社会学批判の裏には科学信仰がある。なぜ科学信仰が盛んなのか。伝統的な考え方がコミュニティとともに無くなったからだ。人間は変わり続ける生き物で、態度は体調で変わるし、自分の自我さえも変わり続ける。そこで固定化した立脚点、何らかの価値観を求めるのが人間の歴史だった。養老孟司の言う「人々は固定化された確実なものを求める」というやつだ*1。
科学は客観的真理の学だとされる。客観的真理とは永遠不変の神みたいなやつである。なるほど変わりつづける自分、死にゆく自分から目を逸らすにはぴったりだ。しかし、実際にはこの真理も留保つきのものでしかない。すべてはまだ否定されてないだけの仮説だ。そして、何よりも高度になりすぎた学問への信頼が危うい。生物学はラボで継代飼育した特殊な個体で実験をするし、物理学は世界に一つしかない巨大な実験施設が必要な時代だ。再現性再現性というが、どの分野でも簡単に再現性を確認できる時代ではないのだ。
ふつうの人の科学への信用は科学だからという理由で成立している。これは信仰に近い。具体的な科学が客観的真理でないのにも関わらず、曖昧に科学を信頼している。つまり、寄って立つ足場は不安定だったのだ。安定した確実なものではなかった。ではどうすればいいのか?私は死ぬ自分と向き合いたくない、そういう人もいるだろう。ただ、事実として人は変わり続けるし明日にでも死ぬかもしれない。たぶん、この事実は受け入れたほうが人生が楽に、自由になると思う。受け入れることが出発点である。無理な人は宗教でもやるとよいのだろうか*2。
余談。これは他者を信頼するか、自分を信頼するかという話にもなる。他者をまったく信用しないわけにもいかない。かといって他者に振り回されるのは不幸だ。自由を阻害する。なので、ある程度つよく自分の感覚を信じつつ、弱く他者を信頼する態度が便利だと思う。
2021/02/10追記
そこで固定化した立脚点、何らかの価値観を求める
別の観点を思いついた。人々に自信がなくて、かつ承認されたいがために正しいものを欲している、という説。彼らは正しさを使って自己表現しようとしている。正しければ怒られないからだ。その正しさの象徴としてエビデンスや論理的正しさ、倫理、科学が祭りあげられる。