しゅみは人間の分析です

いらんことばかり考えます

週報 2023/04/09 箱で家が埋まる、捨てられた椅子に座る男、持ちものと人生

4/1(土)箱で家が埋まる

引っ越しの見積もりに臨む。今回はアートにした。アートはZoom見積もりに対応していて、YouTuberみたいに家中をスマホで撮りながら説明をしたら見積もりがもらえる。

ちょっと高いかな?でも物はいっぱいあるから仕方がないよなあ、と思っていたら勝手に値引きがなされた。要求してないのに。三万円ほど安くなり、相場通りと思われる額で妥結した。

箱は明日届くらしい。六十箱。本が多いと言ったらこの規模になった。届いたら畳まれた箱だけで家が埋まってしまう。

4/2(日)捨てられないUSBケーブル

片づけを開始する。いらないものは捨て、いるものは分類して収納。引っ越しは物を整理するチャンスである。

ステッカーや説明書、付属品のネジなど細かいものを入れるのにジップロックが便利だった。なんとなく溜まっている大量のUSBケーブルもジップロックLサイズに詰めた。パンパンになる。いらないのでは?

箱を置く場所がないのに気づく。はて?なんで?家具が多いからだった。この家に引っ越してきたときに比べてソファや本棚、机が増えている。コロナ禍の影響もあるし、妻氏が同人活動を本格化させたのもある。どちらも越してきた頃には予想だにできなかった変化だ。

4/3(月)捨てられた椅子に座る男

dailyportalz.jp

いつものように夕食を食べながらDPZの記事を読んでいたら気になるライターを見つけた。住正徳さん。これはリマスター記事なので2008年のもの。今はDPZでは書いてないようである。

住さんの文章は妙に上手い。またアイデアもよい。裸眼会とか。

dailyportalz.jp

今は何をされてるのか、と気になり調べたらTwitterにいた。レシートで短歌を読み、毎日捨てられた椅子に座っていることがわかった。たまに雑談配信をされている。背景には一面の本棚。これは本物だなあと思った。

4/4(火)メモリは通貨

寝るときTシャツを着ているから背中が冷えるのに気づいた。ばかみたいな絵のTシャツを着て過ごしたいが冷え性人間には向いてないことを悟る。Tシャツはくまみねデザインのがおすすめ。

 

KMCの友人に人をダメにするクッションを譲った。我が家では固めの座面が人気である。やわらかクッションは合わなかった。

カーシェアで来てもらって受け渡した。五分ほど雑談をして引き取ってもらうお礼?としてDDR5メモリをあげた。最新世代のメモリは持っていたらそのうち役に立つ。通貨である。

4/5(水)でたらめが先、秩序はあと

片づけ加速中。家具をどかして箱置き場を作った。だんだん生活空間が埋もれてくる。このまま箱といっしょにしばらく過ごすのだ。

 

note.com

よかった。創作はランダマイザー(でたらめ装置)によって、自分でも予想できないものを産み出すから楽しいのである。

4/6(木)その他カテゴリに負けるな

新居のインターネット選定。JCOM 300Mbpsとフレッツ100Mbpsが選択肢だった。数字だけ見るとJCOMを選びそうになるが、実は上りが10Mbpsしか出ない。つまり画面共有やカメラオンのZoomは不可能。フレッツにした。

 

持ち物の整理に棚が便利だった。収納から物を出しカテゴリ別に分けていくと、必ずその他カテゴリができる。その他カテゴリの物はとりあえずどこかに置きたい。床は最悪で、すぐに足の踏み場がなくなる。テーブルが余っているならそれもよいが、棚だとコンパクトなテンポラリディレクトリにできる。

棚にその他カテゴリを置いておくと、別の収納を整理しているうちにちゃんとしたカテゴリに昇格することがある。このスキャナーとラベルプリンターは紙を扱っていて似てるから一緒にしまっておけばいいじゃん、みたいな。

それでもその他カテゴリが消滅しなかったら、諦めてその他収納を爆誕させる。できればその他(2)フォルダは作りたくないものだ。

4/7(金)リクルートスーツが光って見える

夜、社交ダンスのレッスンへ移動していたらリクルートスーツの巨大集団と遭遇する。そういえば四月に入って初の金曜日である。新入社員が連れだって飲みにいったようである。

それにしてもなぜリクルートスーツは目立つのだろうか。就活生が一人で歩いていてもそれがリクルートスーツであることは一目でわかる。こなれたおっさんのスーツ姿は、ネクタイが外れていたりヨレヨレになっていたりする。これが着られる、着ているの違いだろうか。

持ちものと人生

片づけをしていたらいらないものばかり出てくる。いるものもいっぱいある。なんでこんなにものが多いのか。これらはどこからやってきて、どこへ行くのか。なぜ所有し続けるのか。

ものを押しつけないでほしい

もらえるものと買うものがある。もらえるものが厄介。

 

どこかの店でスニーカーを買ったらエコバッグがもらえたことがある。あまり使いやすいものではないが、つい受けとってしまった。でも、店員も本社や上司の指示で配っているだけである。彼らにも責任はない。

なぜタダで配られるのか。安いからである。大量生産技術のおかげで、何でも安く作れるようになった。これ自体はありがたいことである。

本当に使わないものは捨てるしかない。もちろん売ってもいいのだが、売る手間に見合うのは数千円の値がつくものだけだ。

しょうもないものを配り、捨てる人に葛藤させる企業にはムカつくが、どうせ安いのだからと思って捨てるしかない。ただ、さいきんはプラスチックや金属のリサイクルが盛んである。これらの素材のものは気軽に捨ててもよいだろう。

道具とコレクションが残る

こう考えてものを捨てまくった。でも、捨ててもまだ残るものがある。残したものたちの箱が家を圧迫している。何が残ったのだろうか?

 

道具とコレクションだった。

三割くらいが道具だろうか。ペット飼育の道具、調理器具、画材……。いろいろな道具があり、それにしかできない仕事がある。できればシンプルな道具を少数持ちたいものだが、そう万能の道具はない。

残りがコレクション。つまり趣味の産物。我が家の場合は本と原稿である。本は読んで売ることが多いのだが、それでも選別を生き抜いて本棚に溜まっていく。あまり読み返さないにしても、いい本は手許に残しておきたい。捨てられない。

コレクションは、本人(あるいは同じ趣味の人)にしか価値がわからないという特徴がある。市場的に価値があるものを集めたコレクションもあるが、たいていは思い出、思い入れとセットになっている。持ち主の来歴、人生とともにあるものである。なので捨てるには勇気がいる。自分の過去を清算しなければ手放せないだろう。

自分はオタクに向いていなかった

今回の引っ越しでライトノベルとアニメのBlu-rayなどを処分した。00年代からインターネットをしていて、高校生の頃にはニコニコ動画が出てきた世代である。いわゆるオタク趣味とは無縁ではなかった。「アイデンティティキット」の選択として自分はオタク趣味をやるのだ、という意識もあったように思う。

大学に入ってからもその手の趣味のつながりを大事にしてきたのだが、当時から本気で楽しんでいたわけではなかった。コンテンツを繰りかえし鑑賞することもないし、何らかのキャラクターにハマることもない。何より映像コンテンツが得意ではない。だんだん趣味が合わないことに自覚的になり、宗旨替えは進んでいった。

 

こうして今回の引っ越しをきっかけに(ほぼ)すべて精算できてしまった。残ったのはほんの数冊の小説だけ。これは未練、あるいは思い出の本質部分である。

残った趣味で一生遊べそう

こうして今残ったものは何か。どうも人間への興味のようである。構造的把握を目指して分析的に人間一般を観察したい。高校生の頃から人間への興味はあったのだが、そういう学問(人文学その他)の存在は知らなかった。興味はあるんだけどな〜と思いつつ、なんとなく理系に進み今に至る。VRやAIの研究室に所属してみたこともあるが、教官らが観ているのは科学的対象としての人間だった。私は「生」も混みで観察したい。

いらないものは精算しちゃったので、あとは残りの人生を使って興味に向かうだけである。だいぶ遠回りしたが、読み書きも鍛えたので立ち向かえるようになってきた。でも、もし当時に人文学を紹介してくれる人がいたら人生は変わっていたかもしれない。

週報 2023/04/02 間取りの不思議、シビアになる体調管理、価値観の優先順位、頭の整理の哲学

日記

3/25(土) スモスモSUUMO

起きたら昼だった。夜型の我々は金曜日にうっひょーと夜更かしをして昼まで寝ることが多い。

まともな朝食を諦め、パンを狩りにいった。肉系のパンばかり買う。あと食パン。妻氏はたまにパン自作を諦める週がある。
おやつにあんドーナツを買うか悩んだ。私はあんドーナツが大好きで、うっかり買ってしまうことが多い。この日も別腹として計上して買った。あんドーナツの魅力には勝てない。

 

午後、昼寝をしたあと週報。この回からコラージュみたいな作り方を試している。まず一次日記と二次日記を週報ファイルにコピペして、載せる題材を確定させる。そのあと素材をツルツル磨いたり書きなおしたりして完成に持っていく。テキストはコラージュがやりやすいのである。効率的だった。

 

深夜になってスモスモSUUMOする。引っ越しの機運が高まって物件探しを始めた。生活に閉塞感があったのでモチベーションは高い。数年住んでいるうちに周辺環境が変化して日照も悪くなってるし。ただ、引っ越しはめんどくさいよなあ、と思い日和りつつ検索していた。

3/26(日)リビングがでかいとうれしい

KMC SlackにいるSUUMOマスターの知恵を借りていい物件を見つけた。リビングがとにかくでかい。我々はリビングが広ければそれでよくて部屋数はいらない。LDKの絞り込み条件なんかなくてもいいのだ。
午後、ジムへ行く予定を取りやめ、不動産屋へ。見つけた物件の内見を申し込む。日曜日だから管理会社が休みで無理だそうな。翌日内見の約束にして入居申し込みだけしておいた。この時期はほんとうに競争が激しく、いい物件はすぐになくなると言う。


「こんな変な間取りでもですか?」「変な間取りは供給が少ないからそのぶん取り合いになる」「なるほど〜」

 

午後は珍しく趣味プログラミングをしていた。自作アウトラインプロセッサの機能追加を行う。

3/27(月)ジムのあとにしてたら負けてた

昼で退勤し、ビリヤニを食べたあと内見へ。
近所なので現地集合となった。約束の時間より早く到着したのだが、先に着いていた担当者と雑談をするコミュ力がなかったので近所の桜を眺めて時間を潰した。

時間になったら妻氏も合流し部屋を観察する。予想を上回る掘り出し物だったので即契約を進めた。
我々が昨日申し込みをしたあと、数時間後に別の申し込みがあったらしい。ジムのあとにしていたら負けてた。おそろしい時期だ。

 

三十代の夫婦となると、何かと家を買わないのか?と言われる。今のところその予定はない。環境を変えられないのが嫌だから。生活の問題を解決する方法は「自分を変える」「相手を変える」「環境を変える」のいずれかである。「相手を変える」のは暴力なのでないものとする。「自分を変える」は理想だが時間がかかる。なので「環境を変える」選択肢は残しておきたい。家は環境のうちもっとも大きなものである。

3/28(火)冷えに気をつける

体調が悪く低調に過ごした。深呼吸をしようにもできない体調。やばいなーと思いつつ夜まで過ごし鍼で救済された。
身体に冷えが入っていた。そういえば数日前にかなり暖かくなったあと、また冷えてきた。油断してしまったのだ。冷え性の私は曲池へのお灸が欠かせないそうだ。肘にあるツボで循環をよくする便利なやつ。

ちなみに冷えは朝の背中の冷たさで把握できるらしい。朝起きて体温が上がっていくタイミングで背中が冷たかったらやばい。背中の冷え=背中に血が回っていない、という原理で深呼吸ができなくなる、と解釈した。

3/29(水)アッチヤ!

四条通を歩いていたら外国人に道を聞かれた。私の前を歩いていた数人はことごとく無視したのだが、なぜか私は目が合って対応してしまう。英語は得意ではないのだが、subway stationが聴きとれたので烏丸駅の方向を指さした。thank youと言われて解決する。

それにしても話しかけられて無視して歩き去るのはすごいと思う。街で知らない人と話すのが当たり前の文化圏も多いはず。観光客は異様な国だと思うのだろう。

ヨーワカランケド地下鉄ヤナ!アッチヤ!

3/30(木)契約よりも調停

新居の審査が通った。わーいわーい。通ってしまうとスンとなり引っ越しが現実として迫ってくる。うわーめんどくさい。

審査が通った途端にあちこちから電話がかかってきた。不動産会社が義務的にやっている引っ越しとインターネット回線の斡旋。どれも断った。自分で決める。

 

それにしても契約はまだなのに入居が確定したかのように扱うのは何なのだろうか。契約が締結されるまで何も確実なことはないはずだ。捺印して契約書を受けとるまではぜんぶ口約束ではないのか。
日本はその辺が曖昧である。『日本人の法意識』にもそういうことが書かれていた。

「むしろ望ましい」のは、あまりそういう点に心配することなく、もし問題がおこったら、確定した権利義務を主張しないで、その時に「話しあい」をして解決するということを予定することである。(p94)

日本では「調停」が大事で、契約によって事前に拘束する文化ではない。契約は儀式の側面が強い。近年の社会的傾向としては少し変わりつつあるのだが、それでも厳密に契約をする法意識の人は多くない。そういうものなので契約をするときは調停でがんばることを覚悟する。

4/1(金)二十分間憎悪

仕事でリファクタリングをしている。担当しているシステムの中核をいじっており、心臓手術みたいなものである。いろんなプログラムから依存されているので、少し変更するだけでテストは落ち、血がドバドバ出てくるのであった。「動脈と静脈を逆に繋いじゃった。てへ」みたいなこともよく起きるのだが、プログラミングは完成するまで失敗しまくってもよいのである。

 

引っ越しに向けて片づけの作戦を考えた。私は暇があるし整頓が好きなのでいくらでも稼働できる。だが妻氏は漫画の原稿がありあまり片づけに参加できないし、そうすべきでもない。でも妻氏の持ち物の整理もある。

そこで「十分間憎悪」を使うことにした。これは2018年に私が思いついた生活術で、毎日数十分だけ家事や片づけをする、という方法だ。例えば毎日二十分ものの整理をしたら、一週間で二時間の稼働になる。けっこうでかい。あと三週間くらいあるので、これでいけると思う。失敗したら笑ってほしい。

non117.com

雑記

間取りの不思議

今住んでいるマンションは90年生まれである。この世代の間取りは余裕があって、廊下、洗面所とトイレが広々としている。一方、最近できたマンションはどれも居室以外が切りつめられている。この三十年の間で間取りの最適化が進んだようだ。資本主義の効率化圧力はこういうところにも出ている。
なので、部屋の広さは平米数だけではわからないものがある。どんな時代に設計されたのか、という文化っぽい側面も効いてくる。現代の最新式の間取りが最適解と思えても、数十年経ったら別のトレンドになっているかもしれない。

シビアになる体調管理

AIで仕事が効率化されるとむしろ困るよな、と思った。最高の集中力なんて一日に三時間出せたらいいほうだから。労働に拘束される時間のうち、出てくるパフォーマンスにはむらがあるのだ。パフォーマンスが出ないときはつまらない仕事をしている。
だから、フルタイムの業務内容が頭を絞るようなものばかりだと困るのだ。そんなの毎朝5時に起きて筋トレからスタートするような人種じゃないと耐えられない。
それでも頭を絞るタスクばかりやってくれ、と言われたら労働の裁量をください、という話になる。パフォーマンスが出ないときは、つまらないがやらねばならぬ家事でもしていたい。
そういう事情がありつつ、世の中の効率化は進んでいるから労働の裁量が強く求められているのだろう。自由、欲しいよなあ。

価値観の優先順位

ウェブ系に限らず、企業では会社の思想を示す価値観セットが掲げられることが多い。例えばはてなだとこんなの。

ミッション - 株式会社はてな

はてな社を腐す意図はなく、ただ例として出している。いろんな組織でこの問題はある。)

でも、ただ価値観を示されただけでは現実の問題に立ち向かえない。仕事では「金儲けとユーザー体験と技術的挑戦のうち、どれが優先なんですか?」「トレードオフが見つかったんですが、何を優先するんですか?」みたいな問題がよく出てくる。これらの問題を解決するのはどの価値観が大事であるかではなく、どの価値観がどの価値観に勝てるのか?という優先順位である。思想は、価値観と価値観の関係として示されて初めて役に立つものになる。

エラい人に「価値観の優先順位を決めてくれ!」と申し出ても、「一般的には決められない。具体的な問題じゃないと答えられない」と言われるかもしれない。それに例外もあるかもしれない。これもまたもっともである。だが、例外は例外としてその場の合理性を優先すればよいだけであり、原則は決まっていたほうがよい。じゃないと思想として使えない。具体性が必要ならば、一般的に言いつつ具体例を一緒に提示するだけである。

もっと卑近な例だと「私と仕事どっちが大事なの!」が有名だ。場面によっては問いではなく「私を優先しろ!」というメッセージだが、ここでは文字通り解釈する。仕事と家族のどっちを優先するのか、という生活上の価値観が問われている。今風に言うとワークライフバランスであり、まさに価値観の優先度が問題になる。

生活でも価値観の関係は決まっていたほうがよい。思想があると、あらゆる判断が素早く行え、トラブルが起きても冷静に対象できるだろう。

ベルクソンの哲学』を読んだ

現代思想研究者檜垣先生の最初期の本。ちょっとわかりにくかった……。
現象学と違って超越論的自我を想定せずに現象そのものを観察する立場なのはわかった。現在は存在しなくて過去しかないのもよくわかる。ほんと早すぎた天才だと思う。
序章がいちばんおもしろい。原著のベルクソンと前期ドゥルーズが読みたくなった。

頭の整理の哲学

ここ二週間ほど「記号」と「意味」の関係について考えていた。この二つの関係についてちゃんと哲学をしたのはウィトゲンシュタインである。『論理哲学論考』とはそういう本。ただし、ウィトゲンシュタインの目的は「善き生は論理的に語りうるのか」だったと思う。形而上学を退け「生の問題」の性質を明らかにするために、ウィトゲンシュタインは論理と言語を分析した。

論理哲学論考』の結論は「論理で捉えられる世界(空間)」の外に「生そのもの」がある、という事実の指摘。「7. 語りえぬものについては、沈黙せねばならない」で言われる「語りえぬもの」とは「論理空間」の外の空間のことである。「生」とは個々人の脳および身体だと思ってよい。倫理の問題や「善い人生とは何か」は外側の問題である。つまり、人生には論理的に詰めて解を出せる問題と、論理的には解が出ない問題があるよね、ということ。

沈黙するめんだこちゃん

私にとって大事なのは「論理空間は広げられる」ことである。明らかに「小学生が論理的に把握できる空間」よりも「大学院生が論理的に把握できる空間」のほうが広い。この差を産んでいるのは知識である。(事実に関する)知識が増えるほど論理空間は広くなり、論理的に解決できる問題が増える。何歳になっても知識を増やすと人生が楽になる、と言える。

言語化の価値もこの枠組みで説明できる。ただ生活をしているだけだと「記号 - 意味」ペアのうち「意味(体験)」だけが増えてそのうち忘れられていく。論理空間は広がらない。だが、頭を整理して言語化をすると「意味(体験)」を「記号(言語)」に紐づけることができる。記号になりさえすれば論理的操作が可能になり、問題が解決できるようになる。

私にとって読書と日記にはこのような背景があったのだろう。読書は知識を増やして論理空間を広げる。日記は体験へ記号を割り当てて「語りえぬもの」を減らしてくれる。なるほど読み書きを続けていくと悩みが減るわけである。

週報 2023/03/26 『ウクライナ戦争』を読んだ、AIが使えるかは問いのセンスにかかっている、ヘタウマが許されるインターネット

日記

3/18(土)文久ゴシックがよさそう

朝食にゆで卵を作ろうと思って卵の尻に針を刺したら割れた。黄身の半分が失われる。呆然と立ち尽くしたが、我に返り残った卵液を救出。焼いて食べた。それでもうまかった。

午後はジムで走る。妻氏はヨガをしていた。身体の水を抜くべく15分走り15分歩いたのだが、ポカリスエットを500ml飲んでしまった。ダメかもしれない。

 

テキストエディタとブラウザのフォントを変えた。これまでデフォルトのヒラギノなどを使っていたのだが、どうも読みにくい。いろいろ試したところ凸版印刷文久ゴシックが良さそうだ、となった。Appleがいつの間にかmacOSにバンドルしていたフォントで、日本語が読みやすい。

こんなフォント

ブラウザの文字もすべて文久ゴシックにした。はてなブログもそうだが、noteなどウェブサービスのフォントは決まっていてブラウザ設定は優先されない。そこでCSSを上書きするブラウザ拡張を使って全要素に"font-family: Helvetica, Toppan Bunkyu Gothic;" を当てるようにした。Helveticaが入っているのは欧文用。これであらゆるテキストが好みのフォントで読めるようになった。ブラウザに不可能はない。

3/19(日)祠、部室の条件

道端の祠で手を合わせる人をよく見る。京都の街中にはそこら中に祠がある。祠は手入れされているものもあるしそうでないものもある。近所の祠は大事にされているようでいつもきれいだ。この日は、走りながら手を合わせる四人家族を見た。ダッシュで家に帰っているのに一瞬止まって手を合わせる人々がおもしろかった。

 

大人になって「部室」を再現しようとする人は多いがたいてい失敗する。シェアハウスは生活力の高い人、繊細な人が割を食うし、かといって誰も住まない家を共同で借りるのも無駄が多い。

大学生の部室は何が違うのか。大学生は単に暇なのではない。学生の本義は講義を受けて単位を取ることだが、たまに空きコマができる。次の講義までの暇つぶしに部室で喋る。時間になったら強制的に話を終わらせられる。あるいは、盛りあがったときにサボる手もある。それもまたおもしろい。

将来への漠然とした不安があるのもよい。大学生は中間的な、将来へのつなぎの身分である。たまに八回生やドクターの人もいるが、基本的には四、五年でそこを出ていく。単位を取りさえすれば自由、という独自の全能感がありつつもスパイスとして不安もある。

部室は大学生という独自の身分、時間のあり方が必要だったのだと思う。

3/20(月)行けたらいく

有給。あまりに天気がよく、ゴミ捨てをしたその足で散歩をしてしまう。いい季節である。そのままコンビニで朝食を買おうかとも思ったがマスクをしてなかったので入らなかった。まだ慣れてない。感染状況的には大丈夫だとは思うが、マスクのない顔を観られることへの気恥ずかしさがある。

 

スタジオでピアノを弾いた。ベンチで部屋が空くのを待っていたらおばさんグループがやってきた。

「四月に大阪でライブがあるからぜひ来てちょうだい」「えっあのはい、その日は予定が、ああはい、行けたらいくわ」行きたくなさそう。おばさんグループは一枚岩ではない。

その後、そのおばさんが「(部屋に)マイクないの?」と聞いていたので、ピアノのライブではなく歌のライブだったらしい。

3/21(火)そうめんが救い

蒸し暑くて一日ダメになる。やっぱり雨は苦手。

湿気で胃腸が弱っていたのでにゅうめんを作った。粥でもいいが私はそうめん派。死ぬときも最期にそうめんを食べたい。にゅうめんには野菜、肉を細かく切って入れた。麺の細さと調和する。味付けは五香粉、塩、酒、鶏ガラ。うまかった。

この日は一日中日記を読んでいた。

3/22(水)未病のつらさ

労働。2時に寝たのに身体が勝手に7時に起きた。困る。出社し会議三つとDynamoDBのチューニング実験をしていた。

 

いまlong COVIDの治療は数ヶ月待ちらしい。治療中の同僚が言っていた。病院の待合にいると「(後遺症がキツくて)緊急だから何卒」みたいな声も聞こえてくるそうな。

long COVIDは後遺症なのだが、不定愁訴に近い性質もあり通常の医療よりも漢方が効きやすいらしい。そういえば鍼の主治医は「感染した人は腎と肺がダメになっている」と言っていた。体力と酸素供給能力のこと。

3/23(木)食べものばかり買っている

味噌が届いた。十個も。玉那覇味噌としてもイレギュラーなのか大きい箱と小さい箱が無理やり合体させられていた。十個も買う人はいないのだろう。我が家の味噌消費量は尋常ではない。

昼ににゅうめんを食べたが味が微妙。コンビニの揖保乃糸を使ったのが悪かった。ここ数ヶ月間は箱買いした揖保乃糸のいいやつを使っていた。和食みたいな澄んだ味で「おいしいな〜」としか思っていなかったが、安物と比べてみると差は歴然だった。もう戻れない。2.5kg注文した。

3/24(金)ゆっくりしている

駅から会社へ歩いていたら同じ部署の同僚二人組を見つけた。目が合い会釈をして追いつこうとしたがトロくて離されるばかり。オフィスのエレベーターで追いついてお喋りをした。

夜はワインを飲みながらアシスタント作業。妻氏の漫画が仕上がった。次の話思いつかないどうしよう会議をして頭を絞ったところなんとかネタが出てきた。毎回綱渡りをしている気分。

manga-no.com

雑記

ウクライナ戦争』を読んだ

小泉悠先生の『ウクライナ戦争』を読み終わった。ウクライナ戦争に至るまでの出来事と経過を半年分描いた本。読みやすさは最高だった。イズムィコ先生は文章が上手。論理性も高く事実と推測の区別がしっかりしている。

でもエッセイを書いて欲しい。『ロシア点描』はよかった。軍事オタクが本業なのだろうけど、ユーモアのある方なのでエッセイも向いていると思う。不思議なことにユーモアには高い論理性が必要である。

AIが使えるかは問いのセンスにかかっている

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爲房さんの記事がよかった。GPTに賞状の内容を書かせるものだ。プロンプトを投げるだけでなく印刷して賞状にしたのもよい。ここまでやってこそDPZの記事になるのだと思う。

この「〜〜について賞状を書いてください」というプロンプトは優れている。記事でも描かれているように、どんな情報をいれてもおもしろい結果が返ってくる。

プロンプトが大事なのはStableDiffusionでもそうだった。台湾コミュニティから出てきて界隈を席巻した『元素法典』もプロンプトの用例集である。AI絵師や大企業たちがプロンプトを秘密にしているように、優れたプロンプトは商売上の武器になる。

おもしろい情報を引きだすプロンプトを哲学的には「問い」と呼ぶ。哲学がおもしろくなるかどうかは「問い」のセンスにかかっている。日常的にもよくあることで「GPTって知ってる?」というクローズドクエスチョンは「問い」が開く空間が狭く、話が弾まない。それよりも、「ここまでどうやって来たの?」みたいなオープンクエスチョンが優れているとされる。「問い」の質は、引きだす情報の広さ、深さを決定するのである。

 

爲房さんの真似をして誰が使ってもおもしろくなる問いを考えてみた。占いである。
例えば「占い師になったつもりで今日のめんだこ占いをしてください」と問う。単純に占いを求めると、占いは提供してないと言い張るのでロールプレイをさせる必要があった。

変化と成長を象徴する三めんだこ

選んでもないめんだこの数を解釈してくれる。

さらに電子レンジ占いをさせる。

加熱しすぎ注意

誰が上手いことを言えと。

むむむこのポップコーンは……

ヘタウマが許されるインターネット

このごろ四半期まとめの準備をしている。自分の日記を総括して三ヶ月の間にどういう流れがあったかをまとめる事業だ。

私の日記には一次日記と二次日記がある。一次日記がツイートみたいに随時書くもので、思ったことを忘れたくないからひたすら書いている。二次日記は深夜にその日のトピックをまとめるもので、一次日記をもとに読みやすさを意識して書く。週報は一次日記および二次日記を再編集し書きなおしたものになっている。

二次日記にたまによい文章がある。会話そのものがおもしろかったり、考えごととして価値があったり、自分の情けない行動が描かれていたりする。この手のテキストは渦中にいるとおもしろさがわかりにくいもので、あとから冷静になってふりかえると見つけられるものだ。だから「溜め」の少なくなったSNSではあまり出てこないタイプのテキストである。

今のインターネットに足りてないから供給しようかな、とも思うが、基本的には週報に載せている。週報の紙幅をはみ出しそうだったらSNSに流すつもりだ。

 

でも、狙って書くのは違う。いいテキストが出てくるかは漁みたいなもので、日によって採れたり採れなかったりする。たぶん体調とか気候も影響している。

無理をして出力すると歪なものが出てくる。歪なテキスト、イラストには作為が感じられる。「よく見られたい!」という意思が伝わってくる。品がないのでこういうものは作りたくない。

私はあくまで自分の欲望を満たすために書いているのであって、他人のために書いているのではない。書きまくった結果「ああこれええなあ(CV: 土井善晴)」なものが出てきたら世にお出しする、おすそ分けの姿勢で公開している。

その道で食っていくプロはこれだとダメで、ちゃんと消費者にサービスをしないといけない。サービスとは対価を受けとって相手をいい気持ちにさせることである。自分の欲望を半ば押し殺して、数万人〜数十万人を喜ばせられるよう配慮しなければならない。身を削るような仕事だ。

インターネットのよさはまさにここにあって、プロでは許されない、欲望のための出力を公開できる場である。先日のDPZ記事にも書かれていたように、ヘタウマがインターネットの良さなのだ。

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週報 2023/03/19 回復したいぜ、ChatGPTをダシにして人間を考える

3/11(土)毛刈りの窓

二ヶ月ぶりの美容院。さっぱりした。ほどほどに短いくらいが似合うのはわかっているのだが、怠惰に負けて「そろそろ行く……(行かない)」を繰りかえしてしまう。
家に帰ったら特大昼寝をしたあと週報にとりくんだ。ずっと体調が悪く捗らなかった。

3/12(日)コーヒー中毒、本ポジの多様性

コーヒーは朝だけ、のルールを一週間守った。だいぶ寝つきはよくなった。以前は二時まで眠れなかったのに、今では二十三時に眠くなっている。カフェイン怖い。

コーヒーを飲む量も減り、煎れるのは週一でよくなった。日曜の朝にまとめて抽出し七日かけて飲む。酸化はするのだが時間のない平日はあまり気にしない。でも、やっぱり日曜の淹れたてはうまくて「こんなうまいものやめられるわけがない」と思った。

 

妻氏が畳に座って本を読んでいた。近くにソファや安楽椅子があるのになぜ?

理由を聞いてみると、姿勢をコロコロ変えながら読みたいからだと言う。実家でも皆こうしていたらしい。たしかにそうかもしれない、と思って真似をしたら腰が痛くなった。でも読書姿勢としてはこれがよいかも。座布団を使いましょう。

3/13(月)回復したいぜ

しいたけ.占いで「「回復したいぜ」の水色が出ています」と言われた月曜日、体調は最悪だった。なんとなく食欲がなく食べても胃腸の動きが悪い。頭も動かない。この感じは覚えがある。梅雨の体調不良だ。数年前、梅雨の時期に胃腸が悪く胃カメラまで飲んだ。「胃はきれいですね」と言われた。

漢方(中医学)に詳しくなった今ならわかる。冷え性の人は湿気に弱いのだ。そして湿気は胃腸を侵すらしい*1。春は湿度があがってくるし雨も多い。なのに私は冬のノリで加湿器を炊いて寝ていた。こうして発汗が阻害され、溜まった水が胃腸を侵すに至った。

この日はとりあえず漢方薬ツムラ43番)を飲み、風呂で汗をかいて体調を整えた。本格的な治療は翌日に予約していた鍼に任せることにした。

3/14(火)京都では運動をしないと生きていけない

予想通りだった。鍼でむくみをとる処置を受ける。しかし、一日や二日で溜めた水ではないので一回の治療では取りきれない。しばらく自分でお灸をすることにした。あとは運動である。

なんで水が溜まるのかは西欧医学の知識でも説明ができる。腎臓の水処理能力は血圧で決まり、リンパ系の水輸送はゆっくりである。それらのキャパシティを超えて水を飲み、かつ汗をかかないでいると水はただ血管外に溜まっていくのだ*2。末端冷え性の人は汗をかきにくい特徴があるので、運動をしない限り水が出ていくことはない。リンパの輸送能力も筋肉で決まるので、やはり運動がよい。

というわけで、運動をしない限りは喉が渇くまで飲まなくてよい体質だとわかった。でも京都はジメジメしていて地獄のような土地なので、汗をかくために運動をしていく。でないと夏に死んじゃう。

もっと水を抜くのだわ!

3/15(水)AIに日記を食わせる

ChatGPTさまに日記を食わせてみた。毎晩人力でやっている、一次日記を二次日記に書きなおすタスクをやらせたらどうなるかな?と思って。結果はダメだった。ただフレーズを拾って繋いでいるだけで、言い換えで内容を圧縮するのができていない。要約の能力は低いようである。

3/16(木)良い余計な一言

三ヶ月待った椅子が届いた。わーいわーい。ドイツのお気に入り企業から輸入したオフィスチェアである。届いたとき、アクタスの配達おっちゃんにいじられた。「フルカスタムでええやん」的な。このおっちゃんはアクタスで家具を買うといつも配達してくれる人で、人間味がありちょっと変(いい意味)である。前にダイニングチェアを買ったときも「こんな椅子座ったら他の座れなくなりますよ!」と言われた。

3/17(金)味噌情報

味噌を十個買った旨をツイートしたらいくつかお便りが寄せられた。

「出汁入ってない味噌使ってるの?」出汁は不要です。一汁一菜は勝手に味がつく。

「どの味噌を使ってるの?」消費スピードが早すぎて補給が追いつかず、スーパーにあるものをてきとうに買ってることもありますが、ひかり味噌のマル無玉那覇味噌の王朝みそが好みです。前者は成城石井で手に入りますが、後者はネット発注になります。

 

読みやすさのために重いテキストは沈殿させることにした。

書きだしの難しさ

文章は書きだしと結びが難しい。書きだしはその段落の全体像を一言で示せるとよい。たいへん難しく、プロの物書きでも苦労するところだと思う。段落の中身はわりと簡単で、飛躍しすぎずだらけすぎずを意識していれば自動で書ける。たまに内容が混乱するが、そのときはアウトラインに戻ればよい。

そして結び。結びは段落の内容を受けてオチをつける。こちらも書きだしと同様に一言で主題を示せるのがいい。例えば「(この人は)酒で膵臓を溶かした人物である」という結びを書いたことがある。日記にある人のことを書いたときのこと。こういう結びをぽんぽん思いつけばよいとは思うが、これもまた難しい。

手を抜こうと思えばいくらでも抜ける。業務や連絡などの事務的な文章でこのレベルはいらない。書きだしは大事だが全体像を示せていればそれでいい。結びはまあどうでもいい。だが趣味は違う。趣味で文章を書いているのだから手を抜いたら意味がない。同じ悩みは妻氏の漫画にもあるようだ。コマ割りをどこまで妥協するか。ここで救いになるのが千葉雅也氏の「有限性」で、締切りがきたら諦めろ、ということだ。毎回妥協はせずギリギリまで粘るが、そううまくはいかないものである。

ChatGPTをダシにして人間を考える

GPTはなんなのか

全文検索エンジンみたいなものである

なんで日記を要約できないのかな?と思って調査と実験をしたところ、GPTは単語と単語の共起関係を覚え、連想されるがままに語を吐きだしているのがわかった。「人」がきたらn%の確率で「歩く」が来る、みたいな関係を大量に覚えている。知識も共起関係のなかに埋めこまれている。知識の源泉、学習に使った元データはインターネットのテキスト。だからインターネットによく登場する言い回し、ミームに対応できるのだ。

つまりGPTは(全文)検索エンジンみたいなものなのだ。なるほどGoogleが危機感を覚えMicrosoftがBingにGPTを実装するわけだ。本質的には検索エンジンの一種なのだが、人はChatGPTを使うと知的な存在だと錯覚する。それはChatGPTが対話UIになっていること、文字が少しずつ出てくる演出で説明ができるだろう。文章に一貫性があるように見えるのは? 語の共起関係を大量の組み合わせで覚えたら違和感のない組み合わせを出せるようにはなると思う。なので、知性が実現されたわけではなさそうである。ちょっとがっかりした。かの有名な中国語の部屋にすぎない。

便利だが信頼性の評価が難しい

でも便利なのは間違いない。いかにインターネットの情報が信頼できないとはいえ、専門的な揺らぎの少ない情報や、繰りかえし発信されてきた正しい情報については既存の検索エンジンより素早く答えにたどり着ける。それに対話UIもよい。ChatGPTの対話UIは何らかのレスが返ってくるので自分の悩みを言語化・客観化するのに使える。つまり頭の整理に使える点で日記と同じ効用が期待できる。

問題は返答の信頼性評価が難しいこと。これまで我々は検索リテラシーと呼ばれるスキルで情報源の信頼性を評価してきた。ドメインが公的機関や有名な企業であるか、サイトの作りが怪しくないか、日本語が読みやすいかどうか、等々。ChatGPTは情報源が隠されているのでこの点が問題である。一方でBingのほうはソースが示される。検索エンジンとしてはBingのほうが誠実と言えるだろう。どれを使うにせよ、引き続きリテラシーは要求される。自分の専門分野のデータベースとして使うにはいいのではないか。

 

あれが来てもこれを返さない

中国語の部屋はおもしろいアイデアで、人工知能の知性を測るチューリングテストが「チャットがそれっぽくできたら知性がある」と言ったのに対し「チャット相手がカンペ持ってたらどうするん?」と批判したものである。部屋に閉じこめられた英語話者が中国語でチャットをしていて、部屋のなかに中国語の文例が網羅された辞書がある、という設定。

なんでおもしろいのかというと、人間が同じことをしていないとは言えないからである。我々も何も考えずに「あれが来たらこれを返す」で会話しているかもしれない。思いつくがままにダラダラ喋り続ける人も現実にいるし、意外とChatGPTと人間は近い可能性がある。もちろん中国語の部屋であってよいとは思わない。よく考えて喋る人間でありたい。

 

言葉の重さ

GPTに対して「シニフィアンしかみてないじゃん」という批判が可能なのだが、実はこの批判が読書全般にも向けられうる。

記号を調べても意味には到達しない

シニフィアンとは言語の記号のことで、例えば散歩中の犬実在(シニフィエ)に対して「inu」という音あるいは「犬」文字列が記号である。ソシュールという百年前のおっさんが言いだしたアイデアで、言語学の基礎知識。言語には記号と示される対象がある。

計算機で記号を分析し尽くしたところで人間と同じ「意味」は獲得できない。書かれた記号は「犬」という文字列にすぎず、GPTは親戚文字列として「吠える」や「ワンワン」が共起するという断片的な情報しか持っていない。子供は「これなあに」「犬、ワンワンだよ」と教えられてフサフサの毛に触れたり怖がったりする。人間は記号が示す対象と記号を同時に学んでいるのだ。記号の集合から得られる情報には限りがある。恐竜の足跡の化石を調べつくしても、その恐竜がどんな存在だったかを明晰に知ることはできない*3

生を背景にテクストを読む

ではなぜこの批判が読書にも向けられるのか。読書といっても特に古典を読む場合が問題になる。古典となった本のテクストを非常に細かく読み、ここの文の解釈が云々とする読み方があるから。記号の世界に閉じこもり、文法的な関係を調べつくして記号の意味を明らかにしようとする姿勢である。研究として価値はあるが、それだけで意味に迫ることはできない。

別の姿勢として、著者の人生や時代背景を把握する方法がある。書かれたものだけでなく、当時の常識や生活の様子、著者の家庭、経験をも調べる。つまり著者の人生を歴史的に把握したうえで意味を明らかにしようとする。ここまでやるならばただ記号をなぞるよりも多くの情報が得られるだろう。もちろん、仮説であるという留保はするとして。

言葉が違うから通じない

言葉の意味を把握するのは難しい。意味はその人の人生によって変わってくることがある。同じ時代、同じ境遇に生きていても言葉の意味が微妙に違うことはよくある。その人独自の意味を使いながら「私の言葉は正しい!」という態度で喋る人もいるし、自分独自の意味を捨てて「公共的な意味」に寄せてしまう人もいる。どうしても違ってくるのに同じだと思いこんでいるからコミュニケーションが難しくなる。また、自分の意味を劣位に置くと、いくら語ってもどこか自分の言葉ではない感じがしてくる。

言葉は経験=人生の重みを背負っているからおもしろいところがある。私としては自分の意味で語ってくれる人が増えることを望むのだが、これもまた個々人の自由なのであまり言うまい。それに話が通じなければ一生懸命説明するほかない。意味が通じるまで丁寧に言葉を重ねるだけである。

 

このような背景もあって、身体を持たないAIには魅力がないな、と思う。検索エンジンとしては便利ではあるものの、現時点では問題も多い。逆に身体を与えて学習させたらわけのわからないAIができておもしろいと思う。賢い人は当然これくらい考えているだろうから、数年後には大量のセンサーを装備した知能が作られているに違いない。

*1:理由はよく知らない。リンパ系から出てきた水を排出するのに腎臓のキャパシティが使われ、胃腸が吸収した水の行き場がなくなるから、という説明は思いつく。

*2:勝手に血管に水は流せない。浸透圧が変わってしまうから。塩分をとったときに水で薄める仕組みはある(血圧があがる仕組み)。

*3:SFで異星人や宇宙線の形状を説明されてもうまくイメージできない事例でもよい。

週報 2023/03/12 思考の熟成、一点に集める

3/4(土)コーヒーをやめられない、求)酸素

スナネズミの葬儀をした。といっても玄関で焼香し引き取ってもらうだけ。棺には🍓と🥬をいれて送り出した。

 

朝食後にコーヒーを飲むか悩む。さいきん睡眠が悪いのだ。我慢しようと思ったが耐えがたく、飲むことにした。言い訳はこうだ。カフェインの半減期は八時間、排出するのに十時間〜らしい。なので朝に一杯だけなら夜には抜けている。

こうして禁コーヒーは一日で終わった。

 

珍しくジムで走った。鍼師の言った「酸素の供給能力も体力だ」に納得したから。これまではカロリー消費を目的に走っていたのだが、カロリー消費の方法はほかにいくらでもありジムで走る必然性はない。イマイチやる気がでなかった。しかし心肺機能の強化であれば走るのがベストである。他にも水泳で鍛えられるかもしれないが、私はまったく泳げない。

何年も怠けていたので当然長くは走れない。すぐに胸が苦しくなって歩くのだった。懇意にしている走る美容師によると、週に二回くらい走ると疲れにくくなるそうな。一日中集中して髪を切る人が言うのだから間違いないだろう。

3/5(日)ブラインドタッチの再発見、小見出しサービス

ピアノにもブラインドタッチがあるらしい。手許を見ずに弾く技術のこと。PCはホームポジションがあるからいいが、鍵盤にそんなものはない。なのに曲によっては2オクターブくらい平気でジャンプさせる。指先の感覚だけを頼りに正確に着地させる必要があり、たいへん難しい。

ブラインドタッチは練習中に自分で発見したのだが、実は本があるほど有名な技術だった。私はこの技術を先生から習ってないのだがどういうことなのか*1。これ重要な技術では?いいものを見つけたのでは?と思ったばかりに少し落胆した。

 

新形式の週報にも小見出しを入れることにした。現代の書物(ノンフィクション)には細かく小見出しが入っている。入門書だけでなく、人文学の専門書でもそうだ。昔の本みたいに節が十数ページ続くことはまずない。現代人の忙しさ、集中力のなさに合わせて書物の構成が変化しているのだろう。これは時代的な流れであり自分も含めて皆集中力はなくなってきている。そういうものなので、他人にお出しする以上は細かい見出しで要約するものだ、と思ってサービスすることにした。

3/6(月)思考の熟成

寝かせていない思いつきは、つまらないのに気づいた。DPZ林さんのやぎポエムは98年から数年、一日に何度も更新する形式になっていたが、この時期はあまりおもしろくない。また、よい本を書く学者もTwitterだとつまらない。そして自分の日記も。一次日記と呼んでいるすぐ書く日記は、あとから読んでもいまいちおもしろさがわからないことがある。

なぜこうなるのか?思いつきには混乱があるからだ。主観とは本当に信用ならないやつで、思いついたその場ではおもしろい!と思えても、あとから評価すると無駄や矛盾、錯誤が含まれている。

 

混乱を解消する方法は二つ。「書いて寝かせる」か「人に話す」である。

書いて寝かせて、しばらく経ってから読み、再び書きなおすと自然に無駄な情報や単純な誤りがなくなる。もちろん、素朴な思いつきであれば書き留める必要はなくて、記憶を頼りにやればよい*2。書き留めないといけないのは、それなりに複雑な出来事・着想である。日常的な軽い思いつきであれば、数時間〜半日おくだけでも十分だろう。

人に話すと素早く整理できる。ただ、混乱した話は聴く方もたいへんである。それにどんな親しい仲であっても誤りを指摘するのに気を遣う*3。なので、人にレビューをさせるのは、ある程度「書いて寝かせて」整理したあとが望ましい。

どうしても一人だと気づけないことはある。他人の目は使ったほうがいい。しかし、読む人に負担はかけたくない。勢いで生きるのを慎み「溜め」を大事にしたい。

熟成されるめんだこちゃん

3/7(火)メタ認知、自信と客観性

「(低気圧で)ストレスがあるなあ」と日記に書いたらイライラがなくなった。不思議だがこういうことはよくある。体調不良や何かに怒っているときに記述がよく効く。でも気づくのが難しい。渦中にいるとなかなか。

人間観察のなかでも自分の観察ほど難しいものはない。いつもと違う様子の人がいたら「疲れてますね」と観察報告をしてもらえるとありがたかったりする。

 

自信を得る方法を考えたところ、客観性が結論だった。客観性とは現に起こったこと、そこにあるもの、現実をそのまま受けとる技術である。現実と自分の思いこみを峻別する態度。

客観性というと「理系」で冷酷〜なイメージがつきものだがちょっと違う。「あのとき怒っていた」「あのとき悲しかった」という感情の動きも「起きたこと」つまり事実として尊重する。

客観性を鍛える方法はいろいろあるとは思うが、私は日記と読書、妻氏はデッサンで身につけた。デッサンが意外かもしれない。デッサンはそこにある物を見えてるままに描く技術である。デッサン教室に通って数年経ったらメンタルが安定しているのに気づいたそうな。

3/8(水)深呼吸が効かない体調もある

一日ダメだった。なぜか呼吸が浅くて深呼吸でも挽回できなかった。たぶん睡眠不足。こういう日は休んで巨大ひるねをするしかないのだと思う。夜まで働いてしまったけども……。

 

四条通に観光客が増えていて歩きにくくてかなわない。自転車通勤に戻すことを決意した。

3/9(木)反社会的インターネット

布団を薄めにしたらよく寝られた。春に適応する。元気になりウオーっと仕事をしたら夕方に使い果たした。

 

昔のインターネットには反社会性があった。言い方が悪いので、いたずら心とか「ちょっと悪いことをしてやろう」でもよい。役に立たないことを全力でやるのも反経済的であり、反社会的だ。

震災でインターネットが変わって数年後に「インターネットが社会になってしまった」と思ったことがある。今でも「ちょっと悪いことをしてやろう」活動をしている人はいるが、世間様にバレるとたいてい怒られている。でもそういう人を応援したいし、私は悪いこともいっぱい考える*4。このブログも世間様にバレないようにやっていきたい。

3/10(金)一点に集める

月一で習っている社交ダンスで「お腹の接点に意識を集めて」と指導されたらそれだけで上手くなった。

社交ダンスは時代錯誤ながら男性がリードで女性がフォローである。女性はパートナーが踏もうとするステップを腕とお腹の五つの接点から読みとり、正しいステップで応えることでフォローする。

「お腹の接点」とは五つの接点のうちもっとも大事な場所で、二人はここを回転軸にして動く。プロは「お腹の接点」を安定させるために、コピー用紙を挟んで練習するそうな。挟んだ紙を落としたらダメ。

 

つまり「お腹の接点への意識」とは軸を意識することである。軸だけを観ながら踊っていると、自分が送ったステップの指示がパートナーの動きとなって返ってくるのがよくわかる。この感覚はピアノにも似ている。コマンドをパートナー/楽器に送り、反応がステップ/音の響きとして返ってくる。返ってきたものを受けとめ、それに合わせながら次のコマンドを考える。送る、受けるを繰りかえすと全体としてワルツのダンス/ピアノの曲が構成される。非常におもしろい体験で、ダンスの深淵に触れられた気がした。我々のダンスの先生は、二十年ダンスをやってもまだ発見がある、と言っておもしろがっている。

集中の大事さも身に染みた。意識を一点に集めるとそれだけで上手くいくことがある。ピアノもそうだし、読書もそう。そういえば土井善晴氏も「一生懸命茹でてくだ↑さい」と言っていた。

*1:中級上レベルではまだ早かったのだろうか

*2:私は記憶力が終わっているのですべて書いている

*3:遣わない人もいるが私は仲良くならない

*4:はげます会会員です

週報 2023/03/05 皮膚が薄くなっている、伝わらないものと思う、深呼吸で無をやる

ストレス・疲れに悩まされたが鍼で持ち直し休む技術を模索した週だった。

2/25(土)服が薄くなっている

大丸へ行きPOLOの肌着を求めるも在庫なしとのこと。「じゃあ別の厚手のシャツを……」と言ってみたら「POLOほど生地がしっかりしたものはない。これが最高だから入荷を待つべし」と言われる。百貨店のおばちゃん店員が言うのだから間違いない。待つことにした。KFC🍗を買って帰り「このごろの服はどれも薄い。競争によってけち臭くなっているのだろう」と妻氏と話した。

夜、週報を書く。原稿用紙に万年筆で書いた。原理はよくわからないが、情報を圧縮して書くには紙がいちばんなのだ。二時間ほどで完成させた。よく頭を使って楽しい作業だった。妻氏によると漫画のネームも紙で書くとよく圧縮できるらしい。どんな読みものでも短くて稠密なのがよい。その作り方は漫画でもテキストでも変わらないようだ。

 

モルモットが足裏を怪我していた。ひとまずクッション牧草を敷いて様子見。

2/26(日)体力って何?

スタジオでピアノを弾いたら全然ダメだった。グランドピアノは電子ピアノの数倍の集中力がいるから、と思ったが今考えると単に疲れていただけである。この日は朝から怒りっぽくて不調だった。体力不足を疑いトレーニングも考えてみる。ピアノで集中力を増やしたので、次は体力が欲しくなった。でも体力とは何なのかよくわからない。体力がないと本は読めないのに、明らかにそれは筋力ではない。体力って何?

 

SNSとゲームを減らしたらソファでぼーっとして休む時間ができた。「無」をしながらモルモットを眺めるのが楽しい。たまに食糞がみられてウワーーッとなる。彼らモルモットの便は二種類あり、再消化のためには食糞が必要なのだ。食糞が必要ない草食の最終形が🐮さん。でも人間としては食糞を見るたびに驚く。

深夜によくないものを食べた。炊きたて白米にごま油と塩をかけたもの。炒飯みたいな味がした。

2/27(月)🐭の通院

ペットのスナネズミ氏を病院へ連れていくと糖尿病・腎不全であろう、と診断された。このごろ🐭は調子が悪くもうすぐ死ぬことがわかっていた。食欲はないようで水ばかり飲んでいる。食べられるものを与えてできる範囲で命を繋いでいたのだが、日曜日になって一応診てもらおう、という判断をした。懸念していたのは歯の伸びすぎ。齧歯類は歯が伸びすぎて上顎に刺さることがある。それで食べられないのならば歯を切れば回復する。歯はまともに見えたのだが悔いが残ると嫌なのでちゃんと診てもらうことにした。結果、歯には問題がなかった。じゃあなんで?と思って簡易な検査をすると尿からたくさんの糖が出たそうな。なるほど水をやたらと飲むわけである。

この手の病気は餌や世話の問題というよりも個体差および種の宿命らしい*1。ついにできることはないことがわかり、自然に任せつつお世話をし続けることにした。

2/28(火)皮膚が薄くなっている

妙に怒りっぽいなあ、と思っていたところ鍼に行くとストレスと疲れを指摘され治療された。怒りっぽいことは日記にも書かれていたがストレスの自覚はなかった。原因は三週間前の理不尽で嫌な出来事のようだ。理性では「もう消化できた!納得した!」と思っていても身体に遅れて出てくることはある。

ストレスがひどいときは人の反応が気になったり、些細な発言で怒ったりする。なんというか「皮膚が薄くなる感じ」がする。外界の刺激を緩衝する皮膚が綻び薄くなるイメージ。実は漢方・中国医学に似たイメージの概念があり「衛気」と呼ばれる。衛の文字どおり身体を守るはたらきがある。「衛気」は味の濃い食べもの、気性の激しい人との会話で消耗し、睡眠・食事・深呼吸で回復する。現代でも、体力がない状態で強い刺激を受けすぎると鬱になる。昔の人もストレスについて同じような認識をしていたのだろう。

触るもの皆傷つけるトゲめんだこくん

妻氏の母上によると「おもしろい人はちゃんと考えて言葉を返す人」だと言う。たしかに身内ネタばかりで「xxと言われたらyyと返す」ばかりの人は多い。

3/1(水)人に喋らせる

鍼で絶好調になりバリバリ仕事をしてしまう。この日は同僚とのお喋りも多かった。ただ、お喋りといっても私はあまりボールを持たず人に喋らせる*2。そのほうが楽だから。皆さん何かと喋りたいことはあるようで、話を振るとおもしろいことを言ってくれる。その人が過去に言ったことを覚えておき「あれどうなりました?」と言うのが簡単である。妻氏は私よりもレベルが高く、自分からも少し語ったと思ったらしれっと相手にボールを渡すらしい。合気道のようである。しかし、相手も喋らせる技の使い手だと間合いの読み合いになる。これもこれでおもしろい。たいていはいい塩梅にボールを投げ合う会話になるけれども。

でも、喋ると疲れるのでほどほどにしたい。我々は基本的には家でじっとしている種族なのだ。

3/2(木)伝わらないものと思う

二月のどこかで人間観が変わっていたのに気づく。それまでは他者を根拠なく信じ、話せば伝わるだろうと思っていた節がある。伝えるよう努力をしなくても伝わるだろう、という甘えがあった、とも言える。認識が変わり、他者には基本的に伝わらないものだ、という立場になった。悲しいような話だが、冷静に考えると事実である。実際に哲学などで昔から問題になっているし。

じゃあ語るのをやめるか?というとそういうわけにもいかない。どう考えていようと仕事や生活は続いていく。基本的に伝わらないものと思って一生懸命説明すればよいだけなので、そう難しい話でもない。丁寧にやるだけだ。それに数少ないながら伝わりやすい友人および妻氏もいる。このものたちは他者との隔絶をよく理解しているので同志である。しかし隔絶を前提としているので距離感が適切で心地よいのである。

3/3(金)深呼吸で無をやる、🐭の死

集中力がつき、他者への甘えもなくなったことで本気で仕事ができるようになった。よいことだが半面、体力を消耗してしまう。この日も夜まで仕事をしてヘロヘロになった。ピアノを弾いてもミスが多く音もちゃんと聞けていない。演奏にはよく体調が顕れる。体調管理ができないと音楽趣味は楽しくない。

お灸をしてもらい湯船に浸かってもダメだった。これはヤバい!と思ったとき、鍼師との会話を思い出す。体力とは何かを質問したところ「体力には心肺機能、つまり酸素の吸収効率という要素もある」と言われた。

正解は深呼吸。それもただ深呼吸するのではなく、上を向き、吸って止めて吐くのがよい。上を向くのは深呼吸が自動で始まるから。意識で深呼吸をすると忘れてやめてしまうのだが、なぜか上を向いていると勝手に深呼吸になる。吸って止めるのは酸素の交換を長くやるため。

この呼吸をやっていると自然に自律神経もリラックスモードになる。食後や朝、椅子に座って少し上を向くだけで勝手に身体が回復していくので便利だ。なるほど『上を向いて歩こう』は真理だった。でも上を向いていると歩けないので、少し上を向くくらいがよろしい。

 

ついにスナネズミ氏が仏になる。先代スナネズミと違って穏やかな最期であった。痩せてはいるが身体は綺麗で見目悪くなし。日本人としてはこれが大事だ。

月曜日の日記に書いたように、我々はできうることをやった自負があり、飼い主のエゴとしても悪くない終わり方だったと思う。

檜垣立哉ドゥルーズ』を読んだ

ドゥルーズの入門書。哲学。ドゥルーズの前期・後期が第一部・第二部と対応している。第一部がおもしろかった。ドゥルーズ現代思想のイメージがあったが、実は古典ギリシア - カント - 現象学 - ベルクソン - ドゥルーズという歴史的な流れがあることがわかった。

現代哲学は「生」の哲学のベルクソン系列と大陸哲学の批判と解体、脱構築をするデリダ系に分かれる。私はベルクソン - ドゥルーズ系列が肌に合うなと思った。現象学ではないやり方で、「生」の哲学を遂行し、世界をありのままに捉えようとする態度は魅力的である。

*1:スナネズミは糖尿病研究のモデル動物でもある

*2:体調が悪いとできない

週報 2023/02/26 ピアノでSNSをやめる、顔色に甘えない、占いは意味を与える

2/18(土)時系列は無視できない

スナネズミ氏はまだ生きている。まともに餌を食べなくなったのでキャベツや豆腐を食べさせる。

 

ヘッドホンなしで電子ピアノを弾いた。土曜日の昼だからいいかなと思って。頭にヘッドホンが乗ってないだけで、いつもより上手に弾けた気がする。でもスピーカーの音は悪い。物足りない。この体験でグランドピアノが弾きたくなり、近所のスタジオを借りることにした。

 

週報(02/19号)に苦労した。先週までと構成が違うので、考え方から変える必要がある。日記を抽象化して話題ごとにまとめると情報が落ちるのが悩ましい。一行しか書かなくていい話題もあるし。

この日は雨で調子も悪く、悩みながらウゴウゴしていた。夜になって初心に戻ることを思いつく。週報なのだから曜日ごとにまとめるのだ。時系列はどうしても無視できない。時間が経つにつれて考えが変わる様子もそのまま残したい。何であれ、起きたことは事実なのだ。

この作戦でうまくまとまり深夜には原稿ができていた。

2/19(日)圧縮欲望、グランドピアノの響き

起きて週報をいじる。ちくちく修正しながら読んでいたら、自分の欲望に「圧縮」もあるのに気づく。例えば整理整頓。棚にはギチギチに物を詰めるし、プログラミングも行を減らすのに心を燃やす。当然、言葉も圧縮して抽象度高めでお出しする癖がある。それだと理解されなくて困るので、がんばって圧縮率低めで出していきたい。

 

予約したピアノスタジオで練習した。グランドピアノを一時間千円くらいで借りられるすばらしいサービス。この手の施設を使うのは初めてで緊張したのだが、いざ使ってみるとそう敷居の高いものでもなかった。ネットで予約して現地で決済し部屋を占拠するだけ。

ピアノの音はよかった。やっぱり本物は違う。ハンマーが弦を叩き、物理的に音が響くのだ。鍵盤のタッチも別物。練習になって気持ちがよいのでしばしば通うことにした。

雰囲気もよい。薄暗くてちょっと散らかっていて、掲示板にはビラがたくさん貼られている。都市部なのにここだけ大学の部室棟みたいだった。

2/20(月)ピアノでSNSをやめる

このごろ集中力があるのに気づいた。特に仕事で顕著。なんでだろう?ピアノ説を思いついた。ピアノは再開してから一ヶ月。ほぼ毎日一時間くらい弾いている。

手を動かすと認知症予防が云々という研究もあるし、実際ピアノはめちゃくちゃ手を使う。指十本を高速に動かして、三声や四声の曲を弾くのだ。頭を使わないわけがない。集中力は当然いる。どうやって動かしているのかまったく説明できないのだけど、集中してないと全然弾けない。

SNSをほぼやめられたのは集中力が戻ったからかもしれない。先週は、自分の欲望を分析して依存性に気づいたから、と思っていたが違うかもしれない。

 

この日のピアノ練習で椅子の高さが大事なのに気づいた。そういえば高校生の頃、ピアノの先生はたびたび「椅子の高さを自分で調整しなさい」と指導していた。

 

もう死ぬと思われたスナネズミ氏は🍓の欠片なら完食するらしい。糖分で快復したスナネズミ氏はちょっと活発だった。でも、やっぱり死ぬと思う。何匹も看取っていると挙動でわかる。わかってはいるのだが一喜一憂しながら世話をする。

2/21(火)使い尽くしてしまう

しいたけ.占いが我が家でブーム。天秤座の妻氏は「うどんを食べて休め」「紅茶を飲んで休め」と言われることが多い。これらの助言の裏には「体力を全部使ってしまう性質」がありそうだね、となった。実際に妻氏はそういうところがある。

山羊座の私は上半期に大変革があるらしい。ほんまか〜?とも思うのだが、2月は性格と生活を改造しまくっているし業務でも変革の予定はあるのでほんまやな、となる。でも、しいたけ.の主張によるとこれまでの十年を捨てるくらいの変革らしい。嫌なことがあったらやだなあ。

 

この日は体調が悪かった。朝からウオオオと仕事をして夜には体力を使い果たす。夕食後にピアノの練習をすると、いつもと違ってテンポが速く、タッチも粗いのに気づいた。疲れてイライラしていたようだ。

2/22(水)顔色に甘えない、占いは意味を与える

「日本人は顔色を読んでばかり」と言ったのは三島由紀夫である。たしかにその通りで、みんな顔色を読みあっているし、私も読まれることを期待している。よく政治で言われる「観測気球」なんかもまさに顔色のことだ。文化的にそうなっているので、やめようにもやめられないと思う。便利なところもなくはないし。

でも、近代的な個人観とか個人の自由さを重んじる立場としては、顔色を読んでもらうのは甘えだよなあ、とも思う。できれば甘えないようにしたい。できる限りはっきりと主張したい。

 

バリバリ仕事をしてヘロヘロになって帰ってきた。ねずみは存命。朝起きたら、夜帰ってきたら死んでるものと思っている。夕食の一汁一菜に入れた鶏肉が甘かった。火を通したはずだが???と思いながらふつうに飲みこんでしまう。

夜はブルアカの最新ストーリーを読んだ。庵野の真似をする割に少し不思議設定や船の説明が文字多めなのが不満だった。そういうシーンを描きたいだけなのだから、ビジュアルで騙してしまえばいいのだ。絵を出せば勢いで説得できる。

 

占いからは日常の出来事を「意味づけ」するキーワードが得られるのだと思う。インターネット的には「もやもやに言語で意味を与える」と言える。みんな「意味」は欲しいはずだ。ストーリーと言ってもよい。そういえば『人はなぜ物語を求めるのか』という本もあった。人は日々の生活の出来事に「もやもや」した状態になる。そこで抽象的なキーワード、解釈を与えて「もやもや」を「意味」に変換し納得する。たぶん納得できたらなんでもよくて、そのために占いが便利なのだと思う*1。納得できるなら星座を偽ってもいい。

ただ、アイロニカルな視点としては「人生に意味はない」とも言える。まあ実際ないのだが、主観としては「ストーリー」を持っていてもいいのではないだろうか。この問題において客観に価値とかないし。

明日は餃子が降りますねえ

2/23(木)鶏肉の呪い

夢のなかで上司が「祝日でも在宅勤務申請がいるんですよ〜」と言ってきた。混乱しながら起きた。

午前は楽譜の印刷と貼り合わせ。トラディショナルな糊を使って楽譜を蛇腹にした。ブルアカ4th PVの曲が気に入ったのでピアノYoutuberの作った楽譜を入手し練習することにした。

昼はスーパーへ買い出し。休日は自炊のやる気が乏しいので巻き寿司を買うことが多い。「お、サーモン巻きがあるじゃん」と手に取ったらいくら巻きだった。ラベル間違えてる。

午後、哲学書を一冊読み切るぞ!と意気込んで読み始めたらお腹が壊れた。昨日の甘い鶏肉は腐っていたのだ。トイレに立てこもり、昼寝をしたら治った。再発防止策として冷凍をすることに。これまでちょっとくらい期限をすぎてもおいしく食べていたのだが、ついに当たりを引いてしまったわけだ。

檜垣立哉の『ドゥルーズ』を読んでいたら抽象化という思考方法が偏微分と似た構造を持つのに気づく。本の内容とはまったく関係ないが、読んでいて着想があった。読書は不思議な体験だ。

2/24(金)AIで生きがいが問題になる

昼寝(大)を二回もする。金曜日はどうしても疲れている。この日はいろいろあって水を飲まずに寝ていたら夜にめちゃくちゃ怠くなった。雨が降っていたのもよくない。冷え性は雨に弱いのだ。この時期の京都は雨が多く曇りがちでやんなるね。

 

AI技術の進歩をみていると、職が奪われる!ではなく人類の奴隷になってくれ!と考える。誰もやりたくないキツい労働をAIにやってほしい。そして食糧・資源コストが安くなってほしい。AIはソフトウェアなので身体を与える必要はあるが、量産化できたならばスケールして安くなる。ロボティクスのほうがボトルネックになるだろう。

食費が安くなると人間の生きがいが問題になる。今の社会でもうなっている、とも言える。というのも、生活コストが安くなると働くモチベーションの維持が難しくなるから。暇は精神を蝕むもので、暇を潰すには才能とか特殊な教育が必要である。AIによってもたらされる危機は人類の暇のほうだと思う。

 

進々堂の柴漬けカレーパンがおいしくなかった……。大人気みたいなPOPがあった気がするのだが微妙である。柴漬けをそのまま入れるのは間違っていて、刻むべきだと思った。食感がよくない。

 

福田恆存『人間の生き方、ものの考え方』を読んだ

次のようなメッセージが書かれていた。よい本である。

  • 現代の日本は混乱しており、原因は言葉にある。人々は自分でも意味のわからぬ言葉を使っている。さらにその原因は明治の急な近代化と敗戦による文化の断絶。近代化は歴史的な必然のようなものだが、文化は急にはついてこない。馴染むのに百年くらいかかる。処方箋は歴史。自分の来歴をよく見ましょう。
  • 人間は本質的に孤独であり、自分のことをよく知っているということもない。だから他者なんてものはまったく理解できない。これをわかった上で、他者一般に適切な距離をとるとよい。人は自分のことを理解していると思いこむから、なんでも他人のせいにするのだ。

*1:negative capabilityは持っておいて留保はしたほうがいい