1/27(土)
サラダは家で作るとうまい!
サラダを作るべく水菜とレタスを買ってみた。
じつはサラダを家で作ったことがない。なんとなく惰性で煮たり焼いたりしてきたのだ。
なんでサラダを作りたくなったのかというと、生野菜からしかとれない成分がある可能性を考えたから。あとサラダがおいしいから。後者が本音かもしれない。
作ってみると意外と簡単。人参を削りレタスをちぎり、水菜*1をハサミで切る。ドレッシングはオリーブオイル、白ワインビネガー、塩、クミンシードを混ぜたもの。これだけでたいへんおいしくなった。
野菜が山盛りになっていてもすぐに消えてしまう。水菜のシャキシャキがおいしくて「ものを食べている!」という喜びがある。
健康的かどうかはどうでもよくて、サラダはおいしいから食べるものだと理解した。
こういう経験をするとコンビニとかスーパーの生野菜が買えなくなる。あれらは塩素処理されていて別物なのだ。
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道具は一等地に置くべし
コンロの近くに道具を立てるようにしてみた。ご家庭にある余った瓶、コップなどを使ってよく使う道具を入れておく。トング、スプーン、箸、ナイフなど。
たいへん便利で、例えば「野菜スープの味見をしたい!」となったらここからスプーンを引き抜いてスープをすくえばよい。
あとはゴムべらとかお玉の場所が問題だが、これは換気扇フードにマグネットフックをつけて吊すことにした。油で汚れる可能性もあるが、毎日使うものなら大丈夫だと思う。
1/28(日)
体調の一発逆転: 薬物、風呂、睡眠、運動
体調どん底デー。
どん底だった。心当たりはなく「なんとなく冷えてるなー」と思いつつ夜まで過ごして最終的に「もしや風邪では?」と気づいてお灸をしてもらった。少しマシになる。
体調が悪くなると一発逆転を狙うのだがたいていうまくいかない。一発逆転とは「薬を飲んだらすぐよくなるはず!」とかそういうの。
体調は少しずつ変化するものであって、急に変わらないのが原則だ。良くなるときも悪くなるときもゆでガエルである。
それでも一発逆転したいときの手段として薬物、物理刺激、睡眠、運動がある。
薬物はコーヒー、エナドリ、酒、違法薬物、向精神薬などなど。依存性があるものばかりだ。あんまり濫用するとよくない。
物理刺激は風呂やサウナ、お灸、鍼など。循環を良くすることで解決するタイプ。受け身でいるだけで流れが良くなるので便利。
睡眠は本当は一発逆転してなくて、寝てる間に身体が勝手に整えてくれたのを「一発逆転してた!」と思ってるだけである。本当は少しずつ変わっている。
運動は物理刺激の上位互換。筋肉を動かして体液をぐわんぐわん回すのであらゆる問題が解決する。いつでも運動できたらいいのにね。なんでやる気出ないのやら。
これらの手段が取れないとき、体調は少しずつ良くしていくしかない。具体的にはたくさん着こんでお腹の体温を上げるとか。冷え性はこれが効くことが多い。
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赤酢ぺろぺろ
サラダ用の白ワインビネガーがなくなって代わりのものを探してみたのだが、スーパーにはそんなハイカラなもの置いてなかった。成城石井までいかないとダメそうである。
しかしとりあえず酢は買いたい。今の私は酸っぱいものブームなのである。
そこで目についたのが赤酢。リンゴ酢とかいろいろあったけれども「熟成」というキーワードに惹かれて赤酢にした。
赤酢はたしか寿司に使うやつ。と、思って調べたら今はそうでもないみたい。使うところもあるみたいだけども。
舐めてみたらまろやかな旨味が感じられた。ただの酢じゃなくて丸みがある。
そういえば義母に創作中華料理(高い)に連れていってもらったときに赤酢が出てきた。何かのつけダレだったのだが、三人でうまいうまいと赤酢をスプーンですくって飲みまくっていたのを思いだした。
1/29(月)
なんかだるいなーと思いつつ出勤したら、同僚たちも風邪をひいてた。そういう時期なのだなあ。
チームの人も早めに撤退していったので大手を振って早めに退勤した。しめしめ。
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ニンゲンの鳴き声を人権に代入するとエラーが出る
家のなかで「ぴょえ〜」とか「ぴょぴょぴょぴょぴょ」みたいな奇声、うめき声をあげることがある。世の人はこっそり家で踊っているものだと聞く。その類いのアレだ。
この奇声は言語野(左脳にある)から出ていない。右脳から出ていてニンゲンの鳴き声みたいなものなのだろう。明らかに言葉ではない。たまに日本語として表現できない音になるし。楽しくて脳のチューニングと思って音を出している。
はて、この手の奇声は表現の自由で守られるのか。
表現の自由とは人権の根本であり、圧政を敷く政府に人民が対抗するうんたらかんたらである。大事な権利。いかなる「意見」や「表現」も守られるべし、とされる。
しかし私が発しているのは「奇声」なのだ。言葉ではない。厳密には権利で保護されないと思うのだがどうだろうか。もちろん人権へのクソリプである。
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チャットでも「ちゃんと伝わったかな?」シグナルが出せる
人は対面の会話で「ちゃんと伝わったかな?」というシグナルを確認しながら喋る*2。相手の頷くタイミング、返答の仕方で「伝わり具合」がわかる。
チャットなどの非同期コミュニケーションだと伝わったかわからなくて不安になりがち。社のエライ人も「(お知らせ記事が)よかったらいいねボタンを押してね!」と言っていた。
最初は「エライ人も人間なんだなあ」くらいに思っていたのだが、たぶんそうではない。「ちゃんと伝わったかな?」を観測する手段がこれくらいしかないのだ。
SlackやDiscordのemojiやはてなスターの引用機能も同じだ。具体的な文章に対してリアクションが来るので「どこがその人に伝わったのか」がちゃんとわかる。我々はこうやって非同期コミュニケーションで失われた情報をやりとりしてるのだ。
1/30(火)
体調が悪いな〜と思って日記で振りかえっていたら、会議だらけで消耗したことに気づいた。なぜか今のスケジュールだと火曜日に会議が4時間くらい入ってしまう。会議を発破解体するときである。
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『いますぐ書け、の文章法』を読んだ
「新書っぽいタイトルだな〜」と思って読み始めたらびっくりした。名著である。
本書の主張は「書くための準備とかいらないから手持ちの言葉で、具体的な読者を想定し、自我を殺してサービスしながら書け」である。さらに「浮ついた言葉、社会についての云々はつまらないから、経験をもとに筆が乗るままに書け」とも言われる。
付け加えることがない。文章を書くための心構えはこれが全てだと思う。こんな完璧な文章本初めてみた。
文章を書くのに必要なのは自我を殺すことである。「よく見られたい」とか「ちゃんとした文章を書かなければ」「あらかじめ段落の構成をしよう」みたいなのが自我。頭でぐるぐる考えたらダメなのである。
もちろん勢いで書いてそのままインターネットに流すわけにはいかない。翌日の自分による自己レビューは最低限必要だ。でも、あくまで最初に書くのは勢いによる文章であって、その勢いをできるだけ殺さぬよう推敲したらもう手離れしてよいのである。
なんで頭で考えたらダメなのか。つまんない文章しか出てこなくなるし、書いててしんどいから。頭を使ってまともなことを書こうとするから筆が進まないのである。筆が乗った文章はおもしろい。身体から勢いを伴って書かれていると内容が何であっても、その人の特徴が出ていい文章になる。
「ああでもないこうでもない」と考えて悩むよりもまず書くこと。別に公開しなくてもいい。書き始めることが重要である。
1/31(水)
睡眠がダメな日だったのだが、同僚らと喋っていたら頭がはたらくようになった。
雑談って大事なのだなあ。毎日いらん話をしてから仕事をしたいものだ。
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なんか🍓が安いなと思ってぱくぱく食べていたら今年は豊作だという。
言われてみるとたしかに今年の🍓は安くても味がしっかりしている。酸味がいい。
このまま3ヶ月ほど🍓を食べ続けたいものだ。
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失われた博覧強記
伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』を読み始めた。妻氏の蔵書を勝手に拾い食いしている。この本は文章が上手で美味。ユーモアもたっぷりある。
いかにもな文化人な文章で、気取っているのに品がある。実際、彼の周りには文化人が集まっていたという。
文化人、今や絶滅危惧種である。
教養と品があり学問や芸術に関わっている人たち。今でもそういう人はいると思うのだが、世間が権威を認めなくなったところがある。
「人文系の学者の質も変わってきた」と50歳くらいの哲学者たちは言っていて、彼らより上の世代は知識の広さ、深さがすごかったらしい。大学の非研究業務が忙しくなっている事情もあろうが、戦前生まれの世代は博覧強記が当たり前だったのだろう。
今や我々は手で文字を書かないし、知識を頭に詰めこむ必要もなくなっている。今更情報技術の恩恵を捨てることは考えられないけれども、博覧強記世代の集中力、記憶力があればな、とは思ったりもする。
2/1(木)
よわし
鰯を焼いて食べた。
節分が近いのだが節分とは関係なく「青魚を丸ごと食べるのもいいのでは」と思って買っておいた。
鰯はよわよわフィッシュという漢字になっているとおり骨が柔らかくて食べやすかった。小骨なら呑めるほどに。
良かったので我が家のレギュラーフィッシュにエントリー。
日頃から食べる枠に入った。
🐌🐌🐌
会議中は人の顔を見るべし
会議で人の話に集中できない悩みがあったのだが、ついに解決策を発見。
それは「喋ってる人から目を離さない」である。
当たり前じゃん。当たり前なんだよなあ。
弊社だけの問題か、ソフトウェアエンジニア業種の問題なのかはわからないが、同僚たちも会議中はノートPCの画面をジッと見ている。もしかしたら画面を見たまま話をよく聞ける人らなのかもしれないが、少なくとも私には不可能である。
「人が話してるのに画面を見てるのはおかしい」という常識に改めて気づいてしまったが、同じ問題は世の中のあちこちで起きているに違いない。
2/2(金)
さいきん在宅勤務の調子が良くない。「なんか頭が回らないな」と思いながら業務が始まって「うーんやる気が出ないよ〜」と言いながら業務が終わる。成果は出たり出なかったりする。
出社したほうがいい仕事になるのは知っているのだが、頭は「できるだけおうちにいたいな〜」と言っている。朝も弱いし。
なんとかして在宅で調子よく仕事をする方法を見つけたいものである。スクワット50回とかどうだろうか?
🌭🌭🌭
路面電車はいいものだが京都の道は狭すぎる
知人の話によるとどの候補者もLRTの導入に言及しているらしい。LRTとは現代的な路面電車である。
広島出身の私には馴染み深いもので、路面電車が道路の真ん中を走っている光景は当たり前だった。速度は遅いがぼーっと乗っていたら遠くまで行けて便利である。バスみたいに揺れないのもよい。3両編成だと大量の客を運べるのも魅力。
是非とも復活してほしいものだが、京都市の狭い道だと車とバトルしながら走ることになるだろう。慣れない自動車側も電車にぶつかりまくるに違いない。
京都市の観光客輸送はもう限界なのだが、公共どこでもドアができないかぎりは解決しないのかもしれない。