ともあれ、こうした国学の儒教批判は、(i)イデオロギー一般の嫌悪あるいは侮蔑、(ii)推論的解釈を拒否して「直接」対象に参入する態度(解釈の多義性に我慢ならず自己の直感的解釈を絶対化する結果となる)、(iii)手応えの確な感覚的日常経験にだけ明晰な世界をみとめる考え方、(iv)論敵のポーズあるいは言行不一致の摘発によって相手の理論の信憑性を引下げる批判様式、(v)歴史における理性(規範あるいは法則)的なものを一括して「公式」=牽強付会として反撥する思考、等々の様式によって、その後もきわめて強靭な思想批判の「伝統」をなしている。(p24)
右にのべたような状況、すなわち一方で、「限界」の意識を知らぬ制度の物神化と、他方で規範意識にまで自己を高めぬ「自然状態」(実感)への密着は、日本の近代化が進行するにしたがって官僚的思考様式と庶民的もしくはローファー的思考様式とのほとんど架橋しえない対立としてあらわれ、それが「組織と人間」の日本的なパターンをかたちづくっている。(p58)
問題はむしろ異質的な思想が本当に「交」わらずにただ空間的に同時存在している点にある。(p70)
1961年に刊行されたこの本は、「実感」信仰と制度・理論の物神化*1*2が日本の思想に蔓延する態度だとしています。また、各コミュニティがそれぞれ個別に思想を輸入するものの、「タコツボ化」、つまり、そのコミュニティに閉じこもって他コミュニティの教養を無視している点を指摘しています。
雑文
なぜこれを書いたか
読書の片鱗をSNSに投稿していると、本の紹介や内容の要約を求められることが増えてきました。私は本を読みながら線を引いて要点が残るようにしているので、上記のように書いてみた次第です。ですが、上の引用だけをみてわかった気にならないようにしてください。もし、引用文に惹かれたのなら本を読んでください。引用された部分は私の恣意によって切り出されており、本から何を読み取るかは人によって異なるはずです。引用は本のわずかな部分に過ぎず、通読するとより多くの事柄が得られます。
引用の難しさ
引用してみて、
- 引用が難しいこと
- 読書しながら引いた線はあてにならないこと
がわかりました。引用は論理構造をもった文章から部分を切り出す行為ですが、元の文章は全体として調和を保っているため、恣意的に部分を切り出すとどうしても「歪み」が出てきます。筆者の主張を崩さぬよう配慮しながら引用をするには、全体の構造をきちんと把握する必要がありそうです。傍線は本質的な主張の付近に引かれていることは多いのですが、引用しやすい形式で書かれているわけではなさそうです。というのも、文章は論理の積み重ねを受けて「まとめ」にかかるため、「まとめ」そのものは前の文章と強く結合しているためです。傍線は「まとめ」に引かれますが、その文章は引用に適さないことがあります。
引用をやってみて今後どうするか
可能な限り、私が本を読んで「オッ」となった部分を紹介しようと思います。引用の要件のはなしもあるので可能な限り短くします*3。昨年たくさんの本を読んで、よい本もたくさんありましたが、さかのぼって紹介することはありません*4*5。
以上です。