炊き込みごはんを作るようになった
炊き込みごはんのおにぎりは好みだったが、自分で作ったことはなかった。
先日、スーパーで炊き込みごはんのレトルトを発見し、気軽に試せるのを知った。ゴボウ、ニンジン、鶏肉と調味液が入ったレトルトで、ごはんを炊くときに混ぜるだけでいい。
こうして作ってみた炊き込みごはんは、やはりおいしかった。
冷凍しても劣化しないし、寝起きで胃腸が動いてないときでも食べられることがわかった。
そして、なによりも栄養が豊富である。準完全栄養食くらいだろうか。炊き込みごはん一膳にたんぱく質を足したら一食として成立するだろう。
レトルトの炊き込みごはんキットは便利ではあるものの、油が多くて味が濃かった。ちゃんと自分で作ることを考える。
インターネットで調べるとレシピは様々なものが見つかった。具材はなにを入れてもよくて、醤油や酒、みりんで炊かないやり方もある。炊き込みごはんは自由度の高い料理のようだ。
それでも共通する性質は、具からでた出汁でおいしくすること、塩加減に気をつけること。これが基本の骨格であり、この構造を守っていれば炊き込みごはんになる。
具からでた成分でおいしく味をつけるので、鰹や昆布の出汁をとる必要はない。これは味噌汁に出汁をいれなくてもよいのと同じである。野菜だけだとさすがに薄味になるが、肉さえいれておけばおいしくなる。
和風出汁定番メンバーのなかで唯一入れたらよいのはキノコだ。鰹や昆布は味が繊細なので入れても風味がわかりにくいのだが、キノコは強めのキャラをしているので、肉が一緒にいても負けないだろう。
炊き込みごはんの肉といえば鶏肉が定番だ。だが、レシピによっては豚肉をいれているし、鯛飯というものもある。
おそらく骨を炊くとおいしくなるはずだ。
人間は骨髄をおいしく感じるもので、ラーメンやポトフのおいしさも骨のおいしさである。鯛飯も骨が入っているのが大事だろう。そういえば、ケンタッキーフライドチキンの炊き込みごはんもあった。あれもスパイスと骨がおいしさに寄与しているに違いない。
なので、鶏の手羽あたりをいれて炊けば、よりおいしくなることは間違いない*1。手羽の骨は大きいので炊けたあとに除去するのもやりやすい。豚ならばスペアリブを使うのがよさそうだ*2。これもおいしくなるとは思うが、油はきついので覚悟が必要である。
野菜はなにをいれてもいいが、食感の残るものは外せない。だからニンジンとゴボウが定番なのだろう。
葉物はほとんど存在感がなくなると思う。だが、葉物野菜が溶けてしまっても味を豊かにするのには役立つので、好きなものをいれてよい。
やはり、このあたりは味噌汁設計と考えかたが似ている。
炊き込みごはん、いい料理だと思う。
自由で応用が効くので飽きない味にできるし、仕込みも簡単だ。肉を入れて塩加減さえ間違えなければちゃんとおいしくなる。
しばらくは、炊き込みごはんの研究をして朝食を豊かにしていきたい。
できごと・雑記
- 連休最終日の夕方に昼寝をしてしまう。
起きたときの絶望感。もうどうにでもなーれ、となってゲームをしまくった。 - 連休明けの体調は最悪だったが、労働者の身体にチューニングしていき、金曜日には絶好調になる。
- 自作アウトライナーを使いはじめた。
バグもあるし機能も足りないが、便利に使えている。
木構造のメモが畳めるだけで仕事や考えごとのすべてを管理できるようになるのだ。 - 平日の余暇はアウトライナー開発とDyson Sphere Programをしていた。
ワインを飲みながら楽しくコードを書く。 - 夢をみるとき、人物の認識はできるのに顔が描画されてないのに気づいた。
起きてるときの認知もこんな感じだと思う。人の顔に興味がないのかもしれない。 - ブルアカのガチャを回しツクヨを引く。安くすんでよかった。
- 掃除をしまくっていたところ、雑巾と手が最強であることに気づく。
たいていの掃除では手作業がもっとも精度がよい。 - 妻氏がワインセラーを買った。
パン発酵に使う。赤ワインの保管温度が発酵にちょうどいいのだ。インターネットにはクワガタの飼育に使う人もいた。
適切な温度に冷やすだけで、ワインがめちゃくちゃおいしくなってびっくりした。ワインセラーとはヨーロッパの室温を再現する装置である。 - 小麦も肥料も値上がりしているらしい。
そのうちラーメンが1500円とかになるのかな。外食や中食が値上がりしまくったとき、治安がどうなるのか不安である。
日本では米を食べればいいが、世界には小麦を主食にしながら輸入に頼っている国もある。エジプトとか。
COVIDワクチンのときもそうだったが、先進国は保身ができる。購買力や発言力のない国はそうではない。 - 「(自分が)何をわかっていて、何をわかっていないのか」を把握できるとデバッグが得意になるのではないか。
デバッグがうまくいかないとき、たいてい認識は混乱している。「なにがわかっていない」かがわかっていない。 - デバッグは「事実」によってバグの起きうる問題空間を狭めていく作業である。
「xxをしたときooのログがでたので、$$のモジュールはおかしくない」というように、「事実」の認識と切り分けが重要になる。
「事実」を集めるためにログを読む。ふだんの開発時からログを仕込んでおく。
事実ではなく「事実」なのは、その「事実」が間違っている可能性を留保するためである。 - 「事実」が多いほど思考の抽象度を高められる。
これは別の話題。人間が考えるとき、思考の抽象度は具体的体験・知識の豊富さで決まってくるという話。
抽象化のためには具体性が必要だ、という当たり前の話だが、泥臭く手を動かさずに抽象にこだわる人は多い。 - 下図の木構造の葉のところに個別具体的な現象があり、てっぺんに抽象度の高い説明原理がある。
葉の現象は個々人の体験によって得られる。これが主観にとっての「事実」となる。
サンプル数が少ないと局所最適解になる。たくさん集めると抽象度の高い説明ができる。