しゅみは人間の分析です

いらんことばかり考えます

週報 2023/03/19 回復したいぜ、ChatGPTをダシにして人間を考える

3/11(土)毛刈りの窓

二ヶ月ぶりの美容院。さっぱりした。ほどほどに短いくらいが似合うのはわかっているのだが、怠惰に負けて「そろそろ行く……(行かない)」を繰りかえしてしまう。
家に帰ったら特大昼寝をしたあと週報にとりくんだ。ずっと体調が悪く捗らなかった。

3/12(日)コーヒー中毒、本ポジの多様性

コーヒーは朝だけ、のルールを一週間守った。だいぶ寝つきはよくなった。以前は二時まで眠れなかったのに、今では二十三時に眠くなっている。カフェイン怖い。

コーヒーを飲む量も減り、煎れるのは週一でよくなった。日曜の朝にまとめて抽出し七日かけて飲む。酸化はするのだが時間のない平日はあまり気にしない。でも、やっぱり日曜の淹れたてはうまくて「こんなうまいものやめられるわけがない」と思った。

 

妻氏が畳に座って本を読んでいた。近くにソファや安楽椅子があるのになぜ?

理由を聞いてみると、姿勢をコロコロ変えながら読みたいからだと言う。実家でも皆こうしていたらしい。たしかにそうかもしれない、と思って真似をしたら腰が痛くなった。でも読書姿勢としてはこれがよいかも。座布団を使いましょう。

3/13(月)回復したいぜ

しいたけ.占いで「「回復したいぜ」の水色が出ています」と言われた月曜日、体調は最悪だった。なんとなく食欲がなく食べても胃腸の動きが悪い。頭も動かない。この感じは覚えがある。梅雨の体調不良だ。数年前、梅雨の時期に胃腸が悪く胃カメラまで飲んだ。「胃はきれいですね」と言われた。

漢方(中医学)に詳しくなった今ならわかる。冷え性の人は湿気に弱いのだ。そして湿気は胃腸を侵すらしい*1。春は湿度があがってくるし雨も多い。なのに私は冬のノリで加湿器を炊いて寝ていた。こうして発汗が阻害され、溜まった水が胃腸を侵すに至った。

この日はとりあえず漢方薬ツムラ43番)を飲み、風呂で汗をかいて体調を整えた。本格的な治療は翌日に予約していた鍼に任せることにした。

3/14(火)京都では運動をしないと生きていけない

予想通りだった。鍼でむくみをとる処置を受ける。しかし、一日や二日で溜めた水ではないので一回の治療では取りきれない。しばらく自分でお灸をすることにした。あとは運動である。

なんで水が溜まるのかは西欧医学の知識でも説明ができる。腎臓の水処理能力は血圧で決まり、リンパ系の水輸送はゆっくりである。それらのキャパシティを超えて水を飲み、かつ汗をかかないでいると水はただ血管外に溜まっていくのだ*2。末端冷え性の人は汗をかきにくい特徴があるので、運動をしない限り水が出ていくことはない。リンパの輸送能力も筋肉で決まるので、やはり運動がよい。

というわけで、運動をしない限りは喉が渇くまで飲まなくてよい体質だとわかった。でも京都はジメジメしていて地獄のような土地なので、汗をかくために運動をしていく。でないと夏に死んじゃう。

もっと水を抜くのだわ!

3/15(水)AIに日記を食わせる

ChatGPTさまに日記を食わせてみた。毎晩人力でやっている、一次日記を二次日記に書きなおすタスクをやらせたらどうなるかな?と思って。結果はダメだった。ただフレーズを拾って繋いでいるだけで、言い換えで内容を圧縮するのができていない。要約の能力は低いようである。

3/16(木)良い余計な一言

三ヶ月待った椅子が届いた。わーいわーい。ドイツのお気に入り企業から輸入したオフィスチェアである。届いたとき、アクタスの配達おっちゃんにいじられた。「フルカスタムでええやん」的な。このおっちゃんはアクタスで家具を買うといつも配達してくれる人で、人間味がありちょっと変(いい意味)である。前にダイニングチェアを買ったときも「こんな椅子座ったら他の座れなくなりますよ!」と言われた。

3/17(金)味噌情報

味噌を十個買った旨をツイートしたらいくつかお便りが寄せられた。

「出汁入ってない味噌使ってるの?」出汁は不要です。一汁一菜は勝手に味がつく。

「どの味噌を使ってるの?」消費スピードが早すぎて補給が追いつかず、スーパーにあるものをてきとうに買ってることもありますが、ひかり味噌のマル無玉那覇味噌の王朝みそが好みです。前者は成城石井で手に入りますが、後者はネット発注になります。

 

読みやすさのために重いテキストは沈殿させることにした。

書きだしの難しさ

文章は書きだしと結びが難しい。書きだしはその段落の全体像を一言で示せるとよい。たいへん難しく、プロの物書きでも苦労するところだと思う。段落の中身はわりと簡単で、飛躍しすぎずだらけすぎずを意識していれば自動で書ける。たまに内容が混乱するが、そのときはアウトラインに戻ればよい。

そして結び。結びは段落の内容を受けてオチをつける。こちらも書きだしと同様に一言で主題を示せるのがいい。例えば「(この人は)酒で膵臓を溶かした人物である」という結びを書いたことがある。日記にある人のことを書いたときのこと。こういう結びをぽんぽん思いつけばよいとは思うが、これもまた難しい。

手を抜こうと思えばいくらでも抜ける。業務や連絡などの事務的な文章でこのレベルはいらない。書きだしは大事だが全体像を示せていればそれでいい。結びはまあどうでもいい。だが趣味は違う。趣味で文章を書いているのだから手を抜いたら意味がない。同じ悩みは妻氏の漫画にもあるようだ。コマ割りをどこまで妥協するか。ここで救いになるのが千葉雅也氏の「有限性」で、締切りがきたら諦めろ、ということだ。毎回妥協はせずギリギリまで粘るが、そううまくはいかないものである。

ChatGPTをダシにして人間を考える

GPTはなんなのか

全文検索エンジンみたいなものである

なんで日記を要約できないのかな?と思って調査と実験をしたところ、GPTは単語と単語の共起関係を覚え、連想されるがままに語を吐きだしているのがわかった。「人」がきたらn%の確率で「歩く」が来る、みたいな関係を大量に覚えている。知識も共起関係のなかに埋めこまれている。知識の源泉、学習に使った元データはインターネットのテキスト。だからインターネットによく登場する言い回し、ミームに対応できるのだ。

つまりGPTは(全文)検索エンジンみたいなものなのだ。なるほどGoogleが危機感を覚えMicrosoftがBingにGPTを実装するわけだ。本質的には検索エンジンの一種なのだが、人はChatGPTを使うと知的な存在だと錯覚する。それはChatGPTが対話UIになっていること、文字が少しずつ出てくる演出で説明ができるだろう。文章に一貫性があるように見えるのは? 語の共起関係を大量の組み合わせで覚えたら違和感のない組み合わせを出せるようにはなると思う。なので、知性が実現されたわけではなさそうである。ちょっとがっかりした。かの有名な中国語の部屋にすぎない。

便利だが信頼性の評価が難しい

でも便利なのは間違いない。いかにインターネットの情報が信頼できないとはいえ、専門的な揺らぎの少ない情報や、繰りかえし発信されてきた正しい情報については既存の検索エンジンより素早く答えにたどり着ける。それに対話UIもよい。ChatGPTの対話UIは何らかのレスが返ってくるので自分の悩みを言語化・客観化するのに使える。つまり頭の整理に使える点で日記と同じ効用が期待できる。

問題は返答の信頼性評価が難しいこと。これまで我々は検索リテラシーと呼ばれるスキルで情報源の信頼性を評価してきた。ドメインが公的機関や有名な企業であるか、サイトの作りが怪しくないか、日本語が読みやすいかどうか、等々。ChatGPTは情報源が隠されているのでこの点が問題である。一方でBingのほうはソースが示される。検索エンジンとしてはBingのほうが誠実と言えるだろう。どれを使うにせよ、引き続きリテラシーは要求される。自分の専門分野のデータベースとして使うにはいいのではないか。

 

あれが来てもこれを返さない

中国語の部屋はおもしろいアイデアで、人工知能の知性を測るチューリングテストが「チャットがそれっぽくできたら知性がある」と言ったのに対し「チャット相手がカンペ持ってたらどうするん?」と批判したものである。部屋に閉じこめられた英語話者が中国語でチャットをしていて、部屋のなかに中国語の文例が網羅された辞書がある、という設定。

なんでおもしろいのかというと、人間が同じことをしていないとは言えないからである。我々も何も考えずに「あれが来たらこれを返す」で会話しているかもしれない。思いつくがままにダラダラ喋り続ける人も現実にいるし、意外とChatGPTと人間は近い可能性がある。もちろん中国語の部屋であってよいとは思わない。よく考えて喋る人間でありたい。

 

言葉の重さ

GPTに対して「シニフィアンしかみてないじゃん」という批判が可能なのだが、実はこの批判が読書全般にも向けられうる。

記号を調べても意味には到達しない

シニフィアンとは言語の記号のことで、例えば散歩中の犬実在(シニフィエ)に対して「inu」という音あるいは「犬」文字列が記号である。ソシュールという百年前のおっさんが言いだしたアイデアで、言語学の基礎知識。言語には記号と示される対象がある。

計算機で記号を分析し尽くしたところで人間と同じ「意味」は獲得できない。書かれた記号は「犬」という文字列にすぎず、GPTは親戚文字列として「吠える」や「ワンワン」が共起するという断片的な情報しか持っていない。子供は「これなあに」「犬、ワンワンだよ」と教えられてフサフサの毛に触れたり怖がったりする。人間は記号が示す対象と記号を同時に学んでいるのだ。記号の集合から得られる情報には限りがある。恐竜の足跡の化石を調べつくしても、その恐竜がどんな存在だったかを明晰に知ることはできない*3

生を背景にテクストを読む

ではなぜこの批判が読書にも向けられるのか。読書といっても特に古典を読む場合が問題になる。古典となった本のテクストを非常に細かく読み、ここの文の解釈が云々とする読み方があるから。記号の世界に閉じこもり、文法的な関係を調べつくして記号の意味を明らかにしようとする姿勢である。研究として価値はあるが、それだけで意味に迫ることはできない。

別の姿勢として、著者の人生や時代背景を把握する方法がある。書かれたものだけでなく、当時の常識や生活の様子、著者の家庭、経験をも調べる。つまり著者の人生を歴史的に把握したうえで意味を明らかにしようとする。ここまでやるならばただ記号をなぞるよりも多くの情報が得られるだろう。もちろん、仮説であるという留保はするとして。

言葉が違うから通じない

言葉の意味を把握するのは難しい。意味はその人の人生によって変わってくることがある。同じ時代、同じ境遇に生きていても言葉の意味が微妙に違うことはよくある。その人独自の意味を使いながら「私の言葉は正しい!」という態度で喋る人もいるし、自分独自の意味を捨てて「公共的な意味」に寄せてしまう人もいる。どうしても違ってくるのに同じだと思いこんでいるからコミュニケーションが難しくなる。また、自分の意味を劣位に置くと、いくら語ってもどこか自分の言葉ではない感じがしてくる。

言葉は経験=人生の重みを背負っているからおもしろいところがある。私としては自分の意味で語ってくれる人が増えることを望むのだが、これもまた個々人の自由なのであまり言うまい。それに話が通じなければ一生懸命説明するほかない。意味が通じるまで丁寧に言葉を重ねるだけである。

 

このような背景もあって、身体を持たないAIには魅力がないな、と思う。検索エンジンとしては便利ではあるものの、現時点では問題も多い。逆に身体を与えて学習させたらわけのわからないAIができておもしろいと思う。賢い人は当然これくらい考えているだろうから、数年後には大量のセンサーを装備した知能が作られているに違いない。

*1:理由はよく知らない。リンパ系から出てきた水を排出するのに腎臓のキャパシティが使われ、胃腸が吸収した水の行き場がなくなるから、という説明は思いつく。

*2:勝手に血管に水は流せない。浸透圧が変わってしまうから。塩分をとったときに水で薄める仕組みはある(血圧があがる仕組み)。

*3:SFで異星人や宇宙線の形状を説明されてもうまくイメージできない事例でもよい。