を持っていない。だから聴きとりは難しいのだ。

というわけで、職場で、公的空間で聴きとりが難しいのも仕方のないことだと思う。たしかにAPD(聴覚情報処理障害)という障害はあるし、ワーキングメモリの量などの認知的な問題で聴こえが悪い人もいるとは思う。しかし、それだけでない原因として、素人の喋りの下手さは挙げられると思う。たいていはみんな素人なので責めるものではなく、諦めて話を止めて聞き返すのがよい。聞き返されて腹を立てるような人は、自分の技術の問題だと思って反省すべきである。

*1:部長級上司

週報 2022/12/04 ドウが爆発して妻氏が飛び起きる, 認知メディアの多様さ, インターネットで消耗しないために

雑記

寒いとよく眠れる

12月。冬になった。いきなり1℃である。

寒くなって、寒いとよく眠れるのを思いだした。動物は冬には寝るものである。そういうものだと思って好きなだけ寝てしまえばいいのだ。

ドウが爆発して妻氏が飛び起きる

exploding

土曜日の朝、ふとワインセラーを眺めたらパン生地がパンパンに膨らんでいるのが見えた。「The dough is exploding」と伝えたら妻氏は飛び起きたのだった。パンづくりで過発酵は避けたいものらしい。

IOを遠ざける

IO(入出力)をロジックから離しておくのは、アプリケーション実装の鉄則である。Clean Architectureが有名。業務でリファクタリングをしていたらロジックとIOが密結合しているのを見つけた。切り離すと見通しがよくなった。

IOはファイルシステム操作や通信だけでない。UI描画もIOだ。UI描画は、画面への出力、人間への出力であるとも言えるし、実際にプラットフォーム固有の面倒さが出てくるレイヤーである。具体的になるほどややこしいのだな。

だからアプリの中核的なロジックはピュアにしておいて、IOは脇に追いやる。プログラムの結合の構造としてそうしてもよいし、IOを抽象化する手もある。Goのio.Readerもそうなっている。抽象化をすると、結合は減らせる。

『食べることの哲学』を読んだ。

sekaishisosha.jp

文章が上手でおもしろい本だった。倫理学的な観点から、食べることの問題をいろいろ論じている。食べることは人間性と動物性が交わるところであり、人間は食べないと死ぬ、生物を殺し続けなければならない、という問題意識からはじまる。

ただ、終盤はちょっと議論が雑だった。食べることの哲学に結論を出すことは要求しないのだが、もうちょっと最後のほうの読み味を丁寧に構成して欲しかった。

エイヤで議論を進めて全体像をわかりやすくするのは檜垣先生の魅力ではありそうなので、トレードオフなところがあるのかもしれない。おもしろいのは間違いない。

よかったところの引用

ヘルシンキにいったときも、目の前の会社帰りとおぼしき二人は、立ち席の丸机に陣どって、ほぼ何もしゃべらず数時間ひたすらビールだけを飲んでいた。何も食べずに、無言で、である。すさまじいなとおもった。

p.169

欧州は北にいくほど食文化が貧しい話。

認知メディアの多様さ

知り合いのプログラマたちがChatGPTで遊び始めた。有名な例はこの記事。

結城浩とChatGPTの対話 · GitHub

これを読んで、AIに生成された文章は読めないな、と思った。

文章を書く人にとってはテキスト生成AIにあらが見えて、絵を描く人には生成イラストにあらが見える構造があるようだ。

文法的には正しいし意味がとれない日本語ではない。だが、どこか下手くそである。『みんなのユニバーサル文章術』の観点からすると赤が入る。そう思うのは、私や妻氏がうまい文章の本をえり好んで読んでいるからだろう。その辺を気にしない人たちはおもしろがってテキスト生成で遊んでいる*1

人によってあらが気になるメディアは違うらしい。絵描きはイラストへの厳しい目を持っているし、私はテキストに対して。そういった違いは、認知傾向、認知処理の得意分野によって決まってくるのだろう*2。脳の情報処理の偏りであり、ほとんど生得的な性質だ。

画像生成AIで遊んでいると、絵描きである妻氏は一瞬で画像のあらを指摘していた。見ていて気持ちが悪い、とも言っていた。イラストに対するこの感覚はわからなかったのだが、テキストに対しては同じような感覚があった。テキスト生成によって、絵描きにとって生成イラストがどう見えているか、が想像できておもしろかった。

文章はリズム

ここで思いだしたのは、文章はリズムである、ということ。

『仏教思想のゼロポイント』の著者である魚川さんことニー仏氏の記事の引用に、

というものがある。至言である。

note.com

インターネットで消耗しないために

インターネットの権力者

インターネットで権力を持っているのは、ソフトウェアエンジニア、発信者、大衆である。

ソフトウェアエンジニアが強いのはウェブサービスを作れるから。開発だけでなく運用という観点ではSREも含まれる。mastodonを動かすのに必要なのはSRE的な技術力である。

発信者とは、インターネットにコンテンツを投じる人である。ライター、ブロガー、SNS参加者、YouTuberすべてを含む。仕事であれ趣味であれ、テキスト、動画などをインターネットに投稿する人たち。範囲が広すぎるので、もう少し限定をしよう。これらのコンテンツ生産者のなかでも強いのが、わかりやすい説明をする人たちだ。わかりやすい説明、表現は大衆に影響を与えられる。説明が上手な人は文章を読ませて、読者に知識や思想をインストールしてしまう。なかには支配して洗脳してしまう人もいるだろう。

最後に大衆。数の暴力で圧力をかける。大衆社会だから当然強い。ただ、核がなくて容易に制御はできない。倫理と感情に訴えかけると大衆は動くのだが、運の要素もある。同じような反社会的行動をした二人の人のうち、片方だけ燃やされることは珍しくない。

インターネットの権力構造

インターネットという空間は、人間と人間の間の情報流通を担う場だ。情報流通のための交通整理をしているのが、インターネットサービスである。サービスを作っているのがソフトウェアエンジニア。情報の流通システムを握っているので当然強い。上述のとおり。そして、発信者はインターネット空間に情報を投じる、流し始める人である。わかりやすい情報を出せる人は自然とフォロワーが多くなる。影響を与える。だから強い。

大衆を除く二者、ソフトウェアエンジニアと発信者は構造的に強い。インターネットが人間に情報を流すシステムである、という性質を持った瞬間から、この権力構造は決まっていたのだ。

権力に抵抗する

抵抗する方法はフィルタである。物理的にスマートフォンを見ないでおくこと、インターネットサービスの提供するタイムラインをそのまま使わないこと。推薦システムによって挿入されたコンテンツはCSSJavaScriptで取り除ける。プログラミング技術は権力に対抗する権力である。また、SNSならばリスト機能を使えばよい。

自分用のフィルタを作れるか、フィルタの手入れができるかどうか、ここもポイントになる。この人はおもしろいかな?いい情報を出すかな?と判断する必要がある*3。優柔不断な人は判断ができないだろう。意思がはっきりしている人でないとインターネットを使うのは難しい。人をみる目もいる。もちろん世の中はそんな人ばかりではない。だから大衆は影響を受けて各所を燃やしているのだ。

フィルタを自分で持たないと影響を受けてしまう*4。これがインターネットの宿命だ。かつて「アウトプットは量多い方がいい。フィルタは各自がやればいい。この原則わかんない奴はインターネット合わないと思う」というツイートがあった*5。私はいまもこれがインターネットの原則だと思う。2009年当時と違うのは自分でフィルタをしないと包摂されちゃうよ、という点だけである。

*1:日頃からプログラマ一般の文章は下手だなあと思っているのだが、こういうところでも違いがあるようだ。彼らは文章をどういうふうに読んでいるのだろうか……。syntaxが正しければ受理するのだろうか。

*2:『医師のつくった「頭のよさ」テスト』を読むべし。

*3:合わないのによく流れてくる人はミュート・ブロックをしてもいい!

*4:エコーチェンバーが云々の批判は無視していい。インターネットだけから知識を得るのが間違っているので本を読むこと。

*5:アウトプットは量多い方がいい。フィルタは各自がやればいい。この原則わかんない奴はインターネット合わないと思う。 - 橋本商会

週報 2022/11/26 製パン趣味の続きやすさ, 組織文化と歴史, DreamBoothをやってみた

赤味噌がうまい

さいきんの一汁一菜には赤味噌を使っている。

赤味噌といっても米味噌と混ぜてある製品で、豆味噌100%の硬いやつではない。赤だし味噌とも言われる。本来の赤味噌も使ったことはあるのだが、硬すぎて扱いづらい。味噌はあの柔らかさだから便利なのだ。

赤味噌は味が濃いめで、味の強い具とよく合う。鰹節をたくさん入れてもよいだろう。鰹節の独特の癖と張りあってくれていい塩梅になる。牛肉などの臭い肉をいれても大丈夫。赤味噌はそれくらい強い。

チャイ

このごろチャイを飲んでいる。

我が家では冬といえばココアだったのだが、今年はチャイのようだ。アッサムの茶葉を熱湯に浸し、牛乳と砂糖、シナモン、カルダモンなどを入れて沸騰寸前まで加熱する。シナモンと砂糖はたくさん入れるとよい。また、茶葉も安いものでいい。

以前インターネットで「チャイは安い茶葉で淹れるものだ」という主張をみたことがある。香辛料によって紅茶のボディっぽい味しか残らないのでたしかにそれでいいと思う。

製パン趣味の続きやすさ

最近は食パンを作っている

製麺は続いていなくて、ここ2ヶ月くらい作っていない。おいしい麺を作れるようにはなったのだけど日常化することはできなかった。一方、妻氏は製パンをし続けている。パン作りは2020年の6月から始まり、ずっと続いている。主食の一部である。

なぜ製パンは続くのか。もちろんおいしいからなのだが、それよりも食べやすいのが大事だと思う。パンはすぐに食べられるのだ。焼いたあと数日は常温で保存しているし、冷凍保存したものもトースターで焼けば5分で食べられる。また、パンは焼いても焼かなくてもうまい。ジャムやマーガリンなどがあれば使ってもいいが、そのままでもじゅうぶんおいしい。

麺はそうはいかない。具がないと味気ないし、茹でないといけない。パンみたいにおやつになるのではなく、主食の構成要素である。献立設計への影響もあり扱いが難しいのだ。

でも、たまには作りたい。麺帯を切る工程に児戯的な楽しさがある。年末にでもやってみようかしら。

モルモットアラート

横暴モルモット

夜行性のモルモットは夕方から0時にかけて、野菜をよこせと鳴き声をあげる。あるいは黙ったままケージをガシャガシャ揺らしてアピールをする。たいへんうるさい。齧歯類としては高等な動物*1なので、音をたてると人間がやってくることを覚えているのだ。

興奮したモルモットに、バジルの葉っぱを2枚与えると30分ほど黙らせられるのを発見した。バジルの栄養価が高いからなのかはわからないが、よく再現する。バジルを食べたモルモットはすぐにペレットと牧草を食べ、しばらくリラックスモードになる。効果が切れたらまたガシャガシャやる。

おそらくモルモットは野菜とペレット、牧草をバランスよく食べたいのだろう。あくまで主食は牧草なのでそれを食べてほしいのだが*2、柔らかいものも食べたいようである。モルモットにとって野菜はジャンクフードみたいなものであろう。

組織文化と歴史

職場の組織文化を言語化し、新人さんや中途の人にも効率よく伝達したい。どこの職場でもみられる悩みだろう。私の職場も例外ではない。謎の文化があり、受け継がれてきている。もちろん悪い文化は廃絶すればよろしい。でも、必要な文化はあるのだ。

先日、それは歴史なのだと気づいた。組織と仕事の歴史。システムやら何やらを作って運用し続けていると、歴史が積み重なっていく。機能を作るときも、そのときどきの最適な判断をして、それが歴史になっている。

古参社員に聞けば歴史的事情は出てくるのだが、聞かないと出てこない。知らないものは聞けない。だから歴史として編纂しておく価値があると思う。

追加学習に手をだした

阿慈谷ヒフミチャレンジ2

画像生成だけでなく追加学習によるモデル作りにも手を出した。
学習には大量のビデオメモリが必要。これを見越してグラフィックボードを買い替えたのだ。

仕組みはよく知らないのだがDreamBoothとやらがすごくて、10枚しか学習させていないのにそれらしいキャラを出すモデルができた。

マイナーキャラのさまざまなイラストが欲しい人が泣いて喜ぶ技術だと思った。

おまけ DreamBooth手順

追加学習の手順をまとめておく。今回試行錯誤したものであり、最良の手順ではない。

  1. stable diffusion web uiにdreambooth extensionを入れる*3
  2. 学習用画像を10枚〜用意する
  3. 顔の周辺を512px四方で切り抜く
  4. 左右反転した画像も用意する(キャラクターデザインの対称性が高い場合)
  5. 2000ステップくらい学習をさせる(RTX3090で3時間くらい)
  6. できたモデルを戻し交配する*4
  7. モデルを使う

学習画像の切り抜きは手でやったほうがいい。stable diffusion web uiに自動切り抜き機能はあるのだが精度はよくない。学習用画像の品質が結果に直結するので、顔が正方形の範囲に入るよう手で調整する。追加学習では必要な枚数は少ないのでなんとかなる。もしかすると、いい自動化ツールがあるかもしれない。

なぜ顔の学習に特化するのか。キャラクターの特徴はほとんど顔に現れるからだ。衣装の再現性は重要ではない。AI画像生成で遊ぶ場合、どうせいろいろな格好をさせてみるので、顔だけ再現できればよい。実際にモデルを作って生成してみると、いかに人が顔ばかり見ているかがわかる。顔さえそれっぽければそのキャラクターだと認識してしまう。

学習に使うイラストは上手なものを選ぶべきだ。線が整理されていて、キャラクターの特徴をよく捉えているものを選ぶとよい。枚数が少ないからこそ、学習元画像の品質が重要になる。

戻し交配と言っているのはモデルのマージである。いま汎用モデルAに対して追加学習をし、キャラ特化モデルBができた。Bをそのまま使ってもいいのだが、ちょっと呪文の効きが悪くなる。過学習が起きていると気持ち悪いくらいのハンコ絵になってしまう。これを緩和すべく、もとのモデルAとモデルBを混ぜるのだ。すると、ほどよく汎用的でキャラクターがよく表現できるモデルができる。

ただし、やはり呪文は効きは悪くなっているので、CFG Scaleをあげたり、呪文を厳密に書く必要はある。

 

今回のパラメータ

learning rate: 1e-6, learning rate scheduler: constant, training steps: 3000, totale number of class/reg images 2000

*1:なんと脳味噌に皺がある!ハムスターなどの脳味噌はツルツル

*2:硬いものを食べて歯並びを維持してくれないと、歯のトラブルで毎月動物病院へ通うことになる

*3:GitHub - d8ahazard/sd_dreambooth_extension

*4:必須かどうかはよくわからない。学習stepが小さいモデルを使えばそれでよいだけかもしれない