しゅみは人間の分析です

いらんことばかり考えます

週報2021/12/26 内面同士の接続過剰

日記に書いた近況や考えごとをふりかえって週報としてまとめています。

 

近況

労働

実装をしていて、golangのinterfaceはすばらしいな、となりましたが、いやDIPが偉大だと思い直しました。

体調

冷えがひどくて何もできなくなったのが月曜日。ですが、その日に鍼の予約が入っていて助かりました。次の予約は年始なので、自力で身体を暖めてゆかねばなりません。とりあえずお風呂の温度を41度にしました。あとは運動しかありません。

余暇

自由の地域差と欲望会議を読みました。あとは言語学の本を読んでいます。読書に時間がとれていて満足です。漫画サポートはぼちぼちです。

料理

思い立って自分の料理知識集大成を書いてみました。土井善晴先生の動画を観て学んだものが多いです。

 

今週の考えごと

我が家では、数年前から「さいきんの商業漫画は同人誌と紙一重だ」と評していました。同人誌の特徴はサービスが乏しく自己主張ばかりで、商業漫画はサービスを大事にした作品です。昔の商業漫画はサービスを大事にして自己主張を控えめにしていたと思われますが、いつの間にか商業メディア全体が自己主張をするようにもなってきました。もちろん、サービスがなければ売れないのでそこは担保しつつ、ですが。例えば鬼滅の刃は作者が欠損フェチです。これは読み切りの主人公をみればわかります。終盤に重要キャラクターの身体がばんばん欠損していったのも物語の合理性と同時に趣味があったのでしょう。ジャンプにしては手足飛ばしすぎでは?また、チェンソーマンの作者は気持ち悪い行動をキャラクターにさせます。まあ趣味なのでしょう。

 

橋本治は「知性の転覆」という本で次のように書いています。

人間というものは、形が定かではない「欲望」というものを薄い皮で包んだもので、その「欲望を包む皮」のことをモラルと言う。(中略)だから、「欲望を包む皮」は薄い方がいいということになるのかもしれないが、その皮が薄すぎると、中の「欲望」のあり方が透けて見えて、丸わかりになる。

「下品」というのはそうなってしまった状態を言うのだが、そういうモノサシを使うと、「自己主張は下品だ」ということになる。「自己主張」というのは、よく考えてみれば、自分の「欲望」を押し出すことだから、あまりそんな風には言われないが、自己主張が強くなれば、事の必然として「下品」になってしまう。

自己主張の強い、欲望を露出した物語は品がないな、とは思うのですが、そういう時代になってしまったのだから文句を言っても仕方がありません。自分が消費しなければよいだけなのは弁えています。

 

それはいいとして、なぜ欲望が前傾化したのか?なぜ人々は自己主張するようになったのか?という疑問はあります。むしろ私にとってはこちらの問いが大事でした。明らかに90年代とは人間の行動が変わってきている。これはなんなのか?

仮説を考えてみました。「インターネットで本心を吐露するようになり、本心をテキストとして見せびらかすことが当たり前になったから」というものです。2chを使っていたような、黎明期からのインターネットユーザーは同調圧力の強い世間から逃れるようにインターネットでチャットをして、本音によるやりとりをしていました。2000年代インターネットユーザーの楽しみは、世間と距離をとった人たちのコミュニティのおかげでした。少数の荒らしはいましたが、対処できない問題ではありませんでした。

ですが、例の震災とスマホの普及以降は状況が一変しています。誰もがインターネットに繋がり、先人の模倣をしつつ本心によるやりとり、あるいは闘争をするようになりました。また、SNSを中心とした市民同士の相互監視網は今日も元気に稼働し続けています。古いインターネットの楽しみは、世間から距離をとるという共通の価値観があったから、本心でのつきあいをしても心地良い関係が作れたのでした。ですが、誰もが本心を見せるようになると諍いが起きるのも当たり前です。対面して話すときは身体に守られている本心が直接テキストで触れ合うのですから、当然痛みを伴います。

と、このあたりまで考えてみました。これを日記に書いていたところ、Twitterで千葉雅也氏の「欲望会議」という本が文庫化されるのを知りました。欲望?を巡る鼎談の本のようですが、本心=欲望について考えていたので気になって読んでみました。すると、同じ問題意識の話がたくさん出てくるではありませんか。

 

千葉 もう一つ言うと、我々の中から無意識がなくなったのと同時に、無意識が外部化したということがある。それがネットです。ネットというのは我々の共同の無意識です。

(中略)

無意識に書き込むようなことを外に書き込むようになってしまったことも、おそらく無意識の蒸発を後押ししていますよ。

 そういう意味で言うと、もう我々は個人として傷を引き受けることができなくて、何かたまたま衝撃的な出来事が起こると、その傷がすぐに外在化されてしまう。そうすると、ある人に起こった傷が外にあって、しかも外というのは共同無意識だから、ほかの人がそれでまた傷を受けてしまうという構造になるんですよ。

p.89

無意識とは身体とセットなものです。我々はほとんど無意識に身体を動かしていますね。我々の中からなくなった無意識は身体性であり、インターネットで外在化・共同化されているのは、厳密には無意識ではない何かです。テキストを使ってやりとりするのですから、身体がなくなるのも当たり前です。

自分の身体としての無意識ではなく、インターネットに書き込むようになったのはなぜか。いいね、リツイート等の承認が貰えるから、また他人が「もやもや」を言語化してくれるから。このあたりでしょう。初期のインターネットでも似たようなことは起きていました。ですが、SNSに比べて長い文章でのやり取りが多く、やりとりの即時性も低かったので今ほど無意識=身体が希薄な状況ではなかったでしょう。技術とUIの発展が身体性を奪ったという皮肉な話ができます。

 

千葉 人間ってハイブリッドにできていて、言語は人間の外側から人間の体を乗っ取っている。人間には言語を使わなくてもコミュニケーションできる面があります。それと言語の自動性が組み合わさることで、人間というハイブリッドが成り立っているんです。言語を使うというだけでは人間はサイボーグだという見方もできる。言語は機械だからね。

p.130

この箇所は言葉によるバトルを楽しむフェミニストサイヤ人の柴田さん、という雑談なのですが、言葉の性質をよく説明しているので引用しています。

なぜインターネット本心論の文脈で、言葉の自動性=人間を支配する性質が大事なのか。それはSNSに書かれた言葉によって支配されてしまう人が多いからです。「もやもや」や「言語化してくれてありがとう」のようなコメントに見られるように、他人の言葉を読んで満足している人は多いのです。本来の言語化は自分の無意識と対峙して言葉によって無意識を語らせるもので、それなりの訓練と労力が必要です。ですが、それを他者に丸投げできるようになりました。それがSNSで起きていることです。人々の内面は言葉によって繋がれて、「共同無意識」ができています。

 

千葉 我々には、近代的な内面性とは別の主体性のあり方、それこそギリシャ・ローマ的な主体性のあり方を持っている部分があって、僕は、強さというのはそっちに関わっていると思う。だから、内面的な主体性ではなく、ギリシャ・ローマ的な意味での、外側しかないような主体性を復活することが、強くなるということの一つのキーになってくるんじゃないでしょうか。その意味では、傷つきに基づく怒りを僕は「怒り」と呼びたくないんです。内面なき怒りのみを、厳密な意味での怒りと呼びたい。

二村 いまインターネット上にあるのは人間の内面ばかり、傷つきからくる怒りばかりだよね。あれは、何だろう、泣き叫んでいるのかな。

p.195

いわゆる近代的自我の話ですね。古代の人間はもっと精神と身体が癒着していた。精神だけ浮遊できるようになったのはデカルト以降の話です。それが深化していまの状況があります。

また、ここで二村さんがインターネットには人間の内面ばかりがある、と言っています。

 

柴田 自分のガワがないんですよね。境界線となる皮膚みたいなものがないから、MeTooでみんなつながってしまう。皮膚や境界線があったら、「理解はできるけど、私とは違うな」と、同感はできるけど共感にはならないんですよね。SNS的な共感のつながりって、もう自他の認知がグチャグチャで、「私は子供のときにレイプされました」という人がいただけで、それを聞いた人は子供のときにレイプされていないにもかかわらず、「この傷は私のものである」となってしまう。自己の境界がなくて、もうスライムみたいに溶けだしている。私は、「もうちょっと自分に引きこもれよ」と思います。

p.219

SNS上の言葉によって人々(この場合はインターネットフェミニスト)が支配される様子が示されています。身体を失って「共同無意識」に繋がれているから自他の境界が曖昧になり、言葉に右往左往するようになります。

 

まとめます。

  • インターネットで言語を中心にしてやりとりすることで、内面を直接繋げられるようになってしまった
  • 言語化のできる人をハブにして「共同無意識」に繋がれた人たちのコミュニティができた
  • 「共同無意識」に繋がれた人たちは、自他の境界が曖昧になり共感か敵かで言説を判断しがちになる

 

これがSNSを巡る状況です。さらに悪いことに、物理社会のほうにもテキストコミュニケーションは浸透しています。リモートワークをする人たちはSlackやTeamsを使って言葉だけのやりとりをしますし、出勤をして働く人たちも職場のLINEグループに入っていたりします。対面でのやりとりが主な関係でも、離れているときはテキストチャットで内面を繋げてしまいがちです。もちろん、気心の知れた仲ならば本心でやりとりをしてもよいのですが、親しくない人ともテキストで話す必要が出てきています。ですから、ソフトウェアエンジニアの職場で心理的安全性が問題になるのも不思議ではない状況なのです。会って話すと仲の良いコミュニティでも、本心をぶつけると喧嘩になることはあります。対面での会話は身体によって本心が守られていました。いま、我々はあえてこの身体を除去し、内面を直接繋げた「効率的」なコミュニケーションプロトコルを打ち立てようとしています。

では、どうすればよいのでしょうか?プライベートでのSNSはやめられても、職場にテキストチャットが浸透することは避けられません。

「欲望会議」で出てきた結論は「身体を大事にしてほどほどに自閉する」だと私は読みました。身体を大事にするためには、まず第一に、自分が身体を持った死にゆく人間であることを意識する必要があります。そして、次にインターネットの向こう側にいる他者も身体を持っていることを認識することになります。幸いなことに、コロナ禍においてこの認識を得た人は多いかもしれません。ですが、内面同士の接続過剰はこのまま進み続けるため、まだまだ問題は起きるでしょう。

すばやく調理するために必要な道具と技術

はじめに

この一年半の在宅勤務で使ってきた料理の知恵を挙げてみます。

使うのはガス火と雪平鍋、中華鍋です*1

いま流行の時短調理といえばホットクックが挙げられるでしょうが、私はホットクックを試した上で使わないようになりました。予定を立ててそのとおりに行動するのが嫌だからです。また、保温によって味も悪くなります。つくりおきも同様の理由でやめました。

それよりも、道具と工夫で20分で調理が終わる方向を目指しています。そのときの必要と気分に従って料理をして、すばやく終わらせるほうが生活が自由だと思うのです。

道具

料理で大事なのは食材に火を入れることです。サラダや刺身は例外であり、ふだん食べる料理にはどれも火が入っています。

食材に火を入れるのは時間がかかりますが、ちゃんと火が入っていないとまずくて悲しくなります。

だから、すばやく火を入れることを目的にして道具を選びます。

すぐにお湯が沸く鍋

煮物は鍋のスペックが大事です。スペックといっても熱伝導率だけの問題ではなさそうです。

www.yoshikawa-lifestyle.com

いま使っているのはこの商品なのですが、ステンレス製なのに水が湧くのは早いです。おそらく鍋の形によって対流の効率が変わってくるのでしょう。

最高級の鍋と言えば銅の雪平鍋ですが、銅製品のメンテナンスはたいへんなのでステンレス製の鍋を探すのがよいと思われます。食洗機に入るものを選ぶとよいでしょう。

ちなみに、この鍋は食洗機非対応です。ミスりました。おすすめの鍋ではありますが、手で洗いたくない人たちは他のものを探してください。

中華鍋(鉄鍋)

鉄鍋の加熱の速さは説明するまでもないでしょう。

鉄鍋といえば油を塗る面倒なものでしたが、さいきんは錆びにくい鉄鍋があります。使ったあと洗って乾かしておけば錆びません。

また、鉄鍋は洗うのも楽です。ササラかタワシでこすって流せば終わりなので、30秒から1分あればじゅうぶんです。

www.furaipan.com

電気ポット

いつでも熱湯が出てくるすばらしい機械です。

上記の鍋に熱湯を入れて煮物を作り始めたら最高効率が狙えます。

カップ麺や白湯、茶、コーヒーなど使いどころはいくらでもあります。ケトルと違って冷めないのが便利なのです。

www.tiger.jp

よく切れるペティナイフ

野菜の切り方によって加熱の効率が変わります。切れ味のよいペティナイフを用意しましょう。13cmから15cmの刃渡りがおすすめです。

たいていの野菜はこの刃渡りで切れること、まな板なしで野菜を切るのに小さいナイフが向いているのが理由です。

www.yoshikin.co.jp

技術

この節ではすばやく怠惰においしい料理を作ることを目標にします。

そのうえで、練習しないといけないこと、身につけないといけないことはあります。土井善晴氏は料理動画で「こんなん数ですわ」と言っていました。数をこなしましょう。

味見

短調理はしたいものですが、まずくなっては意味がありません。そのために味見が必要です。

味見ができると調味料は目分量でもよくなります。入れすぎなければまず失敗しません。保守的な量を入れておいて、味見をしてから調整します。

手順に従って再現性のある料理しかしたくない、曖昧さに耐えられないという性格の人がいるのも存じております。

ですが、体調、具材の組み合わせなどによって味は変わります。材料の側も食べる側もいつも同じなわけがありません。味が主観であることを受けいれ、味見をすることでそのとき食べたい味に調整しましょう。

まな板を使わずに野菜を切る

野菜は空中で切りましょう。調理の面倒さが軽減できます。加熱前の工程がナイフと野菜を持ってきて切るだけになります。

こんな感じです。よほど野菜が小さくならない限りなんでも空中で切れます。

注意点は刃の行き先に指を持っていかないこと、硬い野菜は切り方に気をつけること。特に人参が問題になります。切るのが少し難しいのに、大きく切ると火が入りにくくなります。煮る場合は問題になりませんが、炒め物は薄く切る必要があります。慣れないうちはゆっくりナイフを動かしたら大丈夫です。

ですが、こんなナイフの使い方は苦手だという方もいるとは思います。その場合は調理用ハサミを使いましょう。硬くない野菜ならだいたい切れるはずです。硬い野菜は諦めましょう。

たぶんナイフが苦手な人はまな板で切るのも怖いのでは?葉物野菜ばかり食べても健康は維持できると思います。柔らかい野菜をハサミで切るのです。

www.kai-group.com

また、硬い野菜をまとめて切っておく方法もあります。詳細はこの記事のとおりです。硬い野菜ならば切ったあとでも保存が効くので葉物の空中切りと組み合わせるとよいでしょう。

non117.hatenablog.com

味付け

塩味

塩加減はいちばん大事です。味見をする主目的は塩加減の調整です。塩が多くても足りなくても料理はまずく感じられます。どんな塩分源でもいいので足りない場合は足しましょう。

旨味

旨味を補う方法はいくつかあります。発酵食品を使う、メイラード反応を起こす、油を入れる、肉や骨などの出汁の出る食材から抽出する、トマトを入れる、旨味調味料。

メイラード反応は炒め物をこちょこちょいじり回さなければ勝手に起きます。焦げ目がつくように、ひっくり返さず放置するのが大事です。

煮物は(骨つき)肉を長時間煮こめばおいしくなります。ポトフやラーメンが例ですね。ですが、時間がかかるので発酵食品を使うのがよいです。お手軽さでいうと味噌は最強です。

トマトには味噌に匹敵する手軽さがあります。煮物にも炒め物にも使えます。やばい野菜ですね。

旨味調味料は便利ですが、我々は食べ飽きているのでつまらない味になります。使う場合は純粋なグルタミン酸ナトリウムよりも、鶏ガラ顆粒とかコンソメ顆粒がよいと思います。食べ飽きている割には複雑な味にできます。

常備するもの

食材調達の話です。消費期限の短い食材を買ってしまうと、食材に振り回されて料理が面倒になります。できる限り日持ちのするものを買います。また、火の入りやすさも大事です。

野菜

冷蔵庫のスペックにも拠りますが、キャベツ、人参、玉ねぎ、ピーマンは日持ちします。野菜をタッパーに移し替えるのもよいでしょう。乾燥させると野菜はしなしなになります。密閉して保存するのが大事です。

どの野菜がいちばん手軽なのでしょうか?キャベツがよいでしょう。キャベツは手でちぎれますし、火の通りも早いです。胃腸のメンテナンスにも使えます。

薄切りの豚肉が最強です。火が通りやすいからです。煮物の場合はカット済みの鶏肉でも大丈夫ですが、沸騰したあと5分くらいは煮る必要があります。薄切り豚肉は沸騰したあとしゃぶしゃぶをするように泳がせたら火が入ります。

肉はどうしても消費期限が短いものなので、こまめに買う、冷凍する、消費期限を無視してよく火を通す、のどれかの対策が必要です。

炭水化物

個人的にはこれが一番悩ましい食材です。私もいろいろ試してきました。ビーフン、焼きそば、うどん、白米、タイ米、パスタなど。

炭水化物は時短調理がそもそも難しいのです。たいてい火が入りにくく、その場で調理するのに向いていません。

袋入りのうどんやそばもありますが、量が決まっていて体調に応じて調整するのが難しくなります。野菜と肉はふつうに食べるが、炭水化物は控えめにしたいときもあるのです。

有力なのはビーフンでした。すぐに火が入ります。ビーフンは電気ポットのお湯で戻して中華鍋に放りこむとおいしく食べられます。

ですが、私はあまり好きではなかったようです。やっぱりお米がよい。しかし米を高頻度に炊くのはたいへんです。たとえタッパー保存を活用しても、米を炊くことそれ自体が面倒ではあります。パックご飯は袋入り麺と同じく量の調整の問題があります。

いま活路を見出しているのはタイ米です。電気ポットのお湯で火を入れておき、中華鍋で加熱すればいけるのでは……!と考えて実験をしています。

まとめ

以上が在宅勤務のお昼ごはんを作るうえで見つけてきた知見です。けっこう高速化・省力化はできました。今は気分に従って好きなものを作れます。ですが、まだまだ高速化の余地はあると考えています。また何か見つけ次第報告します。

補足: この方法で平日に作れるレシピには限りがある

たいていの調理に有効な技術ではありますが、ハンバーグや餃子、カレー、シチューなどを20分で作れるようにはなりません。

ですが、それでも20分で作れる料理は多いです。例えば、インドカレーはレシピが単純なので平日でも作れます。複雑な工程が必要な料理はどうやっても時短ができないのです。

なので、手間のかかるハレの日の料理は土日に時間をかけて作るべきで、平日は20分で作れるレシピでじゅうぶんだと思っています。

*1:中華鍋以外はIH熱源でも使える話です

アファンタジアFAQ

先日自分がアファンタジアであるのに気づきました。アファンタジアとは脳内でイメージ映像を思い浮かべられない認知特性のことです。小説を読んでも情景は映像化できませんし、動画を観たあとに光景が焼きつくこともありません。過去の体験を振りかえっても映像はなく、頭の中には言葉(概念)だけがあります。説明しろと言われたら言葉で説明できますが、頭の中にあるのは「イメージ」ではありません。

アファンタジアはAphantasiaと綴り、phantasiaに否定の接頭辞a-をつけた造語です。目を閉じて親や友人の顔を思い浮かべられる人たちはphantasiaと言えます。

アファンタジアは2015年に発見されたそうです。映像記憶ができない人そのものは百年以上前に報告されていますが、認知特性として定義され研究され始めたのはここ数年の出来事のようです。なぜこれまで見つからなかったのか?たぶん、ASDADHDほど困っていないから、見かけからわかりにくいからだと思われます。

FAQ

生まれつき?

はい。おそらく。幼少期より眠れないときは羊ではなく数を数えていました。phantasiaであれば羊が柵を飛びこえるシーンを想像するそうですが、そんなことはできません。

映像がないなら何があるの?

言語(概念)があります。音楽は稀に再生できます。どの感覚が抜け落ちているかは人によって違いがあるようです。

言語ってなんやねん、と思われるでしょうがこれ以上の説明はありません。強いてたとえるなら、無意識のほうから言葉が勝手に出てくるというか……。ただ概念と言うのが正確です。

困っていないの?

短期記憶はたいへん弱いです。レシピに書かれた醤油の量を覚えられないし、二段階認証の数字を覚えるのも苦手です。飲食店でお客さんの注文を覚えるような職業には向いてないでしょう。

ですが、文字は書いておけば消えないのでたいていのデスクワークでは困りません。メモができれば大丈夫です。

 

映像コンテンツが楽しくないという悩みはあります。傑作を映画館で観るときすら暇に感じることがあるので本当に向いてないのだなと諦めています。映像コンテンツは映像ではなく台詞を追って消費しています。

ほとんどのコンテンツはphantasiaであることを前提に作られており、私向けの娯楽は少ないです。いつも人生が暇だと思っています。

逆に得することは?

短期記憶は壊滅的ですが、なぜか記憶違いや記憶の改変をすることは少ないです。これはアファンタジアを使った実験でも示唆されている傾向のようです。

一度理解をしてしまえば確実に再現できるので、深い理解になるまで考え続ける作戦でワーキングメモリ不足に対処しています。

また、映像ではなく言語で考えるからなのか、プログラミングや設計が得意です。あと整理整頓も得意ですね。

どうやって気づいたの?

もともとphantasiaらしき人と喋ると違和感はありました。

さほど困ることはなく暮らしてきたある日、妻氏が画像を丸ごと記憶できるのを知りました。そんなの特殊ケースだろうと思っていたのですが、ふつうの人も画像を思い浮かべられることに気づき、自分がアファンタジアだと認識しました。一ヶ月くらい前のことです。

夢はどうなの?

正直なところよくわからないです。夢でわけのわからない出来事は起こりますが、短期記憶が破滅しているのでそれが映像だったかどうかよくわからないです。

こう書いている時点で映像ではない、と言えるのかもしれません。

ですが、幼少期には映像つきの夢があったような覚えがあります。4歳か5歳のころ、自分のお腹に人面瘡ができて喋る夢を見ました。そのときたいへん恐ろしい思いをしたので、それはビビッドな映像だったのかもしれません。

言語および自我、脳構造の発達によって夢の構造が変わるのでしょうか。

発達障害とは違うの?

併発している人もいるでしょうが、別の認知特性ではないでしょうか。研究が進むと関連が明らかになるかもしれませんが。

知能検査を受けたりメンタルクリニックに相談したことはないので、自分がどういう発達傾向なのかはわかりません。ですが、ASDよりはADHDに近い特性だとは自認しています。とはいえ薬がほしいと思うほど困ったことは起きていないので、「どちらかというとxxに近い」と主張しておきます。

絵は描けるの?

模写はできます。ですが、想像したものを描くのは苦手です。

例えばこんな図を描いたことがあります。

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左が私の描いた図、右は妻氏が意図を汲み取ったもの

左が私の描いたもので、右が妻氏の描いたものです。左の案をもとに右の絵が描かれました。京都タワーを描いたつもりなのに鉄塔になっていたり、ピーマンらしき謎の物体が描かれています。

このように、絵?と言いたくなるようなものを描きます。これしか描けません。絵というか記号だと思います。

「めんだこちゃんが巨大化してUFOのようにいろいろ吸い込んでいるとおもしろいだろうなあ」と思って左図を描きました。

suzuri.jp

関連文献

nazology.net

togetter.com

www.kitaohji.com

週報2021/12/18

日記に書いた近況や考えごとをふりかえって週報としてまとめてみる。

近況

労働: 相変わらず在宅勤務。設計をしてgolangを書きまくる日々。

体調: 冷え性でだるい。メンタルは平和。

余暇: 読書と日記。妻氏の漫画サポート。低優先度枠としてインターネットとスマホゲーム。

料理: 毎日味噌汁焼き魚。干物と大福餅を同時に買ってしまい冷凍庫が溢れた。包丁を研がないとやばい。

米国から輸入した2万5千円のパスタカッターが壊れていたので修理した

半年ほどキッチンエイドで製麺をしているのだが、細麺を作りたくなった。パスタなら多少太くてもよいのだが、中華麺は細めにしたい。うちにあるのはスパゲッティ幅のパスタカッターだけだった。

北米ではカッペリーニ幅のパスタカッターも販売されているようだ。だが日本の代理店は取り扱っていない。どうしても欲しかったので輸入することにした。Amazonの怪しい輸入業者に注文し金を払うと二週間くらいで家に届いた。

ところが、このパスタカッターを使ってみると壊れていることがわかった。パスタカッターには溝のついたローラーと、ローラーから麺を剥がす櫛がある。ローラーで麺帯を切り櫛で麺を剥がす仕組みだ。この櫛が衝撃か何かで外れていた。おそらく輸送中に投げられたりしたのだと思う。櫛が外れていると麺をローラーから剥がせなくなる。実際にローラーが目詰まりしてパスタカッター内部が小麦塊だらけになった。

2万5千円を捨てるわけにはいかないので修理することにした。幸い単純な機構をしていたので、分解したら櫛の付け直しは容易だった。問題は内部に詰まった小麦の処置で、50個くらいあるローラーの溝を一つずつ掃除するはめになった。2時間くらいかかったと思う。

教訓としては、「個人輸入はお金を捨てる覚悟をする」「外国の輸送網を信頼しない」「届いたらすぐに動作確認をする」あたりだろうか。幸い修復できたのでよかったが、もっと繊細な機構の物だったら詰んでいたと思う。

暇と孤独と欲望

100年前に比べるとわれわれは相当暇な生活をしている。家事の多くが自動化されたからだ。そして余った時間を労働や遊びに費やしている。労働のほうはおいといて、余暇の使い方が気になる。私は余暇が暇で仕方がないのだが、アファンタジアなので映像やゲーム、漫画があまり楽しめない。なので本を読むのだが、難しい本を読むには体力がいる。いつでも読めるわけではない。一方で小説も映像イメージを再生できる人に向けて作られている。なので、私に合う娯楽は少なく暇で困っているのだ。

暇は孤独感を生みやすい。私は哲学をかじって人間は本質的に孤独じゃん、と納得したのでいいのだが、ふつうは孤独が嫌なのだと思う。だからインターネットの人々はコミュニティを作って競争や自慢をしている。暇だから直ちに他者との連帯を、となるのは安易だと思うのだが、そのおかげで消費が活発になっている側面もあり一概に否定はできない。

孤独と仲良くするならばお金はかからないが、他者を求めるとお金がかかる。貨幣を分析をしてみると、お金はさまざまなものと交換できることがわかるが、その中でも大きな地位を占めるのが賃金である。他人を使役するのにお金が使われるのだ。カフェでコーヒーを飲むときもアルバイトの人間を使役することになる。お金を使うことは他者の使役が絡んでくるし、お金を貯めることも他者を使役する可能性を保存しておくことになる。もちろん資源の値段もばかにはならないし、資本家への利子・配当としての支払いも含まれているが、それでも人件費は支配的だと思う。でなければ経営者・資本家は人を減らしてコストカットをしないだろう。

人々は暇になり他者を求める。お金で使役してサービスをしてもらうのがもっとも高価である。自慢をするために市場から「アイデンティティ・キット」を調達することもある。商品は他者の労働で作られている。また、YouTubeなどで他人のお喋りを観ることもある。これには広告で対価を払っている。このように、暇を原因として欲望が生じ、他者の労働を頼りにする。あるいは直接的に他者をお金で買っている。暇そのものは分業による効率化の恩恵であり、効率化は市場経済で駆動されている。どうやら現代の経済は、効率化によって時間を生み、余った時間を全力で欲望に投じるシステムになっているようだ。

友人とのお喋りほどお金のかからないものはない。飲み屋やカフェのような場所を使うこともあるが、それも必須ではない。仲の良い友人とならば公園のベンチと飲み物だけでも楽しく暇を潰せるだろう。今ではDiscordやSlackを使う人も多そうだ。だが、暇なときいつでも友人と話せるわけではない。相手にも都合がある。だから、友人がいたとしても暇つぶし消費は必要なのだ。楽しく話せる友人が多い人ほど、金をかけずに余暇を楽しめると思う。また、孤独を楽しむ人は暇だからといって他者を必要としないのでこれもお金がかからない。中間の、平均的な人数の友人を持つ人にとって暇つぶし消費が大事なのだと思う。

日記で自分に説明をする

このように日記でいつも物事の解明をしている。自分なりに説明をつけて納得するということだ。とはいえ、説明は仮で構わない。とりあえずの結論として考えておくものだ。新しく経験や知識が入れば以前の説明を覆すこともある。だから本を読み続ける。自分の持っている情報の範囲内で説明し、納得しておく。説明をする対象は社会現象や他者、自分の性格、不安など多岐にわたる。なんでも素人なりに考えてみる。

日記で自分に説明すると、理解が深くなるのがわかってきた。これは「人に教えると自分が理解していないことが明らかになる現象」や「人に説明するうちに自分で答えを見つけてしまう現象」と似ている。書くことで自分の理解の度合いを確かめ、わかってないことをわかってないなりに考える。うまくいけば自分に説明しているうちに理解が深くなる。わかっていないことを知るのも大事だし、本を探すきっかけにもなる。だから何でも文字にして考えるのだ。これが私の日記である。

phaが新刊を出すというので買って読んだ。この本で紹介されていた橋本治という人が気になり、いろいろ読んでみた。たいへんよかった。自分の頭でよく考えている人であった。

 

これは橋本治の最晩年の本だが、現代社会の宿痾がどこにあるかを論じている。論じているというか、書きながら本人が探索している。後半二章がよかったので読書メモを書いた。下記は日記からそれを抜粋したものである。引用に続く文は私の感想である。

 

人間というものは、形が定かではない「欲望」というものを薄い皮で包んだもので、その「欲望を包む皮」のことをモラルと言う。(中略)だから、「欲望を包む皮」は薄い方がいいということになるのかもしれないが、その皮が薄すぎると、中の「欲望」のあり方が透けて見えて、丸わかりになる。

「下品」というのはそうなってしまった状態を言うのだが、そういうモノサシを使うと、「自己主張は下品だ」ということになる。「自己主張」というのは、よく考えてみれば、自分の「欲望」を押し出すことだから、あまりそんな風には言われないが、自己主張が強くなれば、事の必然として「下品」になってしまう。(p133)

就活では自己主張を要求される。下品な欲望的行為が当たり前とされる世の中である。かつて品性下劣とされていたものが当たり前になった。それだけモラルと知性は分離し、凋落している。

 

それは、実は「物が足りなくて困ることがある」という「それ以前の時代」の考え方で、「物が余ってしまう未来」のことを頭に置いていない。(p175)

需要は満たされているので、無理やりひねり出している。だからコロナ禍において外食が控えられると食糧が余る。必需品のなかの必需品である食糧が余るのだ。100年前には考えられない事態だと思う。無駄を無理やりつくって生活しているのが現代人だ。その無駄は人々の欲望を刺激することで捻出されている。他人に釣られてものを買う人たちがそう。

 

ソ連邦の消滅は、「大きければよい。その大きいことを可能にするのは軍事力の大きさだ」という、長く続いた古い考え方の終わりを表すもので、同じ時期に起こったEUの発足決定は、「もう一度経済発展の勝者への道を」という目論見で、しかし日本はその先をもう行っている。

「その先」とはどういう状態か?「どうしたらいいか分からない」という状態である。なにしろ、もう経済というものは「これ以上動かない」として密閉されて、「実体経済」というレッテルを貼られてしまったのだから。(p181)

これは思いもよらなかった視点だ。この文章のあと、北米は情報産業と金融へ舵を切ったが、金融はリーマンショックが示すように破滅してしまった、と続く。金融経済は虚構である。実体経済という言葉が示すとおり。しかし情報産業はどうか。人々の欲望のうち、物質に囚われない側面を引き受けているのが昨今のインターネット関連サービスだ。電気と半導体しか使わないので効率的である。日本は昔からコンテンツを作っている。これも情報産業である。その点では日本らしい情報産業は昔から変わっていないのだ。コンテンツとしての情報産業では日本は昔から先を行っていると言える。

 

それで、「主義」というものはつまり、「神」的なものが存在しない宗教なのだと、放っといた末に理解した。「主義」は宗教の代替物と言ってもいい。(p194)

民主主義を大事に、と言われるときの主義も宗教になっている。同時に科学とか合理性の主義も流行っている。

 

この現代で「知性」というものは、様々に存在する複数の問題の整合性を考えるもので、一昔前のもっぱらに自分のあり方だけを考える「自己達成」というような文学的なものではないのだ。(p204)

 

人は不遇になって「自分のあってしかるべき立場」を失ったと気がつくと「ムカつく」になり、そこに「自分の気に入らない言説」を流し込まれると、反知性主義になる。(p213)

 

「現代の知性は、自分中心の天動説ではなく、様々な問題の整合性を頭に入れて解決策を導き出すものだ」とは言ったけれども、これを簡単に敷衍してしまうと、「自分のことだけを考えずに、みんなのことも考えましょう」になる。(p218)

至言。宮本茂が言うように、複数の問題を一挙に解決する方法がアイデアである。それぞれの人にそれぞれの事情があり、問題がある。それぞれの立場における合理的な判断の結果が今の状況である。できうる限りのすべての情報を集めて問題を整理し、効率的に解決する能力が求められている。たいへん厳しい状況だとは思う。

 

というようによい本だった。最初はどこへ行くかまったくわからなかったのだが、橋本治本人もわからなかったのだと思う。

つるんでもひとり

インターネットの人たち、いや世の中の人たち一般はいつも敵味方をよく識別しているな、と思った。また、日常的なコミュニケーションでも特に障壁がなければ仲間を増やそうとしてくる。例えば漫画を勧めて読ませるとか。何を観ても「共感」で判断するとか。

私はどこかの段階で仲間意識をなくしてしまった。これはそのうちブログに書くであろう、私がAphantasia(イメージ盲)だった話にも繋がる。ちょっと認知の形式が違うので波長が合わないのだ。まあ仕方がない。私にはこの認知形式しかないので。ともあれ、仲間仲間、敵だ敵だとやっている社会からちょっとだけ身を引いている気持ちがある。ちなみに妻氏も似たような考えである。いや、むしろ私よりも過激かも。われわれは仲間が云々という考えで行動していないのだ*1

まあ私の話はどうでもいい。それよりも仲間意識で説明できる社会現象が多そうだからこちらを考えていきたい。たぶん理論社会学的な話。バウマンのコミュニティとリキッド・モダニティにも影響を受けている。

なぜ敵味方を識別するのか。敵とか味方を相手にしたとき、情動的な反応が出てくる。情動は脳の古いシステムである。なので敵味方識別は生物の古いファームウェアに実装されたシステムだと考えてよいだろう。そりゃあそうである。敵を高速に識別して逃げたり噛みついたりしないと食べられてしまうのだ。最初は影が見えたら逃げるくらいの解像度だったものが、感覚器官と脳の発達によって高度になっただろう。敵、味方、中立くらいのカテゴリをさまざまな存在に対して判断できるようになる。また、甘いものや交尾の相手など、快楽をもたらす対象も認識するようになる。こうして進化した先に、仲間意識が出てきたのだろう。多くの高等動物は敵味方を識別できる。社会的動物はもちろんのこと、草食動物だって群れを作る。自分と似ているものは敵ではない、とするのだろうか*2

さて、この仲間意識はどのくらい近代社会に浸透しているのだろうか。昨今インターネットでよくみるのは、SNSバトル、超高速な流行り物消費とか。SNSでの闘争に敵味方識別が活きているのは自明だろう。また、流行り物に振り回されるのも仲間についていこうとするからであろう。さらに世間の常識も仲間意識が基盤になっているだろう。古い価値観だが、「就職、結婚、子ども、マイホーム」という規範も多数派がそうするから真似すべきものになっていた。古い社会から新しい社会まで、そして新しい文化にも仲間意識は見つけられる。

「常識」や「みんな」は古い仲間意識ではあるが、仲間意識が支配していることは今でも変わらない。たしかに五十年前の仲間意識は地縁的で歩いて回れる範囲のものだったと思う。しかし、都市化が進み情報の流通が進んだここ三十年において、仲間意識そのものが廃れたことはない。都市的な、土地に縛られない多様な人間関係においても仲間意識は活きている。地縁的なコミュニティから、新しい都市的なコミュニティへと移行しただけである。

われわれの世代で重要だった「アイデンティティ」も地縁的コミュニティから都市的コミュニティへの移行にみえる。都市的な「仲間」は流動的で不安定である。物理的な結びつきが弱いので簡単に縁を切ることができる。この不安定さゆえに、「〜である」ことを求める=アイデンティティの希求が進んだのだと思う。アイデンティティを求める心理は今も変わっていない。SNSのプロフィールに「〜である」かを書く人は多い。インターネット時代においても「〜である」人が集まって群れをなすのだ。

私はであること、すること、できることという記事で、「〜であること」より「〜すること」で「〜できること」を増やすのが大事だと主張した。この考えは今も変わっていない。ブログのサブタイトルに「料理と哲学をする」と書いてあるのはそういう意味がある。「〜であること」は仲間とつるむため、あるいは威張るためのラベルしかない。ラベルは過去の業績であり、過去のラベルにこだわると不自由になると思う。

「~であること」で群れるコミュニティを作ってしまう傾向はこのまま続くだろう。無意識に仲間やコミュニティを求める限り、自らの本源的孤独性を認識しない限りは仲間作りのためのラベリングは手放せないだろう。

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*1:こう言うと、「じゃあお前は敵なのか!」と誤認する人は多いのだが、敵でも味方でもない。たいていは相手を人間として尊重するだけ。普通は「仲間だから尊重する」という原理で動くだろうが、われわれは相手をラベリングする気がない。

*2:似ている人は味方、似ていない人は敵とするのが差別の構造

「善き生」の問題

最近デカルトを読んでいて哲学には「いかにして真理に至るか」という問題と、「いかにして良き人生を送るか」という問題があることに気がついた。哲学にはギリシア時代からそういう問題意識があったようにみえる。

さて現代の人たちはこの問題にどう答えているのだろうか。真理の認識について今では科学哲学という形で議論が続いている。ある程度の結論は出ており、人間がどれくらい間違えやすいかとか統計学が強いとかそういう話が出てきている。一方でいかにして良く生きるかという問題は未解決にみえる。

一見するとお金持ちになって労働から解放され、好きなものを買えるようになると人生が良くなるようにみえる。実際にそう思っている人も多いだろう。これは極論すると消費社会において金持ちになったら人生がよくなるという解決策だ。

しかしこれも嘘であることがわかる。Twitterは便利なもので、社会的に成功したとされる人の言動もつぶさに観察できる。彼らは幸せそうだろうか。そんなことはない。いつもイライラしていて他人と闘争してばかりである*1。これは昔から知られていることで、物理的な充足は「善き生」の半面ではあるのだが、しかし半面でしかない。

「善き生」の残りの半面は主観の問題である。どんな出来事も最終的には主観によって認識される。おのおのの精神のあり方が人生の質を決めている。客観性は他人の認識を集めて均したものなので、この私の、あるいはあなたの満足に繋がるとは限らない。つまるところ、自分がどう受けとめるか?より大事なものはない。

主観の大事さは人間の本質的孤独さに繋がっている。どんなに物に囲まれていても、どんなに家族がたくさんいても、人間はひとりで死ぬのだ。この身も蓋もない事実を受けとめてようやく問題の出発点に立てる。

だが人間がみな孤独で自分の主観が大事ならば利己的に振る舞うのが最適解にならないだろうか?もちろんその解もありうる。利己的なふるまいを人々が選んだ結果として他者を金で使う消費社会があるとも言える。だが、そんなことをしてしまうと本当に孤独なまま生きることになるのだ。

どういうことか?私もまだうまく説明できないのだが、人生の孤独さを軽減するには他者を人間として認める態度が必要なのだ。つまり「人間は孤独で主観が大事だ」という原則を他者一般に適用するのだ。コンビニ店員も配達をしてくれる人たちもみな人間として認める。道具ではない。この態度こそが孤独さを和らげる(唯一の)処方箋なのだ。今のところ私はそう確信している*2

*1:HIKAKINは希有な例外だと思う

*2:この態度をもってしても理不尽な他者問題は発生するのでこれについてはそのうち論じる