しゅみは人間の分析です

いらんことばかり考えます

ブログはインターネットの良心でありまだ価値があるという話

さいきん小林銅蟲の週報を読んでいるのだが、昔のブログらしさがあっておもしろい。ブログを書き続けている人はけっこう残っていて、これまで古代エジプト、妖怪、パン作りがテーマのおもしろブログを見つけてきた。

ブログはまとまった文章が書かれるので、コンテンツとして強度がある。ブログに書かれる内容に情報量があると最高だが、情報量はなくてもよい。究極的にはブログはエッセイ的なコンテンツなので、語り口が気に入れば無限に読めるものだ。

検索エンジンは優秀なもので、見知らぬ人のブログを見つけることができる。tumblrにもそういうところがある。ブログと検索エンジンの相性はよいので、短期的に数字がとれるかどうかはどうでもいい。必要があればそのうち誰かが検索で見つけてくれるのだ。

だから、ただ淡々と書けばいい。見知らぬ誰かがそのうち見つけてくれることを思い、誰にも見られないかのように素直に書く。語り口が大事だから、気取っていてはダメなのだ。素直に書かれたものがいちばんおもしろい。文章は上手であるとよいが、それすらも必須ではない。つまり、人間がコンテンツということだ。人間が情報を吐き出して貯めるのがインターネットだから。ではなぜSNSではダメなのか。人間コンテンツとして語るのにブログくらい、千文字くらいは必要なのだ。千文字の文章を練りあげると語り口が出てくる。だから箇条書きもダメ。

小林銅蟲はpixiv fanboxに課金者向けのブログを書いている。彼のコアなファンだけに向けておもしろい記事を書いている。SNSや大衆インターネットに届いてしょうもないコメントがつくのは私も嫌だ。それを回避するために半プライベートな空間を選ぶのもたしかにありだと思う。ファンや知人向けの近況共有なら公開インターネットでなくてよい。ただ、そもそも書いたもののリンクをSNSに共有しなければすむ話でもある。はてなブログであればブックマークコメント非表示機能も使える。反応を見ないようにするのはたしかに胆力が必要なのだが、それはこの世の仕様として、人間が生まれてから死ぬまで孤独なのだから仕方がない。

人間は孤独だとわかっているのに何で語るのか?何でなんでしょうね。愛なのでは?見知らぬ誰かのために書いている。